第219話、残り物の使い方

「先生、これ以上ここに留まるのは危険です。どうか一刻も早く避難してください」


 デューアは早朝稽古に赴いた師へ、差し迫った脅威からの避難を呼びかけた。


 朝焼けにもまだ早く、まだ光もない暗闇で。


「…………朝早過ぎて怒ってる?」

「い、いえっ、違います……」


 あらぬ誤解を受けるも、デューアは真面目な顔付きを取り戻して続ける。


「……ここまでお世話になった先生を巻き込むわけにはいきません。いずれ近い内に必ずお礼をしますが、今は緊急時です。一先ずは急ぎ、安全なところまで逃げてください」

「俺がいた方がいいんじゃない? 俺だったら戦力にもなるし、夜食の当番だってできるし、深夜に呼び出されても構わないし……」

「もう何が起こるか分かりません。家庭のある先生に万が一があっては、合わせる顔がありません」

「…………分かったよ。じゃあ準備もあるから、明日の朝稽古が終わったら出発しようかな」


 どことなく不満そうながらも、デューアの本気が伝わったのか翌日の退避が了承される。


 だがデューアにとっては、胸を撫で下ろせる返答であった。これにより心置きなくあと二度の稽古に臨める。


「すみませんっ! 寝坊しました!」

「よし、クーラ君も来たところで、今日は崖を登るよ」


 寝癖も整わない慌て振りでやって来たクーラにも告げ、師はアルスの近くに聳える山を指差す。


「…………真っ暗で見えないんすけど、キリタチ山のことですか?」

「名称は分からないけど、絶壁があったでしょ。俺と言えば壁、壁と言えば絶壁。というわけで、とりあえずクーラ君は普通に登ろうね」

「普通にって…………アレ、殆ど直角ですよっ?」


 岩肌は滑らかで滑り易く、登ろうなどと考える者はいない。


 登ったところで何があるわけでもなく、遠回りすれば歩いて登れるルートまである。


「大丈夫。大した高さじゃないし、命綱も付けるから」

「……ちなみに、デューアさんはどんな感じで?」


 差を設けられるのは本意ではない。クーラが対抗心を燃やして、普通ではない崖登りを訊ねた。


「デューア君? デューア君はね、昔、俺がやってた方法をかなり簡単にしたやり方でやってもらおうと思ってる」



 ………


 ……


 …



「ぐっ! クッ……!」

「はぁ……はぁ……」


 正気の沙汰とは思えない方法で登るデューアを、呼吸荒く見る。


 ピッケルを両手に二つ、しっかりと紐で縛り付けている。凹凸の無い崖肌に自分で突き込み、傷を作る。そこへ引っかけで体を持ち上げる。


 これを交互に繰り返す。


 鬼族のような突出した腕力でなければ、到底行えないものであった。


 しかもデューアは両足首を括り、重しとして岩まで下げている。


「半分までは来たかッ…………ぐぁ!?」


 汗が目に入り、気が抜けたデューアが滑落した。


 重りに引っ張られるように、身の毛もよだつ浮遊感と共に地面へ落下する。吸い込まれるように抗うこともできず。


「――――くおっ!?」

「危な〜い。でも安心安全の設計だから、何度でもトライしてみようか」


 頭上から降る声音に、二人して見上げる。


 自分達二人を縛る紐を辿った先…………僅かな凹みに右手の指先を引っかけ、宙ぶらりんになって見下ろす先生がいる。


 デューアと重しの重量を全身で受け止めながらも、平然と声援を送っていた。


「朝焼けでも観ながら、三人でいい思い出でも作ろうよ。折角こうして一緒に稽古してるんだからさ。景色と共に辛かったトレーニングを思い出して、自信に変えて欲しいもんだよ」


