第206話、天使を知る者


「…………」


 食後のコーヒーの味は生まれた沈黙に相応しく、苦々しくあるのだろう。


 主人は眉間に皺を寄せて、言い淀む仕草を見せている。


 コンロ・シアゥ周辺と異なり、和やかな午後の時間が流れている。富裕層御用達の店も多いからか、誰もが上品に過ごす。


「……次に殺人が起こったなら、怪物は黒騎士様の実力を加味した上でも、充分に勝てると判断しての犯行です。今すぐに帰還すべきです」


 再三に渡り、請い願う。


 雇っているメイドと言っても数は多く、犯人を探し出すことが困難な以上、影で倒せる機会はそう有り得ない。


「う〜ん……何度も連続殺人をして逃げ延びてるんだね?」

「はい。王国では聞かないので、おそらく他国からやって来たのでしょう」

「なら何とか見つけて裏で倒しておくよ。滞在期間は伸びないよう努めるし、セレス達にも迷惑はかけないからさ」


 王都に戻り次第、ネムを誘導して適当に調査させようかと考えてはいたのだが、主人は頑なであった。


 面倒ごとには巻き込まれないようにと願う気持ちはあるが、止められる気もしない。お願いと言われれば、頷いてしまうだろう。


「分かりました。お早い帰還をお待ちしています」

「あと、一つだけ言っておかなくちゃならないことがある」


 主人は更に表情を引き締め、真っ直ぐにセレスを見据えた。


 ただならぬ内容を予期させる面持ちとなり、自然と身体が竦みそうになる。


「さっきのセレスの推理なんだけど……言うまいと思ってたけど、やはりこれだけは言っておこうと思う」

「…………」


 まさか推論のどこかに綻びや穴があっただろうか。


 瞬時に思い返すも、自分では見当たらない。主人だけが気付けた何かがあるのかもしれない。


 そのような瞬時の思考を終えた後に、やけに緩慢に感じられる動きで主人の口が開いた。


「君から聞いたこの話…………俺が発見したみたいにして言っていい?」


 真面目な顔付きで、真摯に願われる。


「…………」

「こんなことさ、言う人いないんだろうし有り得ないとは思うんだけど、俺が解明したことにして言ってもいい?」


 暫くの間、凛とした面持ちを見合わせ、続く沈黙の中で見つめ合う。


「……エリカの手にキスをしたと聞きました」


 目付き鋭く、声色が低くなったのを受けて、魔王が居住まいを正す。


「事実ですか?」

「……あれはマナーって聞いたからだよ。俺もグラスの際は使用人の端くれ、王女に恥をかかせまいとした行動だったんだ」

「カゲハがベッドに押し倒してもらったと言っていました」

「そんなこと言ったの? 言い方が脚色されてあらぬ誤解が生まれてるよ」

「私はどちらもされた覚えがありません」

「…………うん」

「これを反省し改めると言うのであれば、この件に限らず好きに仰ってください」

「反省した。ごめんなさい」

「はい、ではそのように」


 子供が諭される様と重なる一幕が終わる。今後、改善されるかは分からないまでも、言質が取れたので言うことはない。


 満足したのか冷めた紅茶を気にせず飲み、そろそろ退店時と考え始める。


「コーヒー豆だけ買って来ていい? このコーヒー、好みかもしれないから」

「私が購入して参ります」


 立ち上がろうとするその肩を、素早く移動した主人に手で押し止められる。


「いいからいいから、寛いでてよ」

「…………」


 まるで逢い引きそのものの様子に、似合わない乙女心が疼く。


 むず痒くなる胸に、満たされる幸福感。旅立たなければならない時は迫っており、終わりに近付くことに強い寂しさを感じる。


 犯人さえ見つけられたなら共に帰還もできただろうにと、未熟さに溜め息を吐いて、更なる精進を心に決めた。


「――ここ、いいかな?」

「……遠慮してください」


 対面に腰を下ろした人物に、臨戦態勢を取る。


 気配が掴めなかった。確かに心ここにあらずであったのかもしれないが、こうも接近されるまでに油断していたつもりはない。


