第267話、一大決戦で唯一暇をしている男
「…………」
自陣へ向かっていたリリアの足が止まる。
馬上から告げられた言葉を受け取ってしまい、どうしても次の一歩が踏み出せなくなってしまう。
「…………お母さんは死んだ筈です」
「本当に殺したと思っているのか? 街に買い出しにも行っているあの女が殺されれば、妙な噂が立ちかねないのに。気にかける者が囃し立てて事件にでもなれば、私と言えど危ういだろう」
背を向けたまま、会話をしてはいけないと分かっていても、どうしてもその可能性に縋り付いてしまう。
冷静にと自身に念じながらも、生まれた疑心は確かな希望を生んだ。呪いのように刻み付けられ、祓う術をリリアは持ち得なかった。
「……事実、いなくなった日以降、お母さんの姿を見た人はいません」
「だろうな。貴様を子爵へ送り出す事が決まってから、奴はとある場所にいる」
「その場限りの言い訳なのが見え透いています」
「私からその場所を聞いておかなければ、死ぬまで会えないとだけ言っておく。尚、今の貴様ならば、一声で連れ出せる筈だな」
コモッリは自信を持って発言している。
どうしても頭に浮かんでしまうのは、少し前まで当たり前だった明るい母と一緒に過ごす毎日。最愛の人との苦難多き日常。
そして何より考えてしまうのは、期待してしまうのは、母を今の居場所に迎えた時に想像される、約束された幸福な毎日。最愛の人との幸多き日常。
望んでしまう。多くを望まずとも、それだけは望んで止まない。すぐにでも会いたい思いは抑えられるものではなかった。何よりも無事を確認したい気持ちは、とても誤魔化せるものではない。
コモッリに頷く事が過ちであると察する反面で、どうしても排せない思いがリリアを躊躇わせる。
「…………」
事情が呑み込めないジークには真偽を見破る事は出来ない。ジークで見抜けないなら他の者等では叶う筈もない。
元同居人同士の場違いな会話のみが、交渉の場で交わされる。
「場所を聞きたいのなら、私達の投降を受け入れろ」
「…………」
「私が仮に嘘を吐いていて、あれが死んでいたとしても、確認を取ってから処罰すれば済む話だ。それも契約に盛り込めばいい」
「…………」
「あの英傑を上手く誑かしたのだろう? それだけの組織を率いる貴様なのだ。数名を捕虜として抱え込んだとて、小言で済む話だろう。賢く生きろ」
これこそが目的だったのかと、ジークは目を細めた。元より正攻法で受け入れられる筈はない。
だが黒騎士ならば、既に王をしても無視できない存在で、明らかに特別視されている。確かにリリアが本気で願えば、コモッリ数名は捕虜の形で罪を逃れかねない。
しかし、だからこそ尤もそうな台詞が浴びせられるのを、あえて見守る。今後を見据えてリリアを見定める。
コモッリが卑劣であり、リリアが苦しい葛藤により内心で鬩ぎ合っている事は分かる。しかし、答えはいかに。
そして遂に、彼女は決断をした。
「…………」
リリアは無言で歩みを再開した。
「なっ!? 馬鹿な真似はよせっ!!」
「嘘でしょっ……!」
どれだけリリアが母を慕っていたかを知るパーター家の面々は、確信していた結果とならなかった事を信じられずにいた。
有り得ない。母親を裏切るリリアだけは想像出来なかった。二人でいる時の笑い合う笑顔を想えば、この結果は有り得ない。
「あのリリアが母を見捨てたのっ?」
「母親に会いたくないのかっ!? おいっ、貴様!! 聞いているのかっ!」
騒ぐ血縁者達にも取り合わず、リリアは静かに去って行った。
「………………馬鹿な」
コモッリが最も理解に苦しんでいた。あの親子を最も知るコモッリは、リリアの弱さを熟知している。
だと言うのに、失敗に終わった。
何がリリアを変えたのかなど、想像すら叶わない。愛が冷めたのか? 有り得ない。母はやはり死んでいると判断したのか? 有り得ない。あの想い合う親子の姿は虚像だったのか? 有り得ない。
