第169話、エピローグの一、言葉一つではい絶望



「…………」


 廃教会跡から平原の空を見る。


 曇天すらも呑み込み、空を衝く黒い力。


「――っ!? …………な、なんだ、あれは…………」


 祭壇から、目を覚ましたレンドが上がって来た。


 グレイが悪の手に渡ったこともあってレンドの顔は冷や汗塗れで青褪めており、謎の魔力について我が目を疑っている。


「…………」


 ちらりとそちらへ視線を向けるも、キリエは再び遠くの空に目をやる。


「……知らない」


 地面に座るキリエが素っ気なく返した。



 ………


 ……


 …





「――ブレンッ!!」


 小さな影が宙へ飛ぶ。


 血潮を飛び散らせながら。


「あぁぁあああああああああッッ!!」

「…………」


 痛々しいブレンの叫びが轟き、斬り飛ばされた右腕から飛散した血がラギーリンの頰を濡らす。


「ぶ、ブレンッ! ……ヤダッ、う、うそ……」


 剣を置き去りに駆け寄り、動転した震える手でブレンを抱く。


「ふぅ……」


 そしてやはりラギーリンに訪れる“胸のすく思い”。


「これでいつか分かってくれる……。しかし塩とするには魔力を込めないといけないのか。予め試しておいてよ、かっ………………」


 しかしすぐに顔色が変わる。


 子供達を通り過ぎ、振り返って告げるラギーリンの表情からは能面のように感情が抜け落ちる。


「ふーっ、ふーっ、うぅぅ……!!」

「ぶ、ブレン……」


 左手で少し離れ位置にある木剣を手繰り寄せ、立ち上がろうとするブレン。


「やめてっ、もういいから!!」


 抱き着くキリエに回す余力がないのか、霞む目でラギーリンを睨み上げる。


「ッ、ギッ……!!」


 歯が欠ける程に食い縛るラギーリンが、グレイを振り上げる。


 殺す、それを決定し、人にあるべき躊躇いなどなくラギーリンはそれを決行す――


 ――あなたはいずれ、無垢なるものをも感情のままに手にかけ始めるでしょう……。


「――――ッ!!」


 グレイを振る手が金縛りにあったように硬直する。


 とある女性から受けた言葉が脳裏を過り、無意識に固まる。


「…………分かってくれると信じているよ」


 それだけ平坦に言い捨て、ラギーリンは踵を返して去っていく。


「う、っ……」

「ブレンっ! っ……ど、どうすればっ」


 気を失ったブレンを前に、青い顔で狼狽えるキリエ。


 見るのも恐ろしい腕の断面からは血が多量に流れ、咄嗟に止血しなくてはとポケットなどを探り始める。


 そんな時、


「――大変じゃないか」


 籠らしきものを手にした黒髪の男が、いつの間にかそこにいた。


 ブレンの右腕を拾い、急いでこちらへ歩んで来る。


「……切り口が…………いや、これなら何とかなるな。ブレン君を押さえててくれる?」


 すぐにしゃがみ、ブレンの右腕を繋げて黒い魔力で患部を覆う。


「っ、何して――」

「かなり綺麗な切り口だったから今なら繋げられる。すぐに元通りになるよ」

「あんた……」


 そのような所業は神仏の為すことだ。


 この男が何者なのか、事実であれば感謝もするが不安が大きく、このまま任せていいのか逡巡する。


「大体何があったのかは想像できるけど……可哀想に……許せないな」

「…………」


 見ず知らずの子供を憂い、視線を冷たく硬質なものとする男。


「……あたしがバカだった」


 自分が責められているような気がした。


 ここ数年の愚かな自分を。


 後悔が懺悔となって堰を切ったように溢れる。


「あんな奴の言葉を真に受けてっ……っ、くそっ、くそっ、くそがぁっ……」


 救い難く情け無い。


 母から託された弟一人守るどころか傷付けるだけだあった自分に、涙が止まらない。


「かあさん……っ」


 こんなに泣いたのは、母を失って以来であった。


 母を亡くし、すぐに父を亡くし、強くあろうと剣を取った。


 父や祖父のようにブレンが危険な真似をしなくていいようにと、ソーデン流を継ぐことを決めた。


 レイシアと似ていたブレンには、なるべく穏やかに過ごして欲しいと願った。


 しかし何故かブレンは剣に没頭した。


 生まれた頃から家にいた教師代わりのラギーリンに、ブレンが剣を捨てないのは自分が趣味などにうつつを抜かしているからだと絵も止めた。優しく諭すも、甘やかすから効果がないのだと厳しく接することにした。


