第165話、人類みんなのことを考えているらしい男
鬼が放った暴虐の波動が地を削り、平原を分かつのを目にして卒倒しかけたのも束の間、悲劇は続く。
それは彼にとって、起こりうる中で最悪の悲劇となった。
「……っ!?」
覚えのある地鳴りが始まる。
ギャンの首元にぶら下がるのは、蠕岩虫グリューを呼ぶ為の角笛である。
「ギィっ!? ナ、何故ダっ!! グリューだト!?」
しかしギャンはそれを吹いてはいなかった。
当然だ。
魔王軍を名乗り意気揚々と戦に臨んだはいいが、劣勢……あまつさえ罪を擦り付け、巻き込む予定であった本物らしき魔王の配下が現れた。
そして、想像を絶する怪物同士の闘いが行われた。
信じられないし想像もしたくはないが、グリューと言えど一撃で粉砕、あるいは一瞬で焼き殺されかねない。
――顔色が悪い。どうかしたのかな?
「ギッ!? き、キサま!!」
――遊びは終わりにしよう。
「ドういうつもりダっ!! グリューは貴様ノ仕業か!?」
――見てみたまえ。
左の長い
「…………ソンナ……」
嘘だと言って欲しい。
塔を思わせるほど高々と地を破り突き出たグリュー。その姿を目にしたギャンは、途方もない絶望感から身体の力が抜け落ちていく。
本来ならば岩で出来た鱗を纏い、とにかく雄々しく誇らしいまでに大きい。それがグリューであった。
だが地底から顔を出した巨大な蠕岩虫は、あるはずのないマダラ模様をしていた。
いや、模様ではない。
点々と
明らかに手遅れの状態で苦しみ足掻いている。
小さな幼体の頃より育てて来たグリューが。
育て方や手懐け方と共にグリューを連れてきた本人の手によって。
――もういない。誰も。
「ぁ、アあ……!!」
放り投げられた二つの物体。
「ボンゴっ!! ぶ、ブンゴぉぉ……ぉお……」
長き時を共に歩んで来た相棒達の頭を抱き抱え、状況も立場もなく泣き崩れる。
――残ったのはこの場の魔物と、君だけだ。
いや違う。遺跡にはまだ多くの非戦闘員や子供もいる。
ギャンの民であった。
いや、待て。
――民か……。……ゴブリン風情が本気で言っていたのか?
剣から伝う血の量が、明らかにボンゴとブンゴ二人分とは思えない。
――ゴブリンがここまでの夢を見られた。
「ぁぁ……ぅぁァァ……ァア嗚呼ぁぁあア!!」
負けたのだ。
この者との騙し合い。
いつ手のひら返しで裏切るかの勝負において、負けたのだ。
――もう知り合ってどれくらいになるだろう、十分じゃないか。
悲しみの底で、涙に霞む視界でギャンが最後に捉えたのは……。
――もう……人の真似事は十分だろう?
