第116話、マダム、人を辞める

 

 それは、コクト……いや、クロノの気配察知領域の外。


 念には念をと、クジョウの端から放たれていた。


「……嘘やろ。今のも凌がれたん……?」


 驚きを隠せない狐耳のエンゼ教大司教、ユミ。


 神社からは直接視認の出来ない大きな建物の影にある屋敷の瓦屋根に立ち……。


「……………やっぱ生きとるなぁ〜。一滴の血も出とらんやん。何者なんや、その子供……」


 風上から運ばれる遥か遠くの神社からの匂いに、ヒルデガルトの供をする子供達の生存を確信する。


「矢はぁ……ヒルデガルトのお嬢ちゃんに一本使わなあかんし、あと一本やな。最悪や、予備持ってくるんやったわぁ」


 腰に括り付けられた矢筒にある、二つの矢を弄りつつボヤく。


 吹き付ける風に和服の裾を靡かさせ、矢を一つ取り出す。


「……今日はえらい素直な風やわぁ〜」


 大司教の豊富な魔力、獣人族の嗅覚、更に……エルフ族の中でも優れた者特有の風を読む能力。


 ユミは青空へと弓を構え……。


「……ほなら、これで死んでくれやぁ。――〈射散華さざんか〉」


 それが、この超遠距離狙撃を可能とする。


「あ〜あ〜、残り一本やで? ほんま手間取らさんとってぇやぁ、もう……はよ潰れてまえ、ガキ共」


 酷薄な笑みを浮かべ、大司教の魔力を込めた矢を打ち上げた空を見る。


 彼女は、世にも珍しいエルフと獣人とのハーフであった。






 ………


 ……


 …








「そんなの、あっちの屋根辺りにいるんじゃないの……?」


 階段から街への直線を震える指で差し、カエデが訊ねる。


「いや、どうだろう。文字通り降って来たからね。角度が急過ぎて、方角も当てにならない。それにもしそうだとしても、もっとずっと遠くからだよ。しかも君達がいる以上、ここを離れて探しに行く訳にもいかない」