 それでもブレンは剣を振り続けた。


 だから……。


「……君の優しさにブレン君はどこかで察してるよ」

「っ、なんで……!!」


 傷痕が分からないまでに復元したブレンの腕を一通り診た後に、キリエへと籠を差し出す。


「……これはブレン君からお願いされてたものだから、君から渡しておいてくれる?」

「…………」

「お姉さんとお祖父さんの為に習いたての薬を調合したいから、材料を集めて欲しいって頼まれてたんだ」

「っ…………」

「ドレスを着た時に切り傷が結構あったから心配したんだと思う。ついでにお祖父さんにも何か作ってみるって。……最近、町の外が危険なのを知ってたみたいだから、危なくても平気そうな俺に森で採って来て欲しいってさ」


 再び涙が溢れるキリエのふわりとした茶褐色の頭を撫で付ける。


「勿論、依頼料も入ってたよ、律儀なもんだ。ブレン君も君と同じで、この子なりのやり方で君達を守ろうとしてたんだろう。……ちょっとここら辺で手に入らないものもあったから近くの町を回ることにはなったけどね」


 戦士のように血や土で寝巻きを汚し、穏やかに眠るブレンへ使い古された木剣をそっと添える。


「少し分かりにくいだけで、君達はとても素敵な家族だよ」

「っ…………」


 柔らかく撫でる手を止め、そして――


「さて、この子ばかりが活躍したんじゃ魔王・・の名が廃る」

「…………ぇ?」


 頭から手が離れる間際、気配ががらりと力強いものに変わる。


「小さな勇者君には休んでもらって、あの男は俺に譲ってもらおうか。断面の鮮やかさから考えてニダイの真似事もしてるみたいだし、思い知らせてやる」


 男が魔王らしからぬ爽やかな微笑みで告げ、立ち上がる。


「君達にも、ご両親にも、誰にでも伝わるように倒す。胸のもやもやがすっきり晴れるくらいにね。約束だ」




 ………


 ……


 …





「……知らないだと?」

「知るわけないじゃん。ていうか魔王軍が来てるんなら、魔王でも来たんじゃない?」

「ば、馬鹿なことを言うな。……魔王であろうが、あのような真似が可能な筈がないだろう!!」


 レンドが指差すと同時に、黒き閃光が終わりを迎えた。


「なら知らないって。自分の目で確認して。それだけ話せるなら馬も乗れるでしょ」


 何故なのかここにいるブレンを横抱きに、来る時には無かった見慣れない籠を持って帰路に就く。


 外傷は見当たらないが、血の跡まで……。


「……ま、待てっ! ならば我等も加勢に行かねばならん!」

「あたしとブレンは行かない。ソーデンは恩を忘れたりしない、絶対に……」


 宝剣グレイが解き放たれたというにも関わらず、少しの焦りもないキリエが去ってしまう。


「…………なんなのだ」





 ♢♢♢





「…………っ」


 呼吸一つ、息を呑むのも憚られる。


「…………」


 王女も、騎士も、兵士も……。


 剣聖も、勇士も、そして勇者も……。


 魔王が放った魔力の気配に多くが気絶して中、残った者達全て。


 誰一人、言葉を発せない。


 誰一人、動けない。


 誰一人、視線を逸らせない。


 ――これが、【黒の魔王】……。


「…………これならきっと彼等にも伝わっただろう」


 天空を突いた暗黒に大した感慨もなく、しばらく穴の空いた暗雲から覗く青空を眺めていた魔王。


 いや、何が魔王だ。


 そのような存在ともとても呼べないではないか。


「よし、それじゃ……」


 魔王が振り返る素振りを見せる。


「ッ……!!」

「ひっ……っ」


 ただ一人の黒い双眼が、平原の者等を居竦ませる。


 生命を削られるように、身体から力が抜け落ちていく。


 腰が抜け、尻餅を突き、許しを乞うように膝を突く者も出始める。


「久しぶりだな、勇者達よ」

「っ、あ、あぁ……」


 出現時と変わらず魔力も気迫も感じさせない魔王が、一歩を踏み出す。


 たった一人のただの歩みに同調し、有りもしない圧を受けて人も魔物もなく後退りする。


 あのラギーリンをまるで意に介さず、あれ程までに圧倒して消滅させる魔王にもはや戦意など微塵も残る筈がない。


 歩み寄るのは人如きが太刀打ちできる類のものではなく、仰ぎ祈るような超常の存在だ。


「それにしても、これだけ数がいて礼の一つもなしか? 礼儀のなってない奴等だ」

「何の礼だ……」

「あの程度の敵に恐れをなして傍観を決め込んでいたから、代わりに倒してやっただろう? 礼はないのか?」