「そんなことを言わずに少しだけだから頼むよ。腰を下ろしてほんの少しばかりの会話を嗜むだけ、言葉の送り受け取りを幾許か行うだけ、どうだい?」

「お断りします」

「君は……なんだか怖い娘だね。僕の勘が凄く怖い女だと言っている」


 軽薄な口調は若い声色で、顔の半分以上までフードで隠すローブの男。武器らしき物はなく、身体付きもどちらかと言えば痩せ型だ。


 得体が知れない。それは次の一言で確信に変わる。


「ではさっさと要件を終わらせてしまおうか、――セレスティア君」


 瞬時に、男を殺すべきかを思案する。加速する思考で男の情報を読み解き、戦闘の度合いまでも見据え始める。密かな暗殺か、確実さを重視して周囲を巻き込むのも止む無しとするか。


 胸元には短刀へ変化させた〈黎明の剣〉があり、能力は恒常的に使える状態だ。


「無視したければお好きなように。勝手に一人語りをさせてもらおう。そういうのは得意なんだ」

「…………」

「まず僕が話したいのは、アークマンの《聖域》を絶対に発動させてはならないということ。以前と違い、今回の《聖域》は確実に成功してしまう。あくまで僕の予想だけれどね」


 紡がれた言葉は、殺意を一時的に押し留めた。


「《聖域》により第一天使・リリスが復活すれば、世界は終わる。誇張でも何でもなく、一瞬にして全く別の世界に変わってしまう」


 初めて耳にするリリスという名称。


 第一天使と言うからには、エンゼ教が奉る“白き天女”と予想された。


「この世は冷たく閉ざされ、全ての生命は“愛”を得てしまう」

「……そのリリスという天使の権能故にですか?」

「そうだとも。第一天使リリスの脅威は、第二天使なんて鼻で笑ってしまうくらいさ」

「あなたはよく知っているのですね。天使関係に明るいのでしょう?」

「訊かれたならば答えよう。マリア・リリスとも呼ばれる彼女の権能は――――」


 男の声音は、その権能がどれだけ恐ろしいものかを知っていた。





「――――《母》……」





 それは、あってはならない“愛”を強制する禁断の権能だ。


「彼女より格下の生命は遍く彼女の子供となる。母である彼女のみを無条件に愛し、文字通り全てを彼女に捧げることになる。勿論、君も、アスラ君も、モリー君もね」


 第一天使よりも格下となると、ほぼ例外なくと言える範囲で適応されてしまう。


 人も、魔族も、動物も、魔物も、植物も……。


 世界中の生物がリリスの子供となり、己の全てを捧げて彼女を愛してしまう。


「死ねと言われれば死ぬし、そこらの男……動物でも魔物でもいいけれど、交われと言われれば交わるし、狂えと言われれば狂ってしまう。感情も意思も主義主張も成長も退化も何もかもが思うがままだ」


 ベネディクトなど比較にならない馬鹿げた生命体であった。


「言われればと表現したが、実際はリリスがその意思を抱いただけで実現してしまう」

「…………」

「これだけは防がなければならない。君ならもう理解している筈だ。賢い賢いライトの末裔だものねぇ」


 その恐怖を正しく想像できてしまうセレスティアは、寒気に立つ鳥肌が止まらない。


 何よりも……一瞬でも他の者を愛してしまうという事実に心が耐えられない。


「……権能とはどのような代物なのですか?」

「はい、興味が出てきた。対策を取るには、成り立ちや詳細を知らなければね。それに会話というものはやり取りでなければならない。楽しいなぁ、楽しいよねぇ?」

「…………」

「あぁ、そうだった。天使の権能ね、権能」


 男は人差し指を立てて、説明口調で詳細を説いた。まるで師が弟子に教えを施すかのように。


「権能はね? ルーファ様が戯れに生み出した第一天使、これに備わる魔力に生まれた権利だ。特定の概念に干渉できるという、偶発的に生まれた想定外の産物なのだよ」

「白い魔力は、特権の証というわけですか……」

「理解が早いな、その通り。だがしかし、ルーファ様のお力は唯一無二で、天使が持つのはその贋作。白という色彩は特に問題ではなくて、全くの別物だよ。けれど、それでもあのルーファ様の系譜だ」