魔物の楽園をと夢見た自分を嘲笑い、爽快とでも言いたげに手を伸ばす裏切り者であった。
♢♢♢
揺れる平原に、怪訝そうな厳しい視線を向けるセレスティア。
「――セレスティア様っ!」
「……今ですか」
アスラ達の闘いが中断したのを幸いに、新たな危機を察したクリストフが駆け付けた。
「アスラさんや【沼の悪魔】のいるこの状況で呼び出すことがあまりに無謀なのは、知恵持つ者ならば理解できるはずですが……」
地面を突き破り、悲鳴を上げるような様にて出現した蠕岩虫。
「ヒッ……!?」
「ぅわぁぁああっ!!」
無意識下のうちに発せられる悲鳴や絶叫。
何故か。
塔のように飛び出た蠕岩虫にではない。それはむしろ見るも酷い状態にあった。
悍ましきは、その蠕岩虫に纏わりつく異形にある。
『ほぅ、これは珍しい』
「…………」
顎を撫でる【沼の悪魔】が、そのこの世の生物とは思えない存在に関心を示した。
蛙のような顔面に、人のような歯並び。
面に対して小さな魚や
瘴気を纏ったそれらが何十匹と蠕岩虫を食い漁っている。
ケタケタと嗤いながら、歯から血を散らして。
「なんだ、あれは……」
「……あんま見ない方がいいぞ。俺でも気分が悪くなって来た」
よく見える位置にて【沼の悪魔】の呼び出した魔物を目にしていたハクトやソウマでさえ、堪えられようのない悪寒に鳥肌が立つ。
バブーシャンには野性味のある雄々しさも感じられたが、あれらにはどうしようもない嫌悪感が湧き出し、込み上げてくる吐き気は耐え難い。
『ん……?』
暗雲より雲の如き瘴気を纏う巨大な何かが、バブーシャンを押し潰しながら降り立つ。
五十の眷属、“泥鈍危機・ドゥルノーア”。
巨象の顔をし、泥を生み出す猪を模った棍棒を携えた二足の鈍重な戦士。
『これはこれは、またこちらも奇異なものよ。やれぃ、バブーシャン』
緑の炎を更に燃え上がらせるバブーシャンが巨象の兵を押しやり、獰猛に襲いかかる。
しかし巨象兵は棍棒から重く鈍い泥波を生み出し、バブーシャンの半身ごと押し退けてしまう。
『なぁにをやっとるか……、しゃんとせい』
先程と一風変わった怪獣同士の殴り合いが始まる。
「――あれ等は味方だよ。怖がらなくていい」
呑気とも取れる穏やかな声音で、その者は現れた。
降り立った足元から、白い塩の大地が広がっていく。
「……ラギーリン」
「…………」
鋭利な視線でソウマが射抜くのは、宝剣グレイに左腕から左眼にかけてを侵食されるラギーリンであった。
ダークエルフ特有の茶色の肌は、陶器のように真っ白で滑らかなものへと変質していた。
少なくとも人族の肌ではなくなって来ている。
更に異様なのは、侵食する左の眼窩。
【沼の悪魔】を思わせるも空なのではなく、虚。思わず誰もが視線を背ける程に陰鬱な感情を増大させる、虚な暗闇がそこにはあった。
「てめぇ、やってくれたなぁ……」
「君達のその目……。……なるほど、レンド君と同様にやはり王女から何か聞かされているみたいだね」
遠くからこちらへやって来ようとしている王女を睨め付け、溜め息を漏らす。
「事実なんだろ? 王女様方や遺物を狙ったり魔王軍を手引きしたり、あげく……ブレンを襲いやがった。おまけにそのニダイの剣が目当てってのも仰ってたぞ」
「……化け物だね、あの王女は」
背後でのたうち回る蠕岩虫の気配や轟く音にも構わず、殺意を持って相対する。
「少し疑っていた自分もいたが、その姿見りゃあ疑いようもねぇよ。人の道から外れた外道が。人間やっててそんなに窮屈だったか? あん?」
「落ち着きたまえ。実力行使でどうこうするのは、僕にとっても不本意だった。だがもうこうするしかないし、これは必要なことだよ。誰かがやらなければいつか手遅れになる」
「はぁ……?」
不審な者を見る目のソウマとハクトに対するラギーリンの主張は、常人には理解し難いものであった。