「…………」

「で、でももう諦めたんだよね……?」


 未だ空を睨むコクトへ、タマキが不安げに訊ねる。


「諦めてもらっちゃ困る。諦められたら負けたも同然だよ。……かと言って打つ手も無いんだけど」

「な、なんで? 帰ってもらった方がいいと思うよ? きっと反省して料理人とかになってくれるよぉ」

「これだけの矢の能力持ってるなら、わざわざ料理の世界に飛び込もうなんて考えないでしょ……」


 怯える子供達に、続けてコクトは現状の危険度を手短に伝える。


「どうやってるのか全く分からないけど、これは明らかに狙ってやってる。さっきも言ったけど、すごく遠くから矢を射ってる。流石に街の外ではないと思いたいけど……」


 よく噛み砕いて理解出来ないのか、三人共にぽかんとしていた。


「えっと、つまり……ここでそいつを逃すと、いつでもどこからでも俺達を狙えてしまう。今後さっきのが突然何処からか飛んでくるって事だよ」

「っ、う、うそ……あたしたち、殺されるの?」


 自分達の置かれている状況を把握した子供達の顔色が青くなる。


「…………」

「ど、どうしよう……わたし、死ぬにはまだ若いと思うの……」


 血の気の引く少年少女達。


 唐突に死の危機に晒され、怯える気持ちが抑えきれないようだ。


「大丈夫、死なせないよ。今は俺がいるから心配いらない。俺から後ろへは石飛礫一つ通しやしないから」


 再び、空に生まれる魔力の光。


 それは今までとは趣向の違う一矢。


 一瞬の光を、子供達が視認した瞬間……華を咲かせた。


 込められた魔力が内側から矢を破裂させ完成した、残酷な華……。


「…………」


 しかし、爆ぜた弓矢の破片による流星雨を前にしてもコクトは動じない。


 タマキ達を背にして、尚も不敵。


 矢を斬り捨てようと構えていた刀を、構え直す。


 左手側へ流し、柄を光に向ける。


「――っ」


 柄頭に僅かな魔力を込めて空気にぶつけ、薄い魔力の波を放った。


「うおぅっ!?」

「ヒィィ!!」

「うぅ……!」


 破片の流星雨を正面から打ち消す黒の波動が、静謐な神社に轟く。


「……今のは特に危険だったな。アスラを送り出したのは間違いだったかも」


 ぱらぱらと前方に落ちる矢の破片を目にし、コクトが小さく呟いた。


「やっぱり見逃せないなぁ……………お?」






 ………


 ……


 …








「……いやぁ〜、ほんまに……どないなっとんねん……」


 風が運んだ予想を裏切る匂いに、ユミがいよいよ驚愕する。


 先程の技は、ただ魔力を込めた初めの矢よりも強力なものであった。


 それを無傷で切り抜けるとなると、まさに未知の存在である。


「……あかんな」


 大司教としての《福音》だけでなく、確かな実力を持つユミが即座に撤退を決断する。


 何より、その子供の匂いを嗅げば嗅ぐほどに不吉な予感が増している。


 獣人族としての血が、逃げろと警鐘を鳴らしていた。


「帰ろ帰ろ、アホらしい」


 軽やかに跳び、塀に囲まれた路地に降りる。


「要はヒルデガルトの嬢ちゃんをヤレばええねんからな。そないなバケモンに構っとれんわ。……っ!?」


 勢いよく落ちて来た影。


 帰路に就く鼻歌混じりのユミの背後に生まれた鮮烈な気配。


「――見つけたよ」


 そこらの子供と何ら違いのない声音に、ユミの背筋が粟立つ。


 夥しい量の蟲が足元から身体中を迫り上がるようであった。


「なんや……?」

「子供達を狙ったのは頂けない……。俺だけなら見逃してあげたのに」


 反射的に矢をつがえたユミと、得体の知れない子供の目が合う。


「君は危険過ぎる」

「……っ」


 抗う事も許されず引き摺り込まれそうになる凄みのある黒。


 ユミの本能が危機を告げる。


 大司教の中でも卓越した戦闘力を持つユミでさえ計り知れない、未曾有の危機。


 子供の姿をしてはいるが、中身は……。


「早速で悪いけど聞かせてもらおうか……」


 逆手に持っていた刀を順手に持ち替えながら一振り。


 刃が漆黒に染まる。


 魔力とはとても呼べない迫力を放つ邪悪な力が、刃を塗り潰していた。


「……まず、君の狙いは、俺? 子供達? それとも別の人?」

「…………」

「あぁ、そうだ……」


 ユミの足元に亀裂が走る。


「……黙秘もはぐらかすのも、無しだからね?」

「……っ」


 通過した黒き斬撃に、ユミが堪らず息を呑む。


(……どないせぇっちゅうねん……)


