Faithful Lover
side-Yutaka-
Faithful Lover side-Yutaka- 1
―Age 32――
東京から地元へと戻ってくる前に、以前勤務していた店に電話を一本入れた。
店長に母親の店を継ぐことになった顛末を話すと、店長は少し寂しそうではあったけれど、「がんばれよ」と応援してくれた。
岸本くんは俺が連絡する前に、店長から聞いたのかすぐにメッセージが来た。
「一緒に働けなくなったのは寂しいけど、今度ご飯でも行こうよ」
岸本くんの優しい笑顔を思い出す。
今でも変わらず、耳はピアスだらけなのだろうか。
また増えたりしていないだろうか。
話したいことがいっぱいで、とても電話では足りない。
「是非行きましょう」
俺はそう返事をすると、笑顔のクマのスタンプが返ってきた。
「じゃあ、俺市役所行ってくるから」
「はいはい、気をつけてね」
母親の軽自動車を借りて、久しぶりに運転をすることになった。
運転席を下げて、ミラーの調節をすると慎重に出発した。
交通機関の整っている東京とは違って、自家用車が無いと思ったように行きたいところに行けない。
母さんと悠斗が、それぞれ車を持っているから借りられるとはいえ、用事が重なることも考えられる。
特に悠斗は通勤に使っているので、毎日乗っていると言っても過言ではないし、母さんに借りるとすると毎回座席位置とミラーを調節しなくちゃならない。
自分の車を買わなきゃなーと、いきなり大きな出費が見えてきて、溜息が出た。
東京に住んでいたときは、地元に戻ってくることがあっても、自宅付近か、駅の周辺の飲み屋しか行っていない。
その東京に行っている五年の間に、随分と街並みが変わっていて、軽く浦島太郎のような状態だ。
新しい陸橋が架かっているし、市役所もすっかり新しい建物になっていた。
十階はあるのだろうか、ガラス張りの建物は真下からは上の方が見えない。
――さて、住民票を移すために来たのはいいけど……何楷に行けばいいんだろうか。
わからなかったら誰かに聞こうととりあえず入ることにして、丁度開いた自動ドアに滑り込むと、シャツ姿の男性と肩がぶつかった。
俺の持っていたクリアファイルが落ちて、手入れされた塵一つ無い床を滑っていく。
「すみません」
「いえ、こちらこそ」
相手がファイルを拾ってくれて、ちらっとこちらの顔を見てから、渡してくれた。
「中身見ちゃってすみません。
ファイルを受け取ってから、顔を上げると、爽やかな笑顔をしたなかなかのイケメンだった。
背はそんなに変わらないけれど、均整の取れた体付きをしていて、立っているだけでも絵になる。年齢はいくつか下だろうか。
「俺もユタカって名前なんですよ。字は違いますけどね」
「それは奇遇ですね。俺、東京に出てて、昨日やっとこっちに戻ってきたところなんです」
今度は彼が目を丸くして、俺の顔をまじまじと見た。
「そうなんですか。同じ名前だけでもなかなか出会うことないのに、偶然って重なるものなんですね。
あ、住民票を扱っている市民課は二階なんで、そこのエスカレーターに乗って、上がってから、左に行ってください」
市役所の人だったのか。対応の柔らかさからはお役所の固いイメージがなかった。
「ありがとうございます」
俺は頭を下げて、早速市民課に向かうことにした。
ユタカ、さんか。ありきたりな名前だけど、出会ったことは確かにあまりないな。
知り合いやお客さんを含めても両手で足りるレベルだ。
面白い出来事に、つい思い出し笑いをしつつ、俺は市民課のおじさんに書類を提出した。
それから、なんだかんだと手続きをして、帰る頃には丁度時計の針が十二時を指していた。
お腹も空いてきたので、この辺りでなにか食べて行こうか。
市役所の近くなら、それなりに定食屋かカフェでもあるだろう。
エスカレーターで下りている途中、さっきのユタカさんの姿が見えた。
これも何かの縁かもな。
俺は一階に着くなり、ユタカさんの背を追って、声を掛けた。
「ユタカさん」
振り返った彼は、目を丸くした。
そりゃあそうか。さっきたまたま出会った同じ名前の人が、また声をかけてくるなんて思いもしないだろう。
「あれ、さっきの……」
「今色々と手続きが終わったとこなんですよ。そっちはまだ仕事の途中ですか?」
「いえ、今から休憩なんです。ちょっと借り物を返しがてら、そこで昼も済ませようかと思っていて」
手に持っているハンディサイズの本を目線の高さまで上げている。これを返す、ということらしい。
中学高校では友人と本の貸し借りをしていたけれど、大人になっても本の貸し借りをしているのは羨ましいと思った。
彼に本を貸した人は、どんな人物なのだろうか。
本を深く愛している人だろうか。
丁度俺も食べるところを探していたし、今から探すよりも、彼の方がいいお店を知っているのではないかと思い、彼の表情を窺う。
「それって、俺もご一緒しちゃダメですか。腹減ったんですけど、どこで食べようか迷ってて」
ユタカさんは人好きのする笑顔で、「いいですよ」と頷いた。
「でも、行こところ喫茶店なんですけど、軽食でもいいですか」
「是非!」
どんな店なのだろうか。
どんなメニューがあるだろうか。
期待に胸が膨らみ、心が弾む。
俺はユタカさんの後に続いて、市役所を出た。
来たときはまだ朝の爽やかさで心地よかったのに、太陽からの強烈な日差しによって大気は蒸されて、一歩外に出ただけで汗が噴出してくる。
ユタカさんは駐車場側へと向かう様子はなく、敷地内を通り抜けると、市役所前の交差点の信号で立ち止まった。
徒歩圏内、ということだろうか。
空腹で、今にも音を上げそうなので、近いのなら有難い。
目の前の交差点を渡ってすぐ、四階建ての古くて小さなビルの一階。
レトロな喫茶店の前で、ユタカさんは立ち止まった。
レンガの壁に、木製のドア。
そこだけ時代を巻き戻したかのような、絵に描いたような純喫茶だ。
――こんな店、あったんだな。
ドアを開けると、カランとカウベルが鳴って、肌を撫でるように冷たい風が通り抜けていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます