第162話、少年の記憶

 

 夢の中、あるいは想い出がふと思い起こされたのか。


 今では朧気なものがほとんどだが、その中でもあの人の穏やかな笑顔は鮮明に思い出される。


「ブレン、私の相手をしてくれて嬉しいのだけれど、そろそろキリエお姉ちゃんみたいに趣味を作ってみたらどう?」


 キリエの絵を柔和な笑みで眺めていた病床のレイシアが言う。


 心底からの嬉しさを表していることが明白な、ごく自然に浮かべられた穏やかな笑顔。


 側らの幼きキリエも、いつも違った褒め方をしてくれる母に見せることができて満足げだ。


「ではそろそろ私が剣を教えよう」


 熊とも呼ばれる厳しい父が、ブレンが答えるより先にハキハキと声を上げた。


 本人にその気はないのは家族や使用人ならば知るところだが、どうしても威圧感を感じてしまう。


 だがやっと姉と同じく剣を教えてもらえるのだと、抑えられない興奮が先に来た。


「あなた、教えてあげるのはいいけれど、怪我ややり過ぎには注意してくださいね?」

「あ、あぁ、すまない。無論だ、厳しくなどしない」


 最愛の妻からの諫言に、柄にもなく照れながら応えた。


 自分はこのような父しか知らないが、あの剣の鬼がと噂しているのをよく耳にする。


 彼を知る者はみな信じないであろうレイシアの自室での一幕といった風であった。


 自分達にはよくある日常の幸せな光景。


 中心にレイシアがいて、ベッドのサイドにキリエと自分、そして遠慮がちに少し離れた位置にいる父ヤーバン。


 ここによく担当医を務めていたラギーリンが加わる。


 レンドやソッドなどは何故か一人でしか母と会ってはいないようであった。理由は今も分からない。


「あなたのお父さんもお祖父様も、ニダイにだって勝てるかもしれない凄い剣士なのだから、ブレンもきっと上手くなるわ」


 いつものように、母のほっそりとした手が柔らかく頭を撫でる。


 ベッドの側で常に話し相手になってあげていた。


 今になって考えると、ただ甘えていただけであった。


 この頃には、当たり前と思えた一時だ。


 次の日。


 母の病も快方に向かい、近頃は外を歩くことも多い。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

「……うむ、ここまでとしようか。ブレン、休みなさい」


 中庭にて剣の素振りを教えてもらい、続けて十回ほど繰り返した。


「奥様、タオルです」

「あらありがとう、カチュア。……ブレン、汗を拭いてあげるわ。――よいしょっ」


 侍女からタオルを受け取ると、ふいに立ち上がり木陰から四つん這いのブレンへ歩み寄ろうとする。


「お、奥様、陽の元に出られてはお身体に障りますっ!」

「大丈夫よ。動ける時に動かないと、身体を横にしていると痩せるばかりだもの。むしろ弱ってしまうわ」


 焦る侍女が声を荒らげるも、レイシアは悪戯が成功した子供のような無邪気な笑みを見せていた。


 これまでは使用人が声を張り上げるなど、厳格なソッドの影響から有り得なかった。


 レイシアの影響は屋敷の者達と雰囲気そのものを変えていた。


「レイシアっ、私がやるからお前は椅子にかけていなさい!」

「まぁ、あなたまで私を邪魔者扱いするの?」

「じ、じっ、邪魔者になどしていないではないかっ!」

「大きな声を出さないで? びっくりしてしまうわ」

「うっ、……すまない」


 頰を撫でられて赤面するヤーバンに、またもや楽しげなレイシア。


 仲睦まじく、心和むものがある。


「ほら、顔出して? あたしが拭いたげる」


 弟の稽古をウズウズして見守っていたキリエが、母の代わりにごしごしと汗を拭ってくれる。


 流石はソッドをして光るものがあると言わしめた姉だ。


 凄く痛い。嬉しくもあれど、削られるようであった。


「キリエ、そんなに強くしては傷付いてしまうわよ?」

「……でもブレン、汗でビショビショだし……」


 慌てた母が歩み寄り、キリエの手を取って、


「こうするの。ぽんぽんってしてあげたら優しく拭けるのよ?」

「おお……!」


 感心するキリエが、拭き終わっている筈の自分の顔を度々拭う。


「……残念ながらブレンに剣の才は感じられんな」

「っ……!!」


 どきりと心臓が高鳴った。


 言葉の意味というよりは、父の憐れむ表情と声音で察した。


 もう剣術はしてはいけないのだろうか。