「――歴史の証明だ」
宝剣グレイを眺めながら語り始める。
「僕はこの剣と契約した。宿る悪魔の血はやがて僕の魂を贄として、再びこの世に……ゾ=ウルトを顕現させる」
「お前が……悪魔になるってのか?」
「そうだよ、そして【天遊する白雷龍】クラウ・レガン……。あれを呼び出し、戦う」
「……何の意味がある。いるかも分からない龍と戦う為にこんな馬鹿げた真似をするなんて理解できねぇな」
「それだ、正にそれが理由だよ」
「…………」
苛立つソウマの言を受け、ラギーリンはその軽蔑も受け入れるとでも言いたげな眼差しで続ける。
「僕は、龍とは神や人類の守護者ではないと確信している。人なんて彼等からすれば虫けら以下だ。護る価値がどこにある。それに見返りは? 無い。僕等が彼等に与えられるものなど有りはしない。ほら、こうして考えてみれば明らかだろう?」
神でも守護者でもなく龍をただの脅威、災厄とする。
「彼は目障りな悪魔がいたから戦っただけだ。ただの気まぐれなんだよ」
「それで人間が護られたならいいじゃないかっ! 結果が良ければ――」
「その矛先が虫けらに向く可能性はまるで無視かい?」
「っ…………」
言葉に詰まる。
「君達は飛び交う目障りな虫を殺しても何も思わないだろう? 何故、龍はそうならないと言える。龍だけじゃない。魔窟も、そこの遺跡も、世界に点在する未知なるもの全てに言える」
異様な風貌となったこの男の言に、納得している者まで出て来ている。
「過去の……神代とまでは言わないが、古代や記録に残されていない時代の何らかの脅威が目覚めるかもしれない。先人達はその苦難を乗り越えただろう。だが、今再びその時代の脅威が目を覚ましたら? どうなる? 脅威無き現代に生まれ、温く緩く小競り合いばかりだった我等はどうする? 術はあるのか? 生き延びる術は?」
「…………」
ソウマは思い出していた。
ラギーリンはかつて、遺跡には未だ古代に作られた兵器が眠っていると声高に訴えていた。
それは明確な人類の危機であり、すぐに国へ伝えるべきだと言って、慎重派の兄のシュギーリンと度々激論を交わしていた。
「兄シュギーリンはいつまでも認めず議論議論と一向に先へは進まなかったが、僕は違う。話を聞け、耳を傾けろ、そればかりでは革命はならない。成すべきことは成さねばならない。やり遂げなければ意味がない。気付いているのに知らんぷりはできない。それが、使命ってものだろう?」
独白にも似た演説。
「だからやる。悪魔となって証明する。僕は徹底的に正しきを求める」
左腕と融合した宝剣グレイ。悪魔の血を数滴吸い、その内には未だ眷属が棲まうという。
「……っ、まさかあれが悪魔の眷属ってやつか!?」
「そうだ。五十三体いたとされるゾ=ウルトの眷属。あれは四十三の眷属、“喰遊危機・ゲコン”……。地を喰らいながら泳ぎ、決して満たされることのない食欲に従って地上の物質を貪り続ける」
「て、てめぇっ、どこまでイカれてんだ!!」
肉をこそぎ落とされるように喰われ続け、蠢く力もみるみる弱まっていく蠕岩虫。
あの悍ましい眷属達の食欲は、間違いなく次には自分達へ向かうだろう。
今も難なく岩の肌を喰い破りながら、ぎょろぎょろと動く丸々とした眼で戦場の者達を品定めしている。
そして先日話に出たココンカカなる存在。仮にそれが野に放たれたりなどすれば……。
「何を危惧しているのかは分かるけど、そんな事を許す筈がないだろう……。あれらには魔王軍を始末させる。本当は彼等に僕のこの役目を担わせるつもりだったけど、存外に扱い難くてね。もう君達を傷付けさせたりはしないよ。僕の目的はあくまで、正しい歴史の証明と“世界へ警鐘を鳴らす”ことなのだから……」
使命感とでも言うのだろうか。
