第125話、エピローグ“裏”

 

 絢爛都市クジョウから、小さなものも含めて六つ離れたとある街。


 そこにはクジョウのような和の雰囲気は少しも見当たらず、ライト王国本来の文化による景観に染められていた。


 その街で最も有名なのは、特殊な弦楽器の生産である。


 その証拠に街にある唯一の高級ホテルからは、その弦楽器による音色が微かに漏れている。


「…………」


 ホテル自慢のレストラン。


 二階にあるテーブルで一人の老人が、寂しげでもあり、どこか心穏やかでもある面持ちで上質な赤ワインを傾ける。


 目を閉じ、一階から聴こえて来る旋律と共にワインの渋みと香りの余韻に浸る。


 これまでの人生を噛み締めるように、しみじみと……。


「――すみません」


 老人へと、歳若い男が声をかけた。


「はい、私に何か?」

「相席してもよろしいでしょうか」


 老人は不審に思う。


 何故なら、今夜ホテルのレストランにはいくつか空席があり、ここで無くとも選び放題であったからだ。


 目の前に立つ黒い上等な装いの若い男には見覚えもなく、老人の経験から来る能力で知人でない事も確実であった。


「ワインを美味しそうに飲む姿がとっても興味深くてね。お喋りしながらディナーを楽しみませんか?」

「……どうぞ、お掛けください」


 老人……シッジが警戒心を強くしながらも、同席を受け入れる。


 由緒あるホテルだけあり、ウェイターも料理人も優秀である。


 先にテーブルに着いていたシッジと同じタイミングで、黒髪の青年にも料理が運ばれる。


 料理は郷土料理を独自に格式高くと手を加えたもので、長年マダムと超一流の一皿の数々を目にして来たシッジも満足の味であった。


「……素材も良いけど、この肉は下処理も丁寧でソースの酸味との相性もいい。美味しいよ」

「食にお詳しいのですね。私などはただただ美味しいとしか感じませんでした」


 肉料理を食すナイフとフォークを扱う手付きも自然で、どうやらこの少年は一般家庭以下の出で無いことが伺えた。


 口調は既に砕けたものになっていたが、尚も気品らしきものを感じてしまう。


「それが重要なんだと思うよ。美味しいものを食べて美味しいと感じる。十分だ。俺は自分で作る事もあるから、過程や中身が気になるんだよ」

「料理を、ご自分で……。分を弁えないながら、いつか食べてみたいと願ってしまいますね。あなた程の方が作られる一品ならばと」

「俺なんてまだまだだよ。……美味しいと言わせる自信はあるけどね」


 談話もそこそこに、一階の演奏が一度終わる。


「その頬の痕はどうしてのか訊いてもいいのかな?」

「……少し転んでしまいまして。私の職業柄、よくある事なのですよ」

「そうなんだ……大変なんだね」

「えぇ、ですがやり甲斐があるのも事実なのですよ」


 やがて曲調が、緩やかなものへと移り行く。


 自然と無言になり、しばらくはコース料理の数々を堪能していた。


 そしてディナー自体は終わり、新たなワインを嗜もうとしていたタイミングで少年が告げた。


「……マダムは死んだよ」

「っ……!?」


 危うく、テイスティング段階のワイングラスを落としそうになるシッジ。


 動揺は隠し切れるものではなく、驚愕の眼差しで男を見る。


「彼女の死は間違いない。俺が確認した」

「……………そう、ですか」


 ソムリエを下がらせてから、会話を続ける男。


 失踪扱いのマダム・リッチン。


 消息を絶ってまだ数日だが、誰もが炎上した建物内で焼死したと確信していた。いや、願っていた。


「……不思議な気分です。幼少のみぎりより、お嬢様にお仕えして参りました。来る日も来る日も、お嬢様と共に歩んで参りました。……例えるならば、片脚が取れたような感覚です。これから上手く歩いていけるかどうか……」