 こんなに楽しいのに、取り上げられるのだろうか。


「あら、あなたの仰る才能にそんなに意味があるの?」

「……下手に剣士となっては、敗北し死あるのみだ」

「仕事に繋がらなくてもいいじゃありませんか。それに子供の頃から私達大人が道を閉ざしてしまうのはあまりに性急だし、何より可哀想だわ」

「…………」


 いつになく強い口調で言うレイシアに、困り顔のヤーバンは反論し辛いようだ。


 そんな夫を尻目に、レイシアは自分達を抱き締めて言う。


「色々なことを経験して欲しいわ。あなた達はお祖父様やお父様の血のお陰で、思い切り動けるように産んであげられたから……」


 病弱で幼少期からベッドで生活していたレイシアにとって、それは何物にも変え難い幸運であった。


「レイシア……」


 侯爵の娘として生まれたレイシアが、わざわざこの辺境に嫁入りしたのは静かに療養できるからだ。


 嫁選びに興味のなかったヤーバンは、侯爵たっての希望である為だけにレイシアを迎えたつもりだった。


 それが今や、かけがえのない存在となった。


 ひとえに彼女の病に負けない強い心と、明るい性格からくる魅力故だろう。


 だが……、この頃よりレイシアは体調を崩すことが多くなる。


「コホッ、コホッ! ……はぁ、はぁ、ごめんね、ブレン」


 泣きそうな顔のブレンを、一層痩せたレイシアが微笑む。


「そんな顔をしないで? お母さんはすぐによくなるわ。こんなのいつものことなんだから」

「おかあさま……」


 溢れそうな涙を指で拭き、強い意志を感じる瞳で言う。


「あなた達が大人になるまで、私は絶対に負けないから」


 母にしては珍しく、やけに力強いものを感じる言葉だった。


「あなたはお外で剣を楽しんでくれればいいの。あなた達が楽しそうに身体を動かしているのを窓から見聞きしていたら、本当に元気をもらえるの」

「っ! っ!!」

「ふふっ、ありがとう」


 激しく頷くブレンを、慈しむように見つめる。


 母が元気になってくれるのなら、母の望みならばと、ブレンはその日からより懸命に剣を振るうようになった。


 時間の許す限り、精一杯に振っていた。


 この言葉がなければ、剣を置いていただろう。


「ブレン君、そろそろ……」

「そんな……まだいいじゃない」

「無理をしてはいけません。奥様は病を治されることに全力を傾けるべきです」

「…………そうね」


 ラギーリンにやんわりと促され、レイシアの部屋を後にする。


 部屋を出る際にレイシアの不安げな表情が垣間見れ、その時のことが印象に強く残っている。


 そして、半年もの闘病の後……。


「……キリエ、ブレンをお願い……。ブレンも……お姉ちゃんを困らせないようにね……?」


 もう諦めたかのような掠れ声に、姉弟は涙が止まらない。


「あなた……みんなを……」

「待ってくれっ!! 私にそのような器用な真似はできない!! お前がいてくれなければっ!! 私などっ……」

「大きな、こえをださないで……?」


 側らで嗚咽を堪えて祈り続けるヤーバンの手を握り返し、いつもの軽口を絞り出す。


 その場には険しい顔付きのソッドもおり、次にレイシアは静かに彼と目を合わしていたように思う。


 ブレンは自分のことで精一杯で、記憶に残ってはいても周囲に気を回せてはいなかった。


 この日から、日常は瓦解する。


 レイシアが去った、この日から……。


 ………


 ……


 …




 意識がはっきりとしていく。


 強烈な気怠さを感じながらも目を開けると、いつもの天井が見える。


 朝だろうが、感覚的にかなり寝過ごしてしまったように感じた。


「…………」


 そっと目元を擦ると……どうやら涙が浮かんでいたようだ。


 だが思い出せて良かった。


 また剣を振る決意を固められたのだから。


 やはりいつだって母は助けてくれる。


 見ていてくれている……。


「…………っ!!」


 そこで昨夜に襲われたことを思い出す。


 腕の包帯を見て、犯人を確信する。


 ………


 ……


 …


「……っ!! ぶ、ブレン君っ!? 連れ去られ……たんじゃないっ、どこに行ったの!?」


 護衛を任命された女戦士が水を替えに行っていた僅かな間に、ブレンは姿を消していた。

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