誰の反論も聞き入れないだろう。それだけの意思の強さを感じる。
本気なのだ。本気だからこそ、魔王軍を利用し、王女を狙い、初めは遺物を、そしてニダイの手を離れたのをいい事に大本命であった宝剣グレイに標的を変え、契約し、実際に成してしまった。
古の眷属を従え、地上の者達が触れる事すら叶わない別次元の存在である『悪魔』へと堕ちる術を手に入れた。
「……いずれ分かってくれる筈だ。これは正しき行いだと」
近寄って来る乱入者へ、恐ろしく無関心な眼差しを向けていたアスラが……ふと少し離れた位置に、クリストフやリリアと共に到着したセレスティアへと視線を流す。
「…………」
指示を仰ぐ為であろう。セレスティアが軽く頷くのを一瞥した。
「アスラ君は下がっていてくれ。まさかこんな展開になるとは思っていなかったが、予期しない客は僕が――」
「おい……」
横合いを通り過ぎた頃合い、アスラの呼び掛けに振り向いたラギーリン。
その胴に、腕力任せの剛撃が振われた。
「ッ――――」
……それが見えたのは、アスラ本人を除いて二人。
セレスティアと【沼の悪魔】のみだった。
信じ難い体捌きと剣捌きにて、防御不能の戟が受け流されていく。
鈴が一つ鳴ったと思わせる、澄んだ音色が遅れて耳に届く。
次いで、土が爆ぜる爆発音。
「うおっ!?」
「うぅ……!!」
行き場を失った衝撃は地へ押し付けられ、地面が裏返る。
「……言い忘れていたけど、僕にも予想外のおまけがあったんだ」
ラギーリンの視界に映るは、本来見えるはずのない無数の道筋。
長き時をニダイと共にし、終わるその時まで極上の技巧にて振るわれて来た宝剣グレイ。その内にはやがて眷属とは別に、『剣の記憶』が宿る。
「今の僕は悪魔の能力の欠片と眷属に加えて、ニダイの残した剣技も扱える」
最悪の能力を有する知恵あるニダイが生まれた。
騒然とする戦場で、本人が自負する通り想像を絶する脅威として龍へと臨む。
「ですがそのままの再現はできていないようですね。音が鳴るということは僅かに衝撃を受け流せていない証です。以前に目にしたニダイは音もなくあしらっていましたから」
「今の一つだけでそこまで見抜くか。……しかし、これくらいのことならできます」
驚くほどに気楽な一振り。
剣の記憶が導く道導に従い、その剣先から三つの小さな疾風の如き斬撃が放つ。
突っ立つ人々の隙間を擦り抜けた斬撃が、魔物だけを六体斬り殺して塩の粉とした。
グレイに傷を付けられたものは尽く塩となるのも変わらないようだ。
「……一振り六体。一つにつき二体。確かに元がニダイならば驚異的であるのに変わりはありませんね」
魔力を駆使した剣技にてこれ程のものはセレスティアにも難しい。
「むしろこれが完全な模倣でないからこそ、僕に相応しい。僕だけの道を歩めるのだからね……」
「楽しそうだな」
鈴の音がまた一つ。
「寄せ集めの力を披露し、悦に浸り、芸者気取りか?」
「ふっ、僕は学者だ。転職する気はないよ」
二つ、三つ、四つとその音は鳴る度に耳障りに濁っていく。
「くくっ、刃物で脅し、力で主張するのが学者か。存外に気が合いそうだ」
「ッ……!!」
苦虫を噛み潰したようであった。
受け流す剣にも揺らぎが生まれる。
段々と武術の気配を帯びていく剛撃。戟が伝える強力さに、繊細で華麗な剣技に綻びが。
「違う……」
「リリア殿、武とは矜持。当人の手により磨かれ、積み重ねられ、誇りと共に育つもの。故に見る者はその歴史を感じ、思わず魅入るものなのです」
両者を見比べるリリアが発した呟きの意味を、クリストフは察していた。武人二人は研鑽した武を他者に振るわれるニダイを憐れむ。
無作法に、我が物顔で見せ物にされる武に心を痛める。
「お前は学者ではない。さっさと薄っぺらい偽善者の皮は脱ぎ捨てろ」