 大司教屈指のユミがどう観察しても、『異常』。


 隙の存在しない佇まいを一目見ただけで、どう攻めようとも斬り刻まれる未来しか見えて来ない。


 両端は屋敷の塀に囲まれており、大きく動きながら周囲の人々を巻き込んでの逃走も不可能。


 いや、いっその事……《福音》任せに壁を突き破って――


「いいッ!?」


 斬り裂かれたのと逆側の地面が、割れた。


「逃げられると思っているのなら、その考えは捨てた方がいい。試しても構わないけどね」

「…………」


 逃げたい気持ちから本人も気づかぬ内に微かに脚に力の入ったユミを、踵で地を蹴り付けた子供が制した。


 地を割った子供の薄い笑みに、ゾッとする。


 今の魔力による斬撃と地割れで、完全に身動きが出来なくなってしまっていた。


「……………あっかんわぁ。怖ぁてしゃ〜ない」

「うん?」


 ユミが諦めたとでも言いたげに弓の照準を上方へ外す。


 ……が、


「あ、それっ」


 少しばかり茶目っ気のある掛け声。


「……おーいおいおい、やられたよ。弓は専門外だった。モーションが分からなかったよ……」

「一人で死ぬんわ寂しいわぁ。賑やかに逝こか。……黄泉へのお供に子供なんかええと思わん?」


 険しい顔付きのクロノの視線は、空へ向けられていた。


 今しがた、ユミにより矢が放たれた上空に。


 変則的な弓の扱いと、真上辺りに矢を打ち上げる奇行に、クロノでさえもユミの思惑に遅れて気付く。


 矢は大気の流れに乗り、その軌道を変えていき……。


「あ〜あ、あんたがおれへんかったら、あの子ぉらは終わりやなぁ。可哀想にぃ」

「いやいや、まだ間に合うよ。俺じゃないと間に合わないけどね」

「くくっ、おもろいけど無理やって。矢に追い付ける訳あらへんやん」


 くすくすと笑うユミへと、クロノは……。


「無理を可能にするくらいの力は持ってる。だから……代わりに懲らしめてやってくれ。最低でも弓を二度と射てないようにね。――っ」

「危なッ!?」


 飛んで来た刀を間一髪で避けた後には、既に子供は消えてしまっていた。


 独り言にしては意味のわからない言葉を残し、しかもおまけに弓の弦まで断ち切って。


「……こわぁ。ほんま――」

「――御意に」

「ッ……!?」


 刀の過ぎて行った背後……風下からの女性の声音。


 一か八かの賭けに勝ち、気味の悪い子供から逃れる事に成功したユミだが、息吐く暇も無さそうだ。


「……うわっ、嫌いやわぁ……」

「気が合うではないか。私もお前が大嫌いだ」


 忍び装束に身を包んだスタイルのいい褐色肌の美女。


 子供の投げた刀をしかと受け取り、ユミに鋭利な眼差しを向けた。


「主に弓を引いた罪は償えるものではない。ここで死に行け……」

「えぇ形の乳しとるやないの。あのバケモン帰って来る前に死んどこかぁ」

「口に気を付けるがいい。いや……勘に触るからもう口を閉じていろ」

「嫌やわぁ、乱暴な娘やで。仲間なんやろ? あのバケモン・・・・に嫌われてまうで?」


 剣戟音が響く。


 一気に間合いを詰めたカゲハと、ユミの短剣が火花を散らせた。


 クロノの片手メインで振るうものと違い、両手で力強くユミへ斬り付けるカゲハ。


 しかし、ユミの短剣はそれも難なくいなしてしまう。


「言っとくけどなぁ、さっきのアレ以外に遅れを取るつもりはあらへんよ?」

「ッ……!!」


 魔王により人体改造を施されたカゲハが押される。


 獣人族の身体能力に、長めのダガーを使うエルフ族に伝わる独特な短剣術。


 おまけに生まれ持った才能による、のらりくらりとした奔放な戦い方にカゲハは苦戦を強いられる。


「楽しいなぁ?」

「くっ!!」


 刃の勝負では勝てないと、腕を取ろうとする手も弾かれる。


 何をしようとしているのか、思惑が見透かされていた。


「致し方ない……ッ!!」


 魔力を残像のように残して蹴る格闘術。


 クロノ直伝の〈残像打〉。


 二つの蹴りを同時に打ち込む特殊な蹴り技を、斬撃の合間に組み込んでいく。


「ひゃっ!? ……驚いたわぁっ」

「…………」


 驚きに声を上げたユミだが、それ以上に今の蹴りを初見で避けられたカゲハが表に出さず驚愕する。