「ッ……!!」


 ぽっかりとした穴のある背後の空を指し、挑発するように言う。


「まぁ今回は俺が来なかったとしても、そちらのお姫様には策があったみたいだからいいさ」


 セレスティアと目を合わせて言い、嘲笑うように続けた。


「それにお前達の命は常に俺が握っているようなものだ」

「どう言う意味だっ……」

「前にも言ったぞ。俺がその気になればどうとでもできる。そうだろう?」

「っ…………」


 その通りだ。


 鍛え上げられた精強なる王国兵の心は既に屈している。


 中には信仰心が芽生える者等までいる程だ。


「お前達は俺が気まぐれに与えた猶予によって生かされている。くくくっ」


 邪悪に他者を嘲笑う傲慢なる魔王。


 しかしセレスティアはこのような時でも戦女神然として凛々しくあった。


 退がる者達を責めもせず、美貌を煌めかせて自らが前に出て気丈に告げた。


「どうかこの者達をお見逃しください。代わりに……私がそちらへ参ります」

「いや展開が早いな、何段もすっ飛ばしてるじゃないか……」


 王国軍に衝撃が走る。


「せ、セレスティア様っ!! なりませんっ!!」

「お下がりください! お考え直しをッ!!」

「御身は何としても護らねばっ!!」


 クリストフとアサンシアを初め、騎士達がセレスティアの前へ進み出る。


「もうこの他に打つ手はありません」


 頭を振り、庇う皆を押し退けて王国の為にその身を捧げようというセレスティアの姿に、兵達の心に火が灯り始める。


「ふっ、いいだろう。その美しさ、清らかさ、勇ましさ、構成するどれもが俺に相応しい。すぐにでも我が物として……」

「っ……」


 あまりの恐怖や怖気からか、セレスティアがぞくりと震える。


「存分に貪り、穢し、鳴かせ、俺色に染めてやろう……」


 破滅を齎らす魔王の手が見目麗しき王女へと伸ばされ、邪まな文言で大陸の至宝であるセレスティアを辱める。


「だが、安心しろ。そうしたいのは山々だが今回は君を連れていくつもりはない。軍の指導者は元の位置に戻りたまえ。…………ほらっ、早く」

「…………」


 魔王に手で促され、眉根を寄せるセレスティアがクリストフ等に退避させられる。


 あのような物言いに不満げである。さぞ虫唾が走ったことだろう。


「やいっ、魔王!!」

「やい魔王? やい魔王……?」


 さしもの魔王も理解に時間を要するようだ。


 続いて姉の姿に奮起したエリカが率先して魔王へ立ち向かう。


 未だ幼さがあるとは言え快活さのある美しさで火の灯りを思わせる髪を靡かせ、勇敢に歩み出た。


「やいなんて乱暴な酔っ払いとかが選ぶやつだぞ……。この国の王女はこんなのばかりなのか? まったく……まるで自分の尾を追いかけ回す犬のようだな」

「お前が犯人かっ!!」


 突如として狂犬の如く激昂するエリカを、ランスや騎士が焦って抑える。


「な、なんなんだ急に……この魔王に対して無礼な……」

『……むしろ感心するわい』


 嘆かわしいとする魔王の元へと、バブーシャンを連れた【沼の悪魔】が近寄る。


「エリカっ、このバカ! 何考えてるんだ!!」

「もう、鈍いなぁ。よく考えてみなよ。あれだけの戦闘をして、あれだけの魔力を使ったんだよ? ここで逃すと倒せる機会を失うかもしれないじゃん」

「……た、確かに」


 エリカの言や魔王に人間味の見えることも相俟って、兵の者等にも微かな希望が芽生える。


「……まぁよく分析できていると言いたいが、俺くらいになればお前達を絶望させることなど言葉一つあれば充分だ。仮に魔力が空だとしても関係ないのだぞ?」

「どうだかな……」


 少しも警戒を緩めないソウマが、ハクトを腕で下がらせて言う。


 しかしエリカの意見には大いに賛成ではある。


 心に余裕が生まれた兵達の士気が上がっていく現状に、好転の兆しを見て、後に憂いなく拳を握る。


 しかし――


「そうか? 俺は俺にならば可能だと思うのだがなぁ……」


 それは悪辣の証明。


 ほんの微かに緩んだ空気すら謀略の上で計られており、次の瞬間には嘲笑と共に失意の奈落へ叩き落とす。


 絶望に絶望を上塗りする。


「……う〜ん、君はどう思う?」


 まさに、最悪の一言で。











 ――アスラ…………。









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