第140話、剣の宴
ニダイ湖にある特別観覧席へ向かうエリカ達の前に、筆舌し難き異常な光景が現れる。
「うわっ、すっごい……」
「……これは……」
老齢に似つかわしくない生気溢れるクリストフの顔付きが、険しく歪む。
セレスティアから聞かされていた誇張されているであろう話よりも、遥かに甚大な被害。
遠くに見える森は直線に抉られている。これはいい。
いや決して良くはないが、それよりも明らかに無視できない景色が広がっていた。
湖を囲む周囲の崖は、内側が大きく削られ、残った後も細かい亀裂だらけ。
一体何が起これば一夜……否、一瞬にしてこのような地形となるのか。全く想像すら出来ない。
伝説に聞く最高位のドラゴンが暴れればこのようになるだろうか。
あるいは神の裁きが天より下されれば、この有り様になるのだろうか。
いや、どのようにも思い描けない。
予想すら叶わない。
「……帰還した方がよろしいかと思われます」
「同感だ。目にしただけで血の気が失せてしまったよ……。眩暈も酷い。脚も震える。だがしかし……んぅ……セレスティア様の命令では私とて覆せない。それに、アレを見てみたまえ」
冷や汗を流すクリストフに答えるリッヒーが指差した先には、この大惨事にも関わらずニダイを見物する多くの人々が。
それは昨日を優に超えていた。
落石などがあり得る危ない箇所は既に封鎖されており、狭まった観客席は雑多な人混みで溢れている。
おまけに陽気な合奏、ちょっとした食べ物の歩き売り、奇異な容姿のパフォーマー。
既に、雑然とした祭りであった。
「我等が王女殿下に抜かりはない。既に、セレスティア様の推薦という触れ込みでニダイとの一騎打ちが宣伝されている。この盛況ぶりでは……やれやれ……私も頭は回る方なのだがね。苦し紛れの代案の一つも出て来ないよ」
かのセレスティア直々の推薦とあって、期待感はソッド等が挑戦した際を上回る程であった。
「だがそれも、宴の最後まで続くとは思えないが……」
「…………」
彼女は本気でニダイ打倒後の展開まで考慮しているようであったが、それは彼女以外の者達全ての理解からは程遠い。とてもとても遠いものだ。
ニダイはあまりに強過ぎる。
「……えっ!? あれ!?」
「エリカ様、何か気になるものでもございましたか?」
何かを見つけたらしいエリカが突然に驚きを表し、クリストフが素早く近寄り訊ねた。
………
……
…
「……塩おむすびって、なんでこんなに美味しいのだろう……。やっぱり至高だな。塩味って凄い……。ねぇ、おじさん」
決戦前にと用意したお弁当のおむすびを掲げて、二週間ぶりの塩おむすびを讃美するグラス。
一口食べ、改めて塩おむすびの旨さを確認していた。
宴に使われる船場は急拵えで作り直されおり、その端で木の柵に腰掛けて呑気に朝食を楽しむ。
「……あ、あんた、死ぬかもしれねぇってのに、正気か……? あと俺はまだ四十二だ。おじさんじゃねぇ」
「紛うことなきおじさんです」
声をかけられた小船で作業中の村人が、呆れた様子で呟く。
他の船も漏れなく修繕が必要で、すぐには使えそうにない。
領主よりグラスを小船でニダイの元まで運ぶよう指示されている為、不安定な足場で船の調整に汗を流していた。
「やるべき事は既に終わっています。私の仲間に取りに行ってもらったものも無事間に合いましたし、あとはもう挑むのみです。ご安心を。今日の私はすこぶるやる気に満ちており、刀の冴えも…………」
「…………」
静かに気を漲らせる様子であったグラスの側面から、橙色の髪色が映り込む。
じーっと間近で、エリカがグラスを観察する。
「……………グラス?」
「殿下、私が兄であれ弟であれ、決戦前なのです。精神を落ち着かせ、脳内にて戦闘の構想を練り上げたく存じます」
「ご、ごめん……。さっき別れたばっかであんまりにも到着早いし、おにぎりなんて食べてたからつい……。弟君っぽいし、確かに不謹慎だったかも……」
いつになく真剣なグラスに、エリカが申し訳なさそうに俯く。
「じゃあ……さっきも言ったけど本当に危険になったらちゃんと逃げるんだよ? 命が一番なんだから」
