第291話、母と子
その香りは母性を引き出す。水天竜・シュリンはただその“子”を思い、想い出の中を漂っていた。
水を司る高貴なる竜を捕らえ、子と引き離された怨みも忘れ、幸せな想い出を何度も何度も思い返していた。
忘れられない幸福な日々。子と過ごす日常は、シュリンに大きな生き甲斐を与えていた。
その始まりは、突然にやって来た。
森深き僻地にある湖畔の端で眠っていたシュリン。竜の中でも上位の実力を持つシュリンに敵うものはいない。同族であろうとも、雄雌関係なく寄せ付けない。
無防備に身体を晒して、鱗に陽光を浴び、気ままに眠る午後だった。
「…………っ!?」
森に異常事態が発生する。
たった今、森の何処かで“龍”が生まれた。頂点として生まれ、頂点として生きる龍がまた一体、この地上に生まれた。
世界の絶対的強者が、ひとつ増えたのだ。
地形を変え、焦土を生み、自然すら弄ぶ。あの貴き龍がこの森にいる。
「…………」
あまねく生命と同様に、竜にとっても龍とは神。腹が減れば、その身を差し出して供物となり、気の向くままに殺される。居場所を求められたなら、明け渡さなければならない。
そして龍は子育てをしない。生まれた瞬間から強者である龍は、親子と言えども別の頂き。生来の強きに従い、本能で生きるのみ。既に親は去っている可能性が高い。
「っ…………」
未熟な龍ほど怖いものはない。
別の種族ならば、授乳を求めて彷徨う子へ、望むものを与えるだけだ。だが龍に親はいない。
腹を空かせた赤子の癇癪により、森が焼き払われるなど、有り得ない状況ではない。そうなればシュリンなど、
この森を越えて、気付いた全ての竜が龍から逃げている。全ての王者が神の意志に臆して、とにかく遠くへ身を隠そうと動いている。
シュリンもまた龍のいる森から棲家を移すべく、湖を泳いで正反対の方角へ旅立とうとしていた。住み易い故郷だったが、不運にも龍が生まれたのならば文句は言えない。
そこへ、鳴き声が聴こえて来た。
『ピィィ……、ピィィ……!』
鳴き声というよりも、泣き声だ。
森の方から湖へ向けて、その泣き声の主は飛んで来た。
「っ…………」
姿を見たシュリンは死を覚悟した。
濃い青色の龍が、泣きながら森の茂みから現れた。情緒は安定しておらず、どんな些細な不興を買っても殺されるだろう。
「ピュっ!?」
「…………」
恐怖と畏怖から凍り付くシュリンに気付いた龍が、驚きを露わに。
出逢ったシュリンは命を諦め、頭を下げて龍へと忠誠と敬意を共に表して挨拶した。首を差し出し、贄となる責務を果たす。
「ピュぃ……」
新たに君臨した龍は、不安そうに見るだけだった。眼差しは何処か寂しがっているように見える。
まさか龍だというのに、心細いのだろうか、はたまた空腹なのだろうか。
けれど、シュリンを食べようとはしない。
「…………」
心情を理解するには、種族が違い過ぎる。頭を上げたシュリンは湖へと潜った。
「ピュゥゥ……」
水面に姿を消す間際にも、龍の悲しそうな声が届くも急いで水中へ。
それから数十秒後に、再び湖面から浮かび上がり、陸地を目指す。
「ピュ……?」
「…………」
陸地にはポツンと龍が座っており、シュリンに涙目を向けていた。そこへ獲って来た魚を捧げ、慈悲を求めて頭を下げる。
「…………」
「…………」
何をされているか分からないのか、何も知らない龍へと、魚を鼻先で突いて勧める。
「……ピュイ」
やっと意味を理解したのか、腹を鳴らしながら魚を啄ばみ始める。大きな魚がみるみる食われ、安心する程の食欲で残さず平らげられた。
「…………」
恐怖心は依然として根強いが、不思議と安堵していた。
「ピュイ! ピュイっ!」
まだ生まれたばかり。一匹では足りないようで、催促されるままに狩りへ潜る。五匹は食べただろうか、龍の子はやはり龍だった。
その日から、奇妙な竜と龍の生活が始まる。
基本的には、シュリンの日常だ。変わったのは龍の世話を第一に考えるようになった程度。餌を用意し、生活を教え、森の知恵を授ける。
「ピュイ?」
「…………」
「ピュ!」
龍の子を連れて森を歩み、湖周りの樹や岩に身体を擦り付ける。こうして匂いを付けて縄張りを明確化し、他の竜へ知らせる。
それでも踏み込んだ竜とは戦い、誇り高く棲家を守り抜くものなのだと教える。
龍の子は泳げないらしく、湖内での知識の他は一度で覚えてしまった。龍は知性でも地上の頂きにあるらしい。
「ピュ〜イ!」
とは言っても、龍も一絡げには出来ない。龍の子は明るく元気で、遊びが大好きだった。シュリンとの水遊びが特に好きなようで、半日も続く事がある。
他者を蔑み、悪戯に殺し、覇者の威を漫然と振るう龍とは思えない。砂浜に足跡を付けて遊ぶ子を前に、面影すら見る事は出来ない。
それでもやはり赤子には変わらず、機嫌の悪い日もある。
「ピュイっ! ピュ、ビュイ!」
臍を曲げた龍の子は、湖畔で魚に背を向けて座り、苛立ちを表していた。食べたかった魚が出て来ず、それが気に入らなかったらしい。
しかし龍の子が欲す魚は旬のもので、今の湖には生息していない。与えようにも、そもそも存在しないのだ。
「…………」
そっと肩を掴んで食べるように促す。食べなければ腹が減る。痩せては大変だ。
「ビュイッ!」
「っ……!?」
龍の爪で引っ掻かれ、頑強な竜の鱗も切り裂いて、割れた肉から血が噴き出る。龍の力を初めて目にした。
おそらく龍の子は軽くやったつもりだろう。だが竜にとっては死神の鎌であり、世の生物を須らく殺せる絶対者の攻撃となる。
龍の子はまだ自身の爪で切り裂けないものはないと、知らないのかもしれない。
「ピュイ……?」
「…………」
心配したのか、龍が覗き込んでくる。
「ピュゥゥっ……」
涙を堪えながら裂けた手の甲を舐め始める。龍が竜如きに対して、傷付けた事を後悔している。
「…………」
「ピュゥ……」
懸命に傷口を舐める子を舐め、改めて魚を食べさせた。
この日からは肉も狩り、好物の幅を増やして対応する事に。龍の子は機嫌を損なう事も少なくなり、シュリンもまた子育てを学んでいった。
仕えていたシュリンは、いつの間にか育てていた。
「ピュ……、ピュ……」
「…………」
湖畔の夜は、とても静かだ。細波が心地良く、子の子守唄となっている。
規則正しく健やかに寝息を立てる子を眺め、包み込むように身体を曲げて目を閉じた。外敵から護るように、慈しむように、子を柔らかく抱き締めながら。
身を寄せ合って眠り、また朝日を受けて目を覚ます。次の日が楽しみという思いを、シュリンは初めて体感していた。
それが数ヶ月も続いたある時、突如として幸福は絶たれる。
「っ……!?」
妙な匂いを嗅ぎ取った瞬間だった。首筋や背にチクリと刺す痛みを感じたかと思えば、やがて視界は霞んで行き、意識を失った。
子の餌を湖から運んでいた際の出来事だった。幸いにも子は遊びに出ていた時だ。以前は狩りの間も湖畔でずっと待っていたが、最近は慣れたもので森で時間潰しをして遊んでいた。
引き離したのは、やはり人間だった。このような理不尽な真似をするのは、いつも人間だ。不必要に干渉し、生活を奪い、人間達の都合で利用される。殺される。