鈴の音が途切れ、耳鳴りが残るほどの激音が響く。
「……偽善の何が悪い。善行をするのに違いなどない。正しきは裏表などなく正しいんだ」
「俺が良い悪いの議論をするように見えるのか?」
地鳴りに聞こえるまでの強撃をまともに受け止めたラギーリンの左腕から背中にかけて、いくつもの角が生えていく。
また一つ変質の段階が高まる。
「君の攻撃は受ける度に大きく侵食度が加速していくんだ……勘弁して欲しい。これ以上の計画変更は避けたいんだよ」
「っ……」
アスラが右足を引き、半身となる。
「避けた……?」
「あいつでも避けんのか……」
あのアスラに、身を躱させた。
仮初めと言えども、反射的に危機を悟る程に洗練された突き技であった。
「…………」
「そんなに暴れたいのなら…………ギャン、出番だよ」
飛び退いたラギーリンが、右手に持つものを翳す。
誰もが気になっていたラギーリンが右手に引き摺る一際武装レベルの高いゴブリン。
それはセレスティアや兵達はおろか、アスラですらこれまで目にした中で最も邪悪な光景であった。
「〈ゾ=ウルトの虚眼〉」
「ギッ!? ギィィやァァ――――――――!!」
二つの目玉が破裂する。
「ぐっ……」
「……酷いことしやがる」
凄惨なあまりハクトが目を背け、ソウマが痛々しいゴブリンの絶叫に嘆きを漏らす。
しかし生物を穢す悪魔の力の一端は、ここから真価を発揮する。
「
「ギッ、か、…………」
「他の魔物全てにそれを伝えるんだ。それが唯一その苦痛を和らげる」
「…………」
尋常ならざる痙攣を繰り返すゴブリンに告げ、放り捨てる。
するとゴブリンは、格好も構わず死に物狂いで駆け出していく。
「あぁ、君達は心配しなくていいよ。魔物だけにしているから」
生命の魂を穢し、対象は決して治ることのない恐慌状態に呑み込まれる。
自我も正気も保てない苦痛の中で自我を失うことも許されず、気が狂うことも許されず、ゾ=ウルトの気まぐれを遂行することでしかそれを和らげる手段はない。
洗脳や催眠で仕上げるよりも遥かに忠実で必死に働く、都合のいい人形が出来上がる。
そしてこれは、伝染する。
「ギッ、ガッ!!」
「ギャっ!?」
ギャンが他のゴブリンに飛び付き、虚な瞳で目と目を合わせる。
弾ける双眼。これにて同一の効果が植え付けられた。
これに果てはなく、ただ増大するのみ。
「ギャン、君にはこれまで世話になって来たからこれ以上苦しめるつもりはない。アスラ君に今の君がどれ程のものなのかを見せてあげて、それで君の野望を終えよう」
「ッッ――――!!」
滂沱の如く涙を流して恐慌状態から抜け出せる喜びに打ち震え、異常な速度でアスラへと体当たりする。
肉が潰れる音が鳴る。
「…………」
「もし暴れ足りないのなら、彼等を相手してくれ。そもそも僕は君の敵ではない」
アスラは自らの太腿辺りに付着する肉や臓物、飛び散った四肢の破片や安堵した死に顔の頭を見下ろす。
ゴブリンにあるまじきパワーであった。
完全に自壊する程に己の筋力を引き出し、迷いなく実行する。
並の人間が食らったならば、このゴブリンと同じ肉塊となるだろう。
これがオーガなら、トロールならば……。
「っ…………」
「……お前は間違ってる。こんなことするやつの言い分なんざ誰も耳を貸さねぇよ。…………っ!?」
塩の大地より、数え切れない無数の鋭き棘が飛び出す。
一瞬にして、ソウマを取り囲むようにしていくつもの棘が急所へと突き付けられていた。
「…………っ」
視線のみを彷徨わせて周りを盗み見ると、
「…………」
「…………」
セレスティアやアスラを含め、その一帯全ての者へと塩の棘が寸止めされている。
今のラギーリンは、この者達をして瞬間的に全滅させることができる。