「お気遣い頂き、ありがとうございます。肝に銘じます」
おむすびを置いて立ち上がり、恭しくお辞儀をして了承するグラス。
「うん、なら私は行くから」
「はい」
「………でも一応、確認させて? 今日の夕食って何が出るの?」
背を向けたまま、クリストフ達と帰ろうとしたエリカが問いかけた。
「さぁ? なんなんでしょうね。楽しみですね」
「グラスだーっ!! ……な、なんでこの町にいるの!?」
くるりと反転して目をパチパチとするエリカ。最早グラスだと断定していた。
「……まぁ隠すことでもないので構わないのですが、……何故お分かりになられたのですか?」
「王女の問いに“さぁ、なんだろね”で済ませるのなんてグラスくらいなんだよ!? 王女の疑問を夕食まで放置するなんて、とっても有り得ないんだよ!? さっき弟君は食材の調理法から何から何まで教えてくれたもん!」
驚きを隠せないままでもつらつらと確証の理由を述べるエリカに、グラスはこれはしてやられたなと顎を撫でる。
「……エリカ様、お元気そうで何よりです。本日は私が宴を盛り上げ――」
「この薄情者っ!!」
「はいいきなりの言葉の刃。そして、薄情者……? 人情派のこの私が薄情者? 聞き捨てなりませんね。小一時間、説教して差し上げましょうか」
「風が吹いたらすぐどっか飛んでくんだもん! まだ怪我してた私をほっといてっ。薄情者じゃん!」
「私を花粉のように言わないでいただきたい」
溜まっていた鬱憤が次々とエリカから噴出する。
がしかしグラスは、開き直って眼鏡をくいっと指で押し上げる。
その反省の見られない様に、エリカの頬はどんどん膨らんでしまう。
「むぅ……! グラスなんてどこかの関節が外れてしまえ!!」
「エリカ様っ、関節の外れていい人間など早々おりません! 他人の節々を労われる王女様をお目指しください!」
思いのままに繰り広げられる独特な会話に、クリストフもリリアも呆気に取られる。
「そのような頓珍漢なことばかり仰ると、何故か私に似て来たなどとあらぬ言いがかりをされるのです! どうかお止めください!」
「…………止めるとか止めないじゃないの」
「はい?」
「内から溢れてくるの。自然と表現しちゃうものなの」
「もう手に負えない……」
傍迷惑な芸術家を前に額に手を当て、頭痛を堪えるグラス。
しかしすぐに相手にできないとばかりに、傍に立てかけられていた一本の赤褐色を基調とした太刀を持ち、更に艶のある黒い鞘に収められた刀を腰にあるホルダーに差す。
「うわ、かっこいい。ねぇグラス、そのおっきな刀欲しい」
「……このタイミングで持ったってことは今から使うってことです。生き死にに関わるくらい重要ってことです。差し上げる訳がないでしょうに。王女様方の悪い癖ですよ。あ、それ欲しい頂戴ってなるのは」
すり寄るエリカから太刀を遠ざけつつ苦言するグラスに、リリアが歩み寄り声をかけた。
「……あなた、本気でニダイと戦うつもり?」
鮮烈に脳裏に残る昨日のニダイの姿に、正気を疑うとでも言いたげに眉を顰めるリリアが問う。
「え、えぇ、まぁ……、かなり厳しい戦いになりそうですが勝算はあるかと」
「…………」
冷ややかな目付きのリリアが、小さな手先で耳を貸すよう手招きする。
「何ですか……?」
太刀でエリカを抑えて遠ざけつつ、小柄な身体で目一杯に背伸びするリリアに耳を傾ける。
「お兄さんが助かる方法が一つだけ、あるんだけど……聞きたい?」
「……ふむ、興味深いですね。お聞かせ願えますか?」
「あの第一王女の悪行を教えてくれれば、お兄さんを庇ってあげます」
「…………」
「あとは黒騎士様にそれをご報告して、そうしたら――――彼女は終わります」
小鳥のような調べで、何らかの終結を示唆するクールなリリア。
見た目からのギャップが激しい嗜虐的にも捉えられるリリアの冷たい声に、思わずグラスの頬を汗が伝う。
「黒騎士様がこの任務をお任せくださったのはきっとあの王女の裏の顔を探らせる為。でもいい取り引きでしょ? 弟さんは困った顔をするばっかりだったけど、お兄さんは死の間際。助けられるのは黒騎士様だけ。どう?」