シュリンは静かに憎悪を滾らせていた。
子は心配要らないだろう。龍なのだから愚問だ。シュリンがいなくとも狩りは出来る。敵などいない。すぐに一時期の世話役など忘れて生きていける。
シュリンの憎しみは、自身の幸せを奪われたからだ。龍の子からは召使いとしか思われていなかっただろうが、シュリンにとって、あの龍は“子供”だった。シュリンは子の母だった。
母として子との日常が奪われ、シュリンは深い悲しみと憎しみに支配されていた。
「…………」
人間達に身体を変えられ、何かをされる間中も、妙な臭いにより意識は混濁していた。視界は霞み、感覚は朧げで、記憶にも残っていない。
気が付けば妙に暗い場所で、人間の雄や見た事もない光る線が浮かぶのを目の当たりにする。
「ピュ〜〜イっ!」
「っ……!!」
愛しい鳴き声を受け、急速に自我が戻る。
煙たい場所で何かに閉じ込められ、それでも向こう側に子がいる。もう再会は叶わないと諦めていた最愛の子を、再び目前にする。
「ピュイっ! ピュ〜イ!」
喜びに空を舞い、硬い棒の並んだ場所の向こうで待っている。臆病な子がここまで追って来て、シュリンが出て来るのを今か今かと待っている。
湖畔を少し離れるのも怖がって躊躇していたというのに、遥か遠くにまでシュリンを求めて探しに来たのだ。
言葉にならない思いが、シュリンの胸を満たしていた。
『……こちらにします』
「ピュっ!?」
子が、光る線に絡み付かれてしまう。
「ッ——!? ッッ————!!」
「ひぃぃ!? シュリンが暴れ出したぁっ!」
びくともしなかった硬い棒を曲げ、力任せに暴れながら子を助けに向かう。傷付こうとも肉が削げようとも、たとえ死に絶えようとも救わなければならなかった。
「ピィィ!? ピュィィ!?」
『————』
足掻く子がどれだけ叫ぼうとも、光る線は無慈悲に何かを進めている。何か悪しき状態へ持ち込もうとしている。
この時、赤子は龍としての力を殆ど使っておらず、本来ならすぐにでも至れる『龍の格』に達していなかった。その為に天使程度の干渉も許してしまう。
竜の母に合わせて生きていた赤子には、抗う術がなかった。
「——ッッッ!! ッッ——!!」
血を撒き散らし、傷だらけになりながらも牢を壊し、子へ手を伸ばす。
「ッ…………」
『…………』
だが……伸びた子の尾が、腹を突き刺した。
「…………」
それでも手を伸ばす。光る線を剥がし、子を護る為に。
あと一度だけでも触れる為に。愛だけは伝えたいと、子へと手を伸ばす。
「ッッ…………」
触れる寸前で尾が突き込まれ、投げ捨てられる。再会はシュリンにとっても子にとっても、最悪の形で叶ってしまう。
「っ…………」
「意識が戻ったか。やっと少しずつ治って来たから、もう少し耐えてくれ」
閉ざされた暗闇から目を開けてみれば、人間が腹を押さえていた。湖の底のような闇色を腹に当て、何かをしている。
また悪さだろうか。
けれど関係ない。
「っ、待って! まだ動けないよ!」
「っ…………」
子の匂いはまだ上にある。迎えに行かなければ。
たとえ殺されても、あの光る線から助けなければ。
「……分かった。あっちは俺が行く」
「…………」
「出来る事は少ない。それでもやれる限りの事をするよ」
この人間は、まるで子を思うシュリンのような強い目をしていた。今のシュリンなら、何がそうさせるのかを理解できる。察して余りある。
瞳に映るそれは、————愛だ。
「今いくよ、ヒューイ」
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