「…………」

「あなたがどのようなお立場なのか存じ上げませんが、ありがとうございました」


 失意のままに俯くシッジを前に、男は静かにワインを口にする。


「……俺は君に話があって捜していた。どうしても話をしたくてね」

「…………」


 用件には察しが付く。


 これまでにも幾度となく受けた誘いの類だ。


「……申し訳ありません」

「何が?」

「私の主人は、お嬢様お一人です。あなたにお仕えするつもりは御座いません」


 ちらりと視線を……毅然と答えたシッジへと向け、数秒もせぬ内に一階の演奏家達へと向ける。


「……君は優秀な執事らしいね。マダムには結構酷い仕打ちを受けていたと聞くけど、実際はどうなの?」

「それは……事実です」


 俯き答えるシッジの表情からは、悪夢のような壮絶な苦労が予想出来た。


 現に今も頬は腫れ、痛々しい青痣となっている。


「しかし、私はお嬢様の執事として誇りを持って従事して参りました。天からの使命だと捉え、私なりの固い覚悟で侍って参りました。そして今……それが完遂されたのです」

「つまりマダムが亡くなった以上、もう執事として働く気はないと?」

「仰る通りです」


 老人とは思えないピンと伸ばされた背筋で、真っ直ぐな瞳を男へ向ける。


「……そう」

「これからは静かな街で、以前より興味のあった魚釣りにでも余生を費やそうと思います」

「釣り、か……」

「お嬢様との旅にて通りかかったのですが、湖や温泉の沸く恰好の土地がありましたので、そこにでも小さな家を買おうかと。……あまり使う機会が無かったもので、多少の資金はありますしね」


 まだ晴れ切らない面持ちながら、空元気からか冗談を混じえて言う。


「……君は、とても心地いい話し方をするよね」

「そう、でしょうか……」


 いきなりの褒め言葉であったが、シッジは悪い気がしなかった。


 それはシッジに取って、最も褒められて然るべきものであったからだ。


「あぁ、あの時・・・も思った。君の言葉は、とても相手に配慮されたものだ」

「あの時……?」


 手放しの称賛だが、それよりも気になる言葉が混ざっていた。


 しかし男は構わず続けた。


「……事件の話をしようか」


 語りながら空になったワイングラスを置く。


 そして、肘掛に頬杖を突いた。


「それは……具体的にお嬢様がどうなったのかでしょうか……」

「あ〜、そうじゃないんだ。もちろんそっちも事件だけどね。でも単に事件と言っても様々だ。大きな事件以外にも、本当に色々な事件が起こってる。王都でも、ここでも、クジョウでも……」


 ウェイターが、薫りの良いワインを男のグラスに注ぐ。


 その赤を眺めながら、男は言う。


「あのマダム達の大騒ぎも事件だけど、その裏でもクジョウでは事件が起きていたんだよ。窃盗、恐喝、暴行……。中には……とある遊女が何度も力任せに突き刺されて殺されたなんてものもあった」

「なんと……」


 沈んでいく男の言葉。


 沈痛の面持ちのシッジ。


「歳若い彼女の遺体は顔を焼かれ、おまけに衣服を剥がされて川に流されていたよ……」


 頭を下げて去るウェイター。


「……それは、惨いお話ですね……」

「あぁ、ほんとにね」


 心を痛めたとばかりに胸を押さえるシッジ。


「…………」


 男が、黒き視線を上げる。












 ――やったのは……君だね?










「…………」


 恐怖の旋律が奏でられる中、無言で目と目を合わせる。


 驚きを瞳に微かに現すシッジと、氷のように冷たい男の眼差し。


「……私ではありません。どのような誤解で私をお疑いになられたのかは分かりませんが、誓って私ではありません」

「ヒルデガルトから君の話を聞いたよ。彼女の知る限り、詳しく」

「……ヒルデガルトさん、から?」


 にわかには信じられないと言った風なシッジを眺め終えてから、ゆっくりと語り出す。


「君は商人だった父親の借金でマダムの親に奉公と言う形で売られて、生涯をマダムの付き人として生きる事になったそうだね」

「え、えぇ……」

「さっきも聞いたけど、マダムの執事は大変だったみたいだね。でも腐る事も無く、分け隔て無く誰にでも優しく接していたそうじゃないか」


 そこで再び、ワインに口を付ける。


「……誰に聞いても、大抵は同じ答えが返って来る。……“話していると安心する”……だそうだ。特にヒルデガルトには、何度マダムから叱られようとも接するのを止めなかったそうだね」