 デューア側の紐を引いて崖に近づけ、登り易く導きながらしみじみと語る。


「やべっ、今から別れが辛くなって来た。明日は泣いちゃうかもな。どうしよ……」

「すんませんっ! 俺らはそれどころじゃないですっ……!」

「うん……?」


 目頭を抑えて旅立ちの日に思いを巡らせるも、二人には一切の余裕がない。


 どちらも指先や手の平からは血が流れている。皮がめくれ、鋭い岩で切り、痛みとも常に戦っている。


「……デューア君はそろそろ重りがない方がいいね」


 投擲されたナイフがデューアの足元を掠め、紐が切られたことにより重りの岩が崖下へ落ちた。


 解放感から身体に再び力が戻るも、足元で砕ける岩の音が嫌にでも高さの具合を伝えてくる。


「心配はいらないから。下に誰もいないことを確認してやったから」


 そのような心配をしているのは、先生だけだ。他人の身を案ずる余裕はない。


「ふぅ………………フッ!」

「足も使っていいからね。まぁ、登れなくなっても俺が引っ張って上がるから問題はないんだけど。自分で上がり切りたいでしょ?」

「足を使わずッ、登り切ります!」

「おおっ……! どっかの王女くらい負けず嫌いだ……」


 感心しているのか呆れているのか、デューアが登り始めたのを機にまた一足先を行く。


 吹き付ける風が恐怖を煽り、高さを思えば鼓動は加速していく。竦みそうになるも、頼りない腰元の紐を信じて一心不乱に崖を上る。


「……………………………………はい〜、ゴ〜ル」

「っ……着いたッ!」


 デューアより僅かに早く登り終えたクーラを引き上げ、既の所で遅れたピッケルが崖際にかかる。


「お、お待たせしましたっ……!」

「凄いね、本当に足を使わずに上がっちゃった。成長し切って入門したのに成長を感じてしまったよ。ナイスガッツ」

「はぁっ、はぁっ…………っ、ご指導の、賜物です……」


 込み上げる達成感と、大の字に寝転び強く感じる地面への安堵。心地良く、肺一杯で空気を取り込む。


 先程までは気絶が頭を過ぎるような息苦しさであったが、新鮮な空気を取り込むごとに気が楽になっていくのを感じる。


 と、強い眩しさを横顔に感じて目を開ける。


「……やっぱり壁は素晴らしい」

「…………」


 アルスの全貌、それを超えて広がる大地、更に向こうから浮かび上がる太陽。


 大地も、雲も、青空も照らし、全て揃って朝焼けが完成する。壮大と言うのが陳腐に思える大らかさで、目の前に広がっていた。


「すげぇ……」

「壁を越えた先にこういう景色があると思うと、厳しい鍛錬もし甲斐があるんじゃないかな」


 こじ付けをかました先生が、絶景から目を離さずにいる弟子達の紐を解く。


「帰りは普通のランニングだから、今はゆっくり景色を堪能しようよ」


 三人に、思い出が加わる。別れはあと一日。


 このアルスで多くの事が起こり、また起きようとしている。


 今ばかりは全てを忘れ、乗り越えた壁の上で、手にした至極の情景に浸っていよう。



 ♢♢♢



 同時刻。交渉を申し出て、一夜明けた朝。


「…………」


 朝、起床したパッソはトニーからの返答を、確かに受け取っていた。


 止め処なく悪寒が駆け抜け、この怪物がどれ程の巨悪かを思い知る。


 デスクからベッドに向けて置かれた…………交渉をメイド達に通達した部下の頭部。


 名はスタンリーと言い、目玉を剥き、舌を出してパッソを嘲り、トニーの代弁者として交渉を拒絶している。


「……恐ろしい。まさに伝聞通りの幻獣……」


 物語から飛び出した正真正銘の怪物。


 昨夜……と言っても二刻前に就寝し、浅い眠りの中にある内にこれを用意して出て行ったのだ。ここにライカンスロープがいた事実に、眩暈が止まらない。


「ですが……これでまた正体に近付けるやもしれない」

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