では何故……。
「交渉は決裂だ。貴様等が戻ったのを確認次第、俺達も攻勢の準備に取り掛かる。ギラン共々、覚悟しておけ」
「ぐっ……!?」
「っ…………」
実の娘を弄ぶような発言を繰り返すコモッリに対し、ハクトは物言いたげに睨み付ける。リリアに何が起きたのかを知っているだけに、憤然と殺意を向けていた。
拷問して情報を吐かせればいいのではないか。帰還したジークを見れば、それは悪手なのだろうが、どうにもそう思えてならない。
「我慢しろ。ここは形ばかりと言っても交渉の場で、あの嬢ちゃんが我慢したんなら、俺等はやっちゃいけねぇ。それは筋も通らねぇ。義理も果たせねぇ。ケジメは嬢ちゃん自身が付けるさ」
「……そうだな」
冷静に務めるダンに誘導され、共に引き返す。またすぐに前線へ駆り出される時を思い、一先ずは固い拳を解いた。
「だが戦場じゃあ容赦しなくていいぞ」
「あぁ……ぶつける相手がいて良かったよ」
開戦が待ち遠しい。姑息な交渉人への怒りを燃やしながら、物騒な考えを二人で共有していた。
その後、いち早く天幕へ帰還したリリア。中にはまだ寝息を立てて眠るレルガと、密かに佇んでいたカゲハの姿があった。
何処からか聞いていたのか、ヒサヒデが入った瞬間に魔眼で知らせたのか、憂うような気遣うような眼差しで単刀直入に提案する。
「……この戦が終わり次第、私が調べよう。草の根を分けてでも探し出してみせる。心配は無用だ」
「お願い。私からお伺いを立てておくから」
そこでその本人がいない事に気付く。
「ご主人様は……?」
………
……
…
エンダール神殿を見下ろす切り立った崖に、その姿はあった。
黄金の如く煌めく長髪を結い上げ、行く末を未だ知らない舞台役者達を見下ろすセレスティア。
風を読み、地を知り、人の心を解き、筋書きを編む異端児が決戦を見据える。
その眼は恐ろしく無情で、人や天使に何の関心も見られない。ただ流れに乗って動くならば、それでいい。定められた未来へと向かっていくのなら、それだけでいい。
「少し気になる様子でしたね。何を話していたのでしょうか……」
「……不安です」
「リリアさんの様子では、淡々としたものでは終わらなかったようね」
従者を二人だけ従え、生まれた疑問にも答える事なく空を見る。
言い付け通りに、露出を少なくした新しい騎士姿で立つ。以前は発育のいい自慢の胸元で気を引こうとするも、似合ってはいるが弱点も増えると叱られたからだ。
軽鎧だが、これなら防御機能は確保できる。代わりに身体のラインを強く見せるデザインにより、また見せ方を変更した。
(……クロノ様)
数日も会わない間、頭にあるのはその男の事のみであった。
決戦後の褒美を考えておくよう、既に指示がされており、この頃はどのようなものが最善かばかりを迷っていた。
『私か? 私は……また二人きりで稽古だろうか。最中は無論、思い返しても至福。最も重要な、よりお役に立てるという面で考えても一択だ』
カゲハはもう決めたらしい。それなら納得という願いだった。とは言え、予想していたものの一つだ。
「クロノ様……」
「——チュウっ!?」
「っ……」
背後から生まれた声に、歓喜で痺れた身体はすぐに反応した。
瞬時に振り返ったセレスティアから跪き、続いて慌てた醜態を僅かに見せるも、遅れた二人も顔を深く伏せる。すぐ背後、そしてすぐ目の前にいた魔王に、相変わらずも少しも気付けない。
ところが、ズレたサングラスのままワナワナと怯える小さな魔王は、セレスティアへと賞賛の言葉を送るところから始めた。
「や、やるようになったじゃないか……。……またもやこの俺の気配に気付くとは。だ〜れだを見破られたのは初めてだよ……」
「とんでもない事です。今からでも間に合うのではないかと」
「それこそ、とんでもない八百長試合が始まるよ?」
それでも挑戦してみようかと、魔王は対面した状態から、両手でセレスティアの目元を覆った。
「だ〜れだ!」
「マリーです」
「違います。だ〜れだ!」
「モッブです」
「違います。だ〜れだ!」
「エリカかもしれません」
「違います。だ〜れだ!」
「ではモリーで」
「違います。だ〜れだ!」
「アスラ——」
「この不毛な接待はいつまで続くの?」
根気負けした魔王が手を離してしまう。
奇跡の美貌が露わになる。感情無き瞳に、造り物めいた完璧な顔立ち。
神の悪戯で地上に生まれたとしか思えないセレスティアを前に、それでも動じない魔王は声色低く言う。
「我が【クロノス】の第一席たるセレスティアよ、接待たるや適度に終わらせよ」
「ですが——」
「これに関して“ですが”とか言うではない。口論で勝てない事は分かっている。俺がならんと言ったら、ならんのだ」
子供姿のクロノから、魔王関白宣言を受けて強引に口元を塞がれる。
誰にも触れる事の許されない唇が、いとも容易く、雑に塞がれる。
構われる度に甘美な快楽が脳へと、とても抗えない痺れる刺激をもたらしていた。
「おっと、邪魔をするつもりは無かったんだ。回り込もうとウサギ跳びで大ジャンプ中に見かけたから、お疲れ様を言いたくて」
「邪魔などではありません。本来なら私は常にお側に控えていて然るべきです。どうして連日もお目にかかれない日があるのでしょうか」
「うむ、出張だったからだ」
拗ねながらの責める口調にも、尊大に胸を張る始末。これでもあっさりと許してしまう自分に呆れながらも、主の頬を指で突いて微かな訴えを続けながら問う。
「……そのお姿は、まさかあちら側に向かうおつもりですか?」
「その通り。ちょっと断崖絶壁を攻めて侵入して来ます」
魔王はサングラスにタンクトップ、長ズボンを穿いて……チョークらしき白い粉の入った皮袋を腰に下げている。手先の湿り気を調節する為だろう。
形から入る魔王らしい出立ちで、神殿の背面から忍び込むという。
「君達が総出で働いてるのに、俺が何もしないわけにはいかないからね。クライミングして背後から妨害して来るよ。まさか背面から来るとは思ってないだろうからさ」
「クロノ様はあるがままにどうぞ。ベネディクトは私共で始末しておきます」
「うむ、任せる。ふんっ、見事に果たしてみせたならば、ちょっと前にも言った通り褒美をくれてやる」
「身に余る光栄です」
有り難い言葉を賜ってから礼を返し、膝を突いたまま目を合わせ、状況が分からず少し間の抜けた顔をする魔王をじっと見つめる。別れの瞬間まで、しっかりと眺めて楽しむ。
「…………」
「…………」
見つめていると、何を思ったのか突如としてクロノが、本人の主観的に悪辣だと思っている笑みを浮かべた。
たまに練習しているのを見かけた事がある。誰もが恐れ、怖気を余儀なくし、本能的に危機を悟らせる笑みなのだという。
「…………」
可愛いだけだった。堪らなく持ち帰りたくなるだけだった。
「じゃ、そろそろ行って来るね。みんなも気を付けて。おっきい怪我だけしないように。突き指とかも治してあげるから早めに言ってね。引っ張ったらダメだよっ? 人の身体はアホが作った粘土細工じゃないんだからね?」
「お待ちください」
「うん?」
振り返りながら注意事項を連発する背に、思わず声をかけていた。去ろうとするクロノに歩み寄り、その頬に思わずキスをする。距離が離れるに連れて空いていった心が一気に満たされ、身体は火照り、これが唇ならば自分はどうなってしまうのか。
「……祝福を。登頂を祈っております」
「割りとあっさり登れちゃうと思うけど……。なんなら、ここから直接乗り込んでもいいし…………暇なんだもん。暇だから崖でも登ろうかって感じなんだよね」
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