「それは……お可哀想だったものですから……」

「ヒルデガルトはあんな子だから、むしろ警戒していたみたいだけど……。その時くらいから敵対関係が生まれたとも言ってた」


 話の行く先の見えないシッジは慎重に言葉を選び、目の前の得体の知れない男へ答える。


「君は、彼女を選んだみたいだね」

「……何を仰られているのでしょうか」

「君を知れば知る程、自分を自由に出来る者を探していたとしか思えなくなったよ。具体的に言えば、――マダムを排除できる者をだね」

「そんな!? そのような事実は断じて御座いませんっ!」


 不名誉な疑惑に感情を剥き出しにして怒りを見せるシッジ。


「ヒルデガルトは俺の目から見ても贔屓目なしに強い。絆し易い境遇でもあった。優しくして情を抱かせたら、焚き付けてマダムにけしかけるつもりだったんだと思う。でも彼女は常に他人を遠ざける。大人の男は特にね」


 男の感情の起伏が見えない語り口に、シッジも毒気を抜かれておずおずと引き下がる。


「ただマダムの旅行好きや、どうすれば会社を乗っ取れるかとか、彼女の弱点や商会の内情をさり気なく伝えていたそうだね。そこは素直に感謝してたよ」

「っ……」


 まさかヒルデガルトがそこまで他人に話すとは思わず、反射的に息を呑んでしまう。


「会社が無くなれば徐々に腐っていくと考えたのかな。でも、それでもマダムは諦めなかった。それで今回だ。今回の件に君がどこまで関わっているのか分からないけど……良かったね、これまでの積み重ねが実を結んで」

「……あぁ、それは誤解なのです、何もかも。誰に何を吹き込まれたのか分かりかねますが、じっくりと話し合いましょう」


 マダムの連れていた仲間らしき者達にでも、シッジならば同情を引くなどしてマダムの敵対者へと誘導できるかもしれない。


 男はシッジの相手に取り入る言動や話術をそれほどまでに評価していた。


 例えるならば、魅惑の話術だ。


 莫大な富や魔眼、持って生まれた容姿ではなく、経験の蓄積により習得した能力。


「その年齢になるまでには鬱憤もかなり溜まっただろうね。だから、……彼女にぶつけたの?」

「…………」


 一段と低くなった声に、シッジの背筋が寒さで震える。


「分かると思うけど、俺は君だと確信してる」


 男の視線が、他の客のテーブルに用意されたナイフに向く。


 鋭く尖った切れ味の良さそうなナイフだ。


「……これ、見覚えがあるだろう?」

「…………」


 懐から取り出した……花月亭のナイフを見せる。


 備え付けられた蝋燭の火を受け、ナイフが怪しく光る。


「これはヒルデガルトの案で刃先を丸くして、切れ味も鈍くされた特注品だ。子供が怪我をしないようにと考えたものらしい」


 川から引き上げられた女性の胸元には、切れ味の悪いナイフらしきもので何度も刺された痕があった。


 まるで、刃先の丸まったナイフのようなもので突き刺したような傷が……。


 そして、深夜の犯行時刻。


 クジョウで唯一そのようなナイフを扱っていた旅館では、最も新入りであった料理人見習いが、皆が寝静まっている明け方近くの深夜にも関わらず食器を磨いていた。


 ……貸し出したナイフとフォーク、一つずつを除いて。


「……申し訳ありません。お借りしたナイフとフォークでしたら翠嵐亭の旅館の方に返却してもらうよう渡してしまっていたのです。ですから――」

「自分以外の旅館の人達が怪しいって?」

「い、いえ、決して彼等を疑っている訳では……」

「いやその可能性だってあるよ。可能性で言えば、このナイフに似たものがあれば、他にも疑わしい者はいくらでもいる。だから……」


 真っ直ぐな漆黒の瞳が、シッジへ突き刺さる。


「……身体検査をさせてもらう」

「は、はい……? 身体検査と申しましたか?」


 頬杖を突いた男の言葉に、シッジが拍子抜けする。


「俺が犯人が君だろうと思ったのは、刃先の丸いナイフともう一つ。……被害者の顔面が焼かれていたからだ」


 煮え滾る熔岩を思わせる静かな怒り。


 ほんの少し顔を覗かせた男の感情による言葉。


 階下の演奏も呼応するように、残酷な悪魔が罪深き罪人に這い寄る物語を題材にした曲へ移る。


 その遊女が最後に確認されたのは、連れ込み宿の受付であった。


 深くフードを被った男らしき存在と三階の角部屋に向かったらしい。


 おそらくその部屋で殺され、顔を焼かれて窓から川へ投げ捨てられたのであろうと、多く被害者の遺体を見て来た衛兵達も予想していた。


「……例のはあった?」


 男が問うと、ドレス姿の女性が二人のテーブルへ歩み寄って来た。


「いえ、どこにも御座いませんでした。おそらく、ご推察の通りかと」


 健康的な褐色の肌に、すらりとした身体。


 想像を超える黒髪の美女であった。


「…………」

「そっか、ご苦労様。……屋内で顔を焼かれたなら、魔術か魔道具だろう。でも俺は、ナイフと合わせて考えて君が高価な魔道具を使って瞬時に焼いたんだと思ってる」


 普通に火を焚けば煙がかなり出る。生半可な発火系の魔道具でも顔面をあれだけ焼こうとすれば同じだ。炭化させられていたのだから。


 鈍いナイフと上等な魔道具という条件を重ねると、偶然にも一人だけ思い当たる人物がいた。


 鋭い謎の女の視線と共に、男の語り口も急激に冷えていく。


「うちの子が君の部屋の荷物を調べたけど、やっぱり無かったよ。それもそうかも知れない。誰でもそんな高価で使える魔道具なら護身用に自分で持ち歩くだろうからね」

「…………」


 汗塗れのシッジの心臓が縮み上がり、呼吸を荒くする。


「君なら、マダムが持つ魔道具の中から一つを懐に収めるくらいは簡単な筈だ。信頼の厚い君は魔道具の管理を一任されていたらしいじゃないか。……悪いけど、君を調べさせてもらう」