「言い分に耳を貸す必要はないんだ。その段階はとうに過ぎたし、僕ももう後戻りはできない。僕が何を為すのかをその目にするだけでいい」
じっとしていろとの警告をすると、すぐに塩の棘が粉末化して風に流れる。
誰もが今更ながら察する。
領域内において万能かつ数体以上の眷属も従え、近距離においてはアスラをも凌ぐ。じきに魔王軍も全て配下となるだろう。
いや、その気になれば全ての生命を従えられる。
「だけど君はこの魔物さえも全滅させかねないな。では、これでどうだろう。これまでの眷属とは格が違うよ? ――〈冬凍危機・アヴィバリス〉」
この者は、魔神かそれに類する何かだ。
魔神の背後から冷気が吹き荒び、大きな影が浮かび上がる。
全身を覆うローブを被り、大杖を突き、亀を思わせる面をした何か。
「――分かった、もういい」
メキメキとアスラの肉体が隆起し、一段も二段も増して鬼気が漲る。
「もういいとは?」
「その技は雑魚には過ぎたるものだ。弔い代わりに貴様は俺が殺す」
「……凄いね、心底感心するよ。これだけ見せてもまだ戦う意志を保てるのか……」
重厚極まる黒戟の重量を振るい続けたアスラの身体には、やがて修羅が宿る。
より強靭に、より力強く、より分厚く。
更に速く、更に自在に、更に重く。
申し訳程度に身に付けた防具が張り裂けんばかりに、筋肉が膨れ上がる。
両腕を覆う手甲が、憤りを表すようにぶちぶちと音を立てる。
「多少のやり過ぎは覚悟しろ」
「お、おい、アスラ。お前まさか……」
ソウマとランスのみが知る。
未だアスラは、本気ではない。
しかし、とうとうアレが来る。しかも今回は、両腕のようだ。
「ハクト君、私達は引きます。いいですね、アスラさん」
「え、オレも……?」
突然に名を呼ばれて驚くハクトに構わず、更に訊ねる。
「どれくらい離れれば良いですか?」
「可能な限り遠くにだ。巻き込まれたくないのなら急げ」
「……分かりました。ハクト君、行きましょう」
ハクトへそう命じ、アスラが応えるなりセレスティアは踵を返そうとする。
『これこれ、お主の番は終わりじゃて。順にやるのが道理よ』
曇天の下、淀んだ緑光が嬉々として妖しく燃え上がる。
背後には沼に下半身を浸からせ、骨の狒々に押さえ付けられる象の巨兵がある。
「……魔王軍も災難だね。同情はするよ」
アヴィバリスをあくまで脅しとして見せただけであったが、今のこの二人は今後の妨げになりかねない。
そう判断したラギーリンが初めて敵意を抱く。
比類無き三つ巴が始まろうとしていた。
………
……
…
と、ほぼ同時に、とある異変を察する者達がいた。
「…………」
「…………」
それは、クリストフとアサンシア。
何とかラギーリンや眷属を前に王女二名をいかに安全に避難させようかと周囲に気を配らせていた。
だからこそ、その些細な変化に気が付く。
「…………何処へ行った?」
眷属達が、いなくなっていた。
蠕岩虫を喰い尽くしていた怪魚達も、骨の狒々に押さえ付けられていた巨象兵も僅かに目を離した間に消えていた。
貪欲さと勇猛さで無作法、無遠慮にこの世で暴れていた眷属達が、突如として姿を消していた。
「…………?」
ラギーリンの背後から凍気を帯びて出現しつつあったアヴィバリスの巨影もみるみる薄くなっていく。
振り向き訝しげにしているラギーリンを見れば、彼の仕業ではないのは一目瞭然だろう。
そして…………徐々に他の者達も僅かな異変に違和感を感じ始める。
トン、そのような軽やかな音が一部の者達に届く。
それはトロールの使っていた物らしき地に突き立っていた大剣からであった。
「……ふぅ、遅くなっちゃったけど、何とか間に合ったみたいだね」
強者達が支配していた戦場に、また一人……男が舞い降りた。
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