「…………」
顔を離したリリアは、小さな胸を張ってどこか得意げにグラスを見上げる。
「あ〜、セレス様は立派な方ですよ?」
「っ…………そう」
グラスの発言に驚いたのも束の間、悲しそうな顔をする。
そのリリアの表情から、権力に抗えないグラスを救おうとする意図があることに気付く。
密かな話の内容を知る由もないクリストフでさえ、その旨を察していた。
人情を感じて微笑ましく思うグラスは、出来る限り安心させようと試みる。
「それに黒騎士様も、リリアさんに休暇を与えるつもりで送り出されたのかもしれません。どうでしょう。たまには難しいことを考えずに、ここの名物の温泉にでもゆっくり――」
「黒騎士様のことならこのリリアが一番よく分かってます。馬鹿なことを言わないで」
見当違いと言われたリリアが、威嚇する子猫の如く機嫌を悪くして言う。
「私はご主人様のメイド。だからご主人様のことなら何でも知ってるの」
「それ“だから”の使い方合ってます?」
「お兄さんみたいに権力で従う者達とは覚悟が違うの。私はご主人様が望めば、悪魔にでもなってみせる」
「望めばね? でも一回ご主人様とやらに確認しておいた方がいいかもしれない。一応。悪魔になるのはそれからにしましょう。そうしましょう、ね?」
可愛らしい小顔を険しくして不満を表すリリアに、エリカを手玉に取るさしものグラスも困り果てる。
「……メイドだからって舐めないで。ご主人様のご命令があれば、一人で何百人だってやっつけてみせる」
「め、メイドってそんな武闘派なご職業でしたっけ……?」
子供扱いされているとムキになって詰め寄るリリアや太刀を剥ぎとろうとするエリカに参りそうなグラスへと、クリストフが歩み寄る。
「君、グラス殿と言うらしいな」
「はい、グラス・クロブッチと申します。……あなたは?」
「クリストフと。呼び捨てでも好きにしなさい」
「では、クリストフさん。あなたも私に何か?」
崖上に残して来たリッヒーと私兵を目視し、ニダイの様子から完全に気を逸らさないよう注意しながらクリストフは会話を始める。
「エリカ様方への態度に思うところはあるが、私も剣聖殿に同意する。ニダイと戦うのは危険過ぎる」
「……それは百も承知です」
「いいや、分かっていない。ニダイに剣で挑むのは君が思うよりも遥かに無謀なのだ」
ニダイの剣術は、ライト王国近辺で栄える様々な剣術の源流となったものであった。
今ある剣技は元を辿れば全て、ニダイの操る剣術へと行き着く。
その為、
「奴に我々の剣は届かない。ソッド様等が二人がかりでも敵わなかったのだ。今ならばまだエリカ様や私、剣聖殿、それに加えてリッヒー様のお言葉がある。中止にも延期にでもできよう」
「それは困ります。私は私の意思で彼と闘うのですから」
クリストフの救いの手を、そっと押し留める言葉。
「ニダイは強力な能力を有した鎧を捨て、左手の魔術を失ってあそこにいるのです。つまり彼は、力を削いだ状態であの強さなのです」
戯れるエリカと未だ不服そうなリリアを穏やかに制止し、太刀を頭の後ろに回して肩に担ぐ。
「ただ、全盛期の彼にはそんなに興味はありません」
ゆっくりと、太刀の幅の広く長い銀の刀身を引き抜いていく。
「何故なら、特別な鎧もなく、特殊な魔術もないからこそ、純粋な技で彼と競い合えるからです」
徐々に現れる鏡の如く磨かれた眩い刃。
それは太刀が本来持つ輝きなのか、男がそうさせるのか、刃の光を間近に見るクリストフ達は否応無く気圧されてしまう。
「我慢ならないのですよ。負けず嫌いな私ですが、特に技で劣るのは許せません」
変わらず落ち着いた様子の男だが、それに反して抜き放った太刀は迸る剣気を放っている。
「彼もそうでしょう。鎧も魔術も捨てて、自我さえも失って行き着いた先に彼が唯一残したのは、あの剣技なのですから」
刃を見つめ、熱くなる胸の内を語る。
「やれるものなら倒してみろと言われている気がしませんか? なら私がやりましょう。誰にも譲れません」
込み上げる熱を払うように太刀を一振りし、高い位置から突き下ろすように鋭く納刀。