「ッ、私はッ!!」


 決壊したように噴出するシッジの叫び。


 シッジ自身も思い出せないほど昔に捨てた感情の昂りにより、途絶える事なく次々と吐き出された。


「物心のつく前よりお仕えして参りましたッ!! 自由も無くッ! 不満も許されずッ! 来る日も来る日もあのお嬢様に命じられるがままでした!!」

「…………」

「苦しいなどと言うものではありませんッッ!! 拒否権などあろう筈も無くッ、癒しも無くッ、結婚も許されずッ、子も孫もいないのですッ!!」


 滂沱の涙を流したシッジの慟哭に、何事かと驚いていた客や店員などのホテルの者達にも……同情の念が生まれる。


「私がどんな事をさせられて来たか分かりますかッ!? 分かろう筈も無い! 言えよう筈もありませんッ! 到底口には出来ない事ばかりなのですからッ!!」


 自分の意思も感情も関係なく、マダムにその身を捧げて生きて来たシッジ。


「こんなッ、こんな歳になるまであの地獄に耐え続けて来た私にッ、その結果何が残されたのですか!? 何が残ったのですかぁぁ!! ……ありません!! 何一つッ!!」


 目を背ける者もいる程の壮絶な半生。


「私にはッ、『私』として生きた時間など少しも無かったのですからッ!!」


 息つく暇もなく続いた悲痛な叫びが終わる。


 広いレストランを反響させ、数秒間の静寂が残る。


「はぁ……はぁ……ゴホッ、ゴホッ……」

「…………」


 顔を赤くし、咳き込みながら座り込むシッジはいくらか老け込んでいた。


「…………」

「はぁ……はぁ……」


 誰しも、シッジを見る目に情が生まれる。


 レストラン中が憐憫の情に包まれる中、男は言う。


「それで……俺は意思を変えたように見えるかい?」

「…………」


 驚愕に目を剥くシッジと、揺らぎない黒き瞳が交差する。


「……っ、ぁっ、あなたには――」

「もしかしてそれが彼女を殺した正当な理由になるとでも思ってるの? ならないよ。それとこれとは全く別だ。君は自分がやった事の重みが少しも理解出来てない」

「ッ……」


 血も涙もないのか……そのシッジの言葉は遮られ、一方的に告げられた。


 昏く鋭く引き摺り込まれそうな眼差しに完全に囚われる。


「どれだけの苦しみに晒されていたとしても、無関係な人を害していい筈が無い。彼女は君の鬱憤を晴らす道具じゃないんだよ」

「……わ、わたくしは……」

「それに君、これが初めてじゃないでしょ。手際が良すぎる」


 一撃で顔面を焼く魔道具の扱い、抵抗なく遊女の口や手足を縛るやり口、川沿いの宿を選ぶ計画性。


 常習犯であった。


「どれだけの未来を奪ったの? ……君はあまりに罪深く、残酷だ。君が思うよりも遥かにだ」

「……ッ!!」


 明確に示される怒り。遊女や娼婦の奪われた未来に、男の怒りは静かに燃え上がる。


 負けじとシッジが憤りのままに、内ポケットからある魔道具を取り出し男に差し向ける。


「――グゥッ!?」


 しなやかに伸びた褐色肌の脚が、シッジの焦げて捻じ曲がった十字架型の魔道具を弾いた。


「……こちらを」


 ドレス姿の美女が宙に弾いた魔道具を掴み取り、男へと恭しく捧げる。


「ありがとう。……さて、これでもう君を見逃す訳にはいかなくなった」

「ッ……! ……………わ、私は、これまで誰よりも近くでマダムお嬢様のお仕事に携わって参りました」


 証となる魔道具をチラつかせて告げる男へ、シッジは心を落ち着かせて別方向からの説得を試みる。


 シッジから見る男は理知的で、利益があるとすれば耳を傾けるかも知れないと考えた。


「私はお嬢様の仕事の多くを肩代わりし、王国に多大なる貢献をして来たのです。お嬢様に及ばないまでも、多くの人脈が御座います」

「……だから?」


 僅かに眉根が寄り、視線を厳しくする男に慎重に言葉を選び、当たりを探る。


「罪は認めます……。しかし私の命はもう残り僅か……。どうか今暫くの猶予をください。必ず償いは致します」

「断る」

「…………」


 少しの迷いもなく提案は斬り捨てられた。


「……残念ながら、世の中は非情です。命は平等では御座いません。あなたならばお分かりの筈です」

「……そうだね。それはその通りだ」


 悲しみを滲ませ、ワイングラスを取る男。


「あなたにとって私は益になる人間です。あなたにも出来る事は多い。対して彼女達は名も無いような遊女なのです」

「…………」


 ワイングラスを傾けつつあった男の動きが、止まる。


「……名も無いような・・・・・・・?」

「っ……!?」


 しまったと思うよりも早く、レストランの空気が凍る。


 誰もが、仲間と思しき褐色肌の美女でさえも、人の皮を被ったその存在の憤怒に怯えて青褪める。


「――彼女の名前は、“ジェシカ”だ」


 業火の如き怒りは止まるところを知らず、