 動きにくい和服姿の筈であるのに、彼女には蹴りも刀も擦りもしない。


「なんや可愛いとこあるやん。今の得意げだったん避けられて傷付いたん?」

「まぁ……多少はなッ」


 持ち前の速さで避け切れない攻撃を加えようと、力押しに出る。


「――っ!」


 それでも……届かない。


 ユミはエルフの血も混じっている為、見た目以上に経験豊富。それなりの修羅場を潜り抜けて大司教となっている。


「アカン、アカン。そないに押してばっかやとウチは捕まえられへんで?」

「どうだろうな。主が仰られていた、“特化型は男女のロマン”らしいぞ?」


 身体を駒のように縦に回転させ、連続して斬撃を放つ。


「くっ、ハハッ! おもろいやん!」

「カハッ!!」


 しかしユミは短剣で受け流しながら脚を掴み、地へ投げ付ける。


「グッ、――ッ!!」


 更にもう一度立て続けに地面へ叩き付けようとするユミの顔面に、〈残像打〉の応用として編み出した、魔力で形作った足刀を飛ばして突き出す。


「おっと! まだ引き出しあるやん。大したもんやでぇ」

「っ……」


 それさえも仰け反りながら避けられてしまうが、ユミの投げ技より解放される。


「……まだだっ!」


 口元から垂れる血にも構わず、再びユミへと挑む。


 しかし……自分の周りを跳び回り縦横無尽に攻めるカゲハを、ユミはダガーと身のこなしで遊ぶ・・


「コ〜ン、コンっ。どないしたん? 早せんと、ウチ……そろそろあんたを殺してまうで?」

「…………」


 明らかに、カゲハ以上の実力者であった。


 いつでも殺せると言わんばかりに、カゲハと踊っていた。


「愉快やわぁ〜、その顔。そんならとことん……………アカン! はよ逃げなバケモン戻って来てまうやん!! 何遊んでんねん! ウチのアホアホアホぉ!」

「……私はまだお前には勝てないだろう」


 しかし十分に距離を置いて下がったカゲハは殊の外に冷静であった。


「お前は強い……」


 姿勢を低くし刀を構える。


「以前ならば頭に血の上るままに実力差も考慮せずお前に向かっていただろうな。私も若かった……」

「……なんやカチンと来るわぁ」

「だが……今は任務だけを最優先に考えられる」

「お、次はなんなん?」


 カゲハの姿が消える。


「ッ!? ――ナッ!?」


 凝ったデザインの短剣が、宙を舞う。


(はやッ!? いきなり速うなんなや!!)


 辛うじて視界を過ぎった影は背後へ。


 そして遅れて吹き付けた土埃の中、危機感に振り向くユミよりも早く、返す刀は即座に放たれた。


「――〈絶影〉」

「あかんっ!」


 ユミの動揺の声が上がるも、冷たく光る刃は彼女の喉元を――


「――グフッ!?」


 苦悶の音が漏れる。


「……やるやん。少~し驚いたわ」


 喉元を鷲掴みにされたカゲハの手から、刀が溢れ落ちる。


「ぐ、クッ……!」

「せやけど一度で首を狙わんかったんわ、間違えてもうたな。多少の傷は負ったろうに」


 波打つように生えた魔力の翼が、塀を揺るがす。


 屋敷から顔を出す桜の枝から花びらが舞い上がり、狐の獣人から逃げるように風に乗って飛んで行く。


「刀が風切る音はよう聴こえるんや。覚えとき。けど流石にこれ以上は時間はかけられへん。堪忍なぁ、ホントは色々訊きたいし、もっと遊んでやりたいねんけど……」

「ッ……」


 弾かれていた短剣が落ち、空いたユミの左手に収まる。


「ほな、さいなら」

「……ふっ」

「ん〜? なんかおもろい事でもあったぁ?」


 短剣の刃を首元に押し込んでいくユミにも、カゲハは笑みを覗かせる。


 すると、血の滴る短剣ではなく、自らをぶら下げるユミの腕を力の限り掴み……。


「っ、……私ではお前に勝てない……」

「そやなぁ、困ったなぁ……くくっ」

「だから……」







 ――やれ……。






 ユミが大きな影に覆われる。


「なんやッ!?」


 その影は突然に音もなく、ユミの真後ろに現れた。


 まるで霧が集まり具現化・・・・・・・・したように・・・・・、怪物の巨躯を形成した……。


(風下で気付くのが遅れて……っ、この雌ガキっ!!)