 天使は生まれる過程で、存在意義に適した概念を行使する権利を取得できた。


 男の言では、そのルーファと呼ばれる存在が生み出したからこそ使える能力であると察せられる。


「アークマンはリリスに生み出された際に、意義に沿った的確な概念が見つけられなかったのだろうね。だから権利を駆使して、代わりに色々と能力を作ったんだ。彼の《聖域》が不完全で、制約があるのはそのせいだろう。付け入る隙もその辺にあるのではないかな?」

「発動前に権能自体を無効化する手段は?」

「それは無い…………とも言い切れない。実際に試してみたことがないからさ。確実なのはルーファ様くらいだろう…………いや、高位の悪魔ならもしかしたら、もしかするのかもね。僕の知る限りは無い。仮に打つ手が無くなったならば、君の実家にある〈偽天の像ケセト〉でも使いなよ。あれはとてもとても馬鹿げている」


 男から引き出せる情報はこのくらいだろうと、心中で満足する。


 だが先程から度々に渡って名の上がる者がいる。残る唯一の気がかりと言えた。


「先程から名の出て来る、ルぅ…………」


 ……言葉が続かない。名を告げようとするも、何故かその名前だけは言葉として発言できなかった。


「……その第一天使を生み出した存在は――」

「次は僕の番だ。与えてばかりでは懐が寂しくなるばかりだろう。慮っておくれ、若者よ」


 ルーファの話題を避けたいのか、その男らしくなく会話を寸断してしまう。


「こうして情報をあげて協力した代わりに、あの人の行動を知り得る限りでいいから教えて欲しい」


 ちらりと横目を流して言う。


 その先には、店員と一緒になって真剣にコーヒー豆を選ぶ男の姿がある。


「他にも情報が欲しいね。僕からはあまり近寄りたくない。特に彼の逆鱗に触れるのだけは避けたい」

「…………」

「富嶽を放り捨てていたよ。古の巨人族がする所業じゃないか」


 隠されていた魔王の強さが、まだ何段階も跳ね上がる。


「それは私が決められるものではありません。正体も不明な怪しい輩になど、あの御方が良しと言えども私がお諌めすることになるでしょうが」

「まっ、聞いてみてくれる? 一応ね」

「…………」


 初手で大きな借りを作ったのは、この為だろう。魔王への印象を良くして、恩を売った形にする。


 知らなければ取り返しの付かない事態となっていたに違いない。これだけ有益な情報ならば身元が不明とは言え、主人は怪しいからと突っぱねることはしないと予想される。


 この男の情報をそのまま信じるならばではあるが。


「ですが裏があるであろう訳の分からない取り引きをせずとも、あなたを捕縛すれば良いだけです」

「あ〜らら、そうなる? はっはっは、面白い展開ではないかい? あっはっはっは参ったなぁ……」


 太腿を叩いて、さも可笑しいと笑う男。密かに光の粒子を周辺に散らして逃走手段を無くす。


「けれどねぇ…………僕は大して強くはないけれども、それでも君や君の仲間達に組み敷かれる程に不器用でもないんだよねぇ」


 だが男は座ったまま足を組み替え、悠然と構えるばかりであった。


「僕が怖いのはあくまでも、“唯一絶対の不可能”を成してしまったあの人だけだ」


 その姿が、霧がかる。


 白い霧に溶け込むように朧げになっていき、男は肉体そのものを消失させた。


「また情報が欲しそうな時や用がある際には顔を出そう。さらばだよ……では、“人形遣い”でした」


 その者はフードから覗く口元に悪意ある笑みを浮かべ、コーヒー豆を購入し終えた男から逃げるように消えていった。

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