「歳は十八。あと三ヶ月もすれば十九だ。夢は、何もかもを清算してから地元に帰って一般的な家庭を築く。そこで家族で穏やかな生涯を過ごす事だった」


 一人の遊女……ジェシカについて、次々と語られる。


 その間に思い出されるのは在りし日の記憶。


『あたしは将来食堂を出したいからお金貯めてるのよ。あんたは……』

『……借金よ・・・! 悪かったわね・・・・・・!』

『ウチは舞台役者や! ぎょうさん客の入った舞台に立ちたいんや……。今は遊女しながら練習しとるけど、絶対みんなを見返したるで!』

『わたしはあんまり考えて無かったけど……、わたしも料理のお店とかいいのかもなぁ』

『それならあたしの店で働いたらいいじゃん!』


 数日前に見た光景に、男の身体には自然と力みが込められていく。


「……彼女は片親で、その漁師の父親も水難事故に巻き込まれて他界。それでも幼い頃から病弱の弟の薬代や診察代で借金を重ねて……」


 一日……いや、一晩だけの、笑顔に溢れた談笑を思い起こす。


「……弟さんが闘病の末に倒れた後も、借金を返す為に遊女として懸命に働いていた。あと一年もすれば返済は完了していた。……彼女は、これからだった」

「い、いえっ……わたくしは……」


 震えて裏返った声で反論しようとするも、異常な迫力を放つ男に抗えない。


「当たり前だけど、彼女は生きていた。名前もあるし、あそこに至るまでの過去があった。誰も知らない未来があった。苦しい今があっても、夢の為に強く生きていた」


 自分の人生の始まりを夢見る少女の無念を思いつつ、男は胸の内に反して静かに語る。


「それが奪われていい筈がない。許される訳がない。君が奪ったものは……とてつもなく尊いものだ」

「……………ぃ、……嫌だ、わたくしはッ!!」


 別物へと変貌した男を置いて、シッジがなり振り構わず逃走した。


「……ホテルの迷惑にならなくて丁度いいね」


 男が立ち上がり、手近なテーブルにあった食器を手にする。



 ………


 ……


 …





 周りの奇異な老人を見る視線も気に留めず、シッジが街の暗闇を駆けて行く。


 掠れる呼吸で精一杯に脚を動かし、謎の男達から必死に逃げる。


「ヒューッ、ヒューッ……ガッ!?」


 左太腿に生まれる激痛。


 咄嗟に目を向ければ、そこにはフォークが痛々しく肉に突き刺さっていた。


「――グッ!?」


 派手に路地裏に転ぶシッジ。


「最後の晩餐は楽しめただろう? これからの自由という希望に一歩踏み出せた瞬間、それが予期せず儚く終わってしまうとしたら……彼女の無念も少しは分かるんじゃないかな」


 正面の暗闇より、黒衣の男が現れる。


 冷たい目で、額から血を流す擦り傷だらけのシッジを見下ろす。


「ぐ、グッ……お、お待ちください!! どうか……どうかぁ!! この傷も彼女が体当たりしなければ付かなかったものなのですよ!? やっとなのですッ!! やっとっ!」

「君だけじゃない。ヒルデガルトも、ジェシカも、挫けそうになりながらも強く生きていた。他人にぶつけたくなる弱さを何とか堪えて生きていた」


 従者を連れて一歩ずつ近付く死神に、今生一番の許しを請う。


「私に出来る事ならば何事でも全う致します!! 仰る全てにお応えします!! 償いは必ず致します!!」

「要らないな。俺を恐れてする償いに何の意味がある。趣味に釣りをと心躍らせていた君の償いにどんな価値がある」


 尻餅を突いて後退りするシッジに、男は歩み寄って行く。


「っ、わたくしだけが何故ぇぇ!! 何故なのですかッ!? 他にもいくらでも娼婦を殺している者はいるではありませんかァァ!!」

「安心してくれ、君だけじゃない。俺の目に留まるなら、その全てを始末する。約束しよう」


 男が無造作に投擲したナイフが、シッジの肩を刺し貫く。


「ギィあッ!? ぁ、ぁぁ……グァァァアああ!!」


 窮鼠のシッジがナイフを引き抜き、あらん限りの力で振り上げ……男へと不格好に下ろした。


「カッ……!? カ――ッ」


 が、ナイフの握り手を取られ、肘の関節を強引に折り曲げられながら、ゆっくり、ゆっくりと……右胸から肺へ突き入れられる。


「カヒュッ、――ッッ」


 めり込んだナイフから手が離れると力無くしたように崩れ落ち、地獄の苦しみに悶え始める。


 苦痛から助けを求めて足掻くシッジを暫く見下ろし、やがて男は懐から魔道具を取り出す。


「……君の言う通りだよ。命の価値は平等じゃない」

「ッ、ッッ……ッ」


 しゃがみ込み、シッジの眼前に翳す。


「奪った君と、奪われた彼女の命が同価値だなんて言わせない」


 そして、炎が生まれる……。


「ッ……!?」


 シッジの絶望の瞳が、灯火越しに漆黒の魔神を捉える。











「……それは、俺が許さない」









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