 一度目の〈絶影〉で致命傷を狙わなかったのは判断を誤った訳ではなく、風上に注意を引き寄せる為であった。


 獣人の鋭い嗅覚により、この異形の怪物の接近を気取らさせないように。


「加減はせぇへんで!」


 魔力が迸る短剣が、鋭く怪物の胸を突く。


「――」

「……は、はぁ……?」


 ……刃は空を突き、怪物の胸部だけが霧と化していた。


 長い時を生きるユミでさえ目にした事のない現象に呆然自失となる。


 その僅かな硬直に、霧の巨大な怪物がユミの短剣側の腕に噛み付く。


「イヅッ!?」


 そのまま短剣諸共、腕が噛み砕かれた。


 脳天を突き抜ける激痛の間にも、ユミは緊急的な離脱を決意する。


「ぃ……いったいわボケぇぇぇええ!!」


 大司教の魔力が全開で解放され、内側からの急激な魔力の膨張によりミストの顎が弾かれる。


 その魔力は両サイドの塀までにも到達し、粉々に破壊してしまう。


「――ッ」

「ッ!! ごほっ、ケホっ!」


 続けて投げ付けられたカゲハを受け止め、ミストがその四つの目を向けた時……ユミの姿は影も形も無くなっていた。


「くっ……よ、よくやった、ミスト。あの腕は完治出来ないだろう。任務は達成だ」

「――」

「初めて会った時とは別格に強くなったな。毎日あれだけ魔物を喰えば当然か。……あの女を探し出した手柄もある。主にもきっとお褒め頂ける筈だ」


 上機嫌でカゲハに撫でられるミスト。


 喉を鳴らし、カゲハに顔を擦り付けている。


 その和やかな様子に反し、ミストの嘴からは温かい真っ赤な血が滴っていた。





 一方……神社では……。





 本殿裏の神主宅から、ランが仲間の元へ一人歩いていく。


「……怒られた」


 近所の幼い子供達を育てる、他の街の孤児院と同じ取り組みをする神主へ定期的な資金を提供しているヒルデガルト。


 その事実を知られたくないからか、突然乗り込んだランをヒルデガルトは叱って帰した。


 子供達は皆その事を知っていると言うのに、ヒルデガルトは頑なであった。


「……何してるんだ?」


 入り口まで戻ったランが、腰を抜かして呆ける三人へ問う。


「……無視は酷い。……ん? なんだあれ? 昼間から、星?」

「ひっ!?」


 上空から四度降り掛かる殺意。


「わぁ、綺麗。……草餅がたくさん食べられますように」

「っ、ば、ばっ……!」


 死の星に願いを託すラン。


「あわ、あわわ……」

「ひぃぃ……!」


 大きくなっていく光を花火を眺めるように見るラン以外は、三者三様に怯えて震え上がっていた。


 そしてそれは、猶予が許される筈もなく、無慈悲に到達した。


「ッ――!!」

「――ほいっ!」


 終わりを告げる矢に身体を痙攣らせる三人に、場違いな掛け声が聴こえる。


「危なかったぁ〜。家や祭りやらで、障害物だらけだったからここまで来るのに苦戦したよ。大丈夫だった? ラン君」


 目を開けた時には、……ランの眼前に迫った矢を、ギリギリで掴み取ったコクトの姿があった。


「……キュ〜」

「あ、倒れちゃった……」






 ♢♢♢





 ――翠嵐亭。


 最上階の最高ランクの部屋には、広々とした寝室がある。


 その半分を埋め尽くす程の寝具も備え付けられていた。


「……お呼びでしょうか、お嬢様」


 夕陽の光が射し込む寝室へ踏み込んだシッジが、ベッドを押し潰さんばかりに膨れた影に声を掛けた。


「あの魚料理が食べたくなったわ。すぐに調達して」

「…………」


 長年の付き合いであるシッジには、マダムの希望する魚料理が何を指すのか直ぐに理解出来た。


「……かしこまりました」


 マダムの周りには贅を尽くした料理の数々が常に用意されている。


 そして……残り二割程に減った魔石や魔道具も。


 だがマダムの欲望は止まるところを知らない。


 下僕として、求められれば応えなければならない。


 例え、敵対するヒルデガルトの花月亭で食した魚料理でも、必ず手に入れなければならない。


 丁寧に一礼し、寝室の出口へと歩む。


「……あの女に付く事が多いようねぇ」

「っ……! ……どなたの事でしょうか」


 扉を半ばまで開けていた手が止まる。


 アマンダの事を言っているのは明白で、手袋越しに汗が滲む。


「言っておくけれど、あなたはあたくしのモノ。それは幼少から永遠に変わらない契約よ」

「……百も承知に御座います。……グゥっ!!」


 扉が常軌を逸した勢いで閉まる。


 閉まる風圧に、シッジが端まで吹き飛ぶ。


「あら少し吹く力が強かったかしら。でも……いいわね?」


 息を軽く吹いて閉じたとでも言いたげなマダム。


「し、承知致しました……」


 それは最早、人類とは呼べない強さ。


 ヒルデガルトやアマンダ、噂の魔王や黒騎士を持ってしても、あのベッドから動かす事も出来ずに片手間に殺されるのでは……。


 シッジには、そう思えてならなかった。






 ………


 ……


 …






 マダムの力の余波は周囲に広く伝わっていた。


「…………」

「……おかしい……」


 真下の部屋で、アマンダと老人大司教“ロッド・ラ・クーモ”が話し合う。


「……予想よりもずっと強い……」

「調べた方が良さそうですね。グロブも行方不明ですし……そう言えば、ユミさんも遅いですね」

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