それはクリストフが目にした中で、最も流麗な剣筋。
あのニダイの豪快なものとは異なるも、同等ともそれ以上とも思える限りなく研ぎ澄まされたものであった。
「剣よりも得意な刀を持って来ましたし、作戦もばっちりです。どうか私にお任せください」
「……これは無粋を申した。申し訳ない」
この状況で、あの剣の怪物を前に、平常時そのものの変わらない笑みを浮かべている……。
自信、あるいは慢心……。いや、全く別の何かか。
自身というものに全く迷いが無い。揺らめき一つない。
だが、傲慢とも違うように見受けられる。
これ程の
クリストフは憧れていた。
人として、剣士として、こうありたい。
まさにこの男は“強者”なのだ。
あるがままに、望むがままに、それが叶ってしまう強者なのだ。
気味の悪い話だが、自分が女ならば間違いなくのぼせ上っていたことだろう。容姿は特段に優れているというほどでは無い。だが、自然と惹き寄せられる。
「ねぇ、グラス」
「分かっております。傷の一つでも負おうものなら、即座に撤退いたしますのでご心配なく」
「そうじゃなくて、やっぱりそのおっきな刀欲しいな。勿論タダでなんて言わないよ? ちょっとくらいならお小遣い持って来てるの」
「ちょっとくらいのお小遣いで、これを譲れと……!?」
エリカに慕われるグラス。クリストフは先程までとはまるで違う印象を抱く。
「お、お兄さん、今の剣術……。ひょっとしてなんですけど…………黒髪のカッコいい男の方の弟子か何かでしたか……?」
「か、カッコいい……」
「何照れてんの、この男……。リリアちゃんが言ってるの、グラスのことじゃないからね?」
少女達と戯れる使用人。
未だ止めたい思いはあれど、それ以上に観たいと願ってしまう。
ニダイとこの男がぶつかるところを。
そして、宴は始まる……。
特別観覧席にやって来たエリカ達を、リッヒーが出迎える。
「……私の予想では君は彼を止めると思っていたのだが、彼は君の手に負えない程に強情だったのかな?」
「えぇ、そのようです」
「その割には出向く前よりも遥かに君達の表情が柔らかいが……」
「…………」
リッヒーの訝しげな物言いを耳にしつつ、クリストフはニダイへと進む一隻の小船を見下ろす。
村人の一人が恐る恐る漕ぐ小船に、場違いな執事服を着た男が一人立っていた。
「この世界は楽しい。容易に私の予想を上回る。予期できない出会いもある。生まれてこのかた、未知の連続だ。ね、おじさん」
「だぁ〜から俺はおじさんじゃ――」
「完成されたおじさんです」
太刀を抜き、鞘を船へそっと置く。
湖に沈む古城に、太刀を担ぐグラスが足を踏み入れる。
「救いたい気持ちはある。嘘じゃない」
同時にニダイの青き瞳に光が灯る。
「けどそれより、はっきりさせておこうか」
一人の使用人と一体の伝説が、一歩ずつ歩み寄って行く。
空を映す鏡のような水面を、静かに歩んで行く。
歓声を上げる観客達も、二人の距離が縮むに連れてより騒がしくなる。
その多くはニダイによる惨劇を求める者達であった。
人は表では否定すれども、どこかで理解を超えるものや残虐なスリルを求める。
だからこそ、辺境までやって来る。
今年は幸運なことに、それが観られるとあって血の気の多い者達は狂乱していた。
そして、あと数秒もすれば目にできる。
まだ互いの剣が届く筈もない十メートル以上はあろう距離。
まだ最後の歩み寄りを考慮して、怒号の余力を残す観客達。
だが、いよいよ興奮高まる段階でそれは裏切られる。
――二人の姿が消え、中央で激音が鳴り響く。
「――――」
「…………」
太刀と片刃剣が、高みに並び立つ剣士達により交差する。
「っ…………」
「…………」
騒音は一息に掻き消された。
鳥肌が全身を覆い、激烈な開幕に総じて痺れ上がる。
ニダイの卓越した剣技による使用人斬殺への期待は、早々に破られた。
「待たせたね、決着をつけよう。俺にも君にも意地がある。今回はとことんやり合おうじゃないか」
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