Fame side-Miori- 4


 それから、一ヶ月。私と照基さんは三日置きの頻度でメッセージでのやりとりを繰り返した。

 夏目漱石の『坊ちゃん』、芥川龍之介の『羅生門』、宮部みゆきの『ブレイブ・ストーリー』、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』。

 本棚にある本の話から、その日買った本。子供の頃読んで思い入れのある本。

 ほとんど私が一方的に話すばかりで、彼からの返事は「ふーん」とか、スタンプ一つで終わる。

 それでも私とのやりとりに退屈しないのか、こまめに返信をくれる。

 思い返せば、社会人になってから、誰かと本の感想を交換したのは初めてだ。



『この前教えてもらった本、読んだよ。結構面白かった』

『SF好きなんですね』

『恋愛小説よりは好きかもね』

『そうですか』

『次の本、なんだけどさ。よければ一緒に買いに行かない? 明後日の日曜どう?』



 合コンから一ヶ月経って、初めてのお誘いだった。



『是非!』



 返信していると、コツコツとヒールの音を高らかに響かせて、柳本さんがカルテの入ったファイルを届けてくれた。


「式部さーん。休憩終わったらこれお願いしますねー」

「……はい」


 渡されたファイルに目を通していると、内科のファイルだけすっと取られた。

 顔を上げると、柳本さんが赤く縁取られた唇を弧にして微笑んでいた。

 その美しい笑顔は妖艶にも見えるけれど、毒々しくも見える。


「大河原先生のところは、私がお届けしますので」



 ――大河原先生のところ。



 二ヶ月前の不倫の噂を思い出して、彼女の笑顔が急におぞましいものに思えた。

 ひょっとして、古田さんの噂を流していたのは……。

 確認することは躊躇われた。

 きっと噂の出所や真実を調べたところで、誰も得をしないだろう。

 この一ヶ月、職場での環境は益々悪化している。

 柳本さんが中心に居なくても、私のことを悪く言う人が増えてきた。

 これ以上の悪化は、受け止められないだろうと思う。

 自分が弱いだけなのかもしれない、そう思うこともあるけれど、気丈に振る舞おうとすればするほど空回りしてしまう。

 膝の上で、拳を握り締める。

 彼女が軽い足取りで内科へと向かっていくのを見届けて、私はやっと息が吐けた。


「式部さん、大丈夫?」


 声をかけてくれたのは、古田さんだ。


「はい。……すみません。最近早退させて貰ってばかりで」

「いいのよ。貧血とかかしら。一度診て貰う? 予約取れるか確認してこようか」

「いえ、そこまででは」


 ただでさえ、仕事を助けてもらっている。古田さんに迷惑をかけてばかりはいられない。

 私は手で仰ぐようにして、平気ですと答えた。


「そう。よかったら、今日仕事上がりに少しお茶でもしない?」


 古田さんと食事に行くのは、私が入社した頃以来だろうか。

 薄暗く見えた世界に、眩い光が射したようだった。


「はい! 是非行きたいです!」

「じゃあ終わったら、職員駐車場で待ってるわね」


 相談、してもいいだろうか。

 古田さんになら、この状況を理解して貰えるのではないか。

 就業時刻まであと四時間だ。

 エネルギーチャージに彼からのメッセージを読み返す。自然と顔が綻んだ。

 仕事が終われば、古田さんとご飯に行ける。本のお話が出来る人に会える。

 まだ大丈夫だと思える。



 ――あと少し、頑張ろう。



 





 仕事が終わり、制服から着替えて職員用の通用口から外に出ると、大河原先生と鉢合わせた。


「あ、式部さんお疲れ様」


 低い声と高い身長。涼やかな笑顔。

 飄々として明るい性格のお陰か、男女問わず人気で、患者さんからの信頼も篤い。

 医師の中でも特別モテるタイプの人だ。

 そんな人だから噂の中心に居てもおかしくはないけれど、私は噂に巻き込まれたくなくて距離を置いていた。


「お疲れ様です」


 横を抜けてそのまま立ち去ろうとしていると、「ねえ」と声を掛けられた。


「……今日、柳本さんから聞いたんだけど、君って前田先生と不倫してるって本当?」

「え?」


 前田先生は、大河原先生と一緒に内科を担当している五十代のベテラン医師だ。

 若くして結婚されていて、お子さんも成人している。


「そ、そんな訳」


 ない、と言い切る前に、大河原先生がホッとした表情を見せた。


「だよね。なんでそんな変な話が出るのか不思議に思って。前田先生って、飲み会とかにもあんまり参加しないで家に帰っちゃう人だからさ。そんな家庭大事にしてる人が不倫するように見えなくてね」


 大河原先生の誤解が解けたのはよかったけれど、ある一言が耳に残って離れない。


 ――柳本さんから聞いたんだけど……。


 その名前が出たことで、私の中にあった疑惑は確信へと変えてしまった。

 私を悩ませていた噂の出所は、きっと柳本さんだ。


「変な話聞かせてごめんね。それじゃあ、また明日」

「……はい。また、明日」


 二つ深呼吸して、大河原さんと別れて駐車場へ行くと、古田さんが待っていた。


「遅れました、すみません」

「いいよ、焦らなくて。ここから歩いてすぐのところなの。そんなに時間取らせないから、車はこのままここに置かせて貰いましょう」


 古田さんの後に付いて行くと、近くの調剤薬局の傍に小さなカフェが建っていた。

 古田さんがドアを開けると、暖かい風が頬を撫でた。


「いらっしゃいませ」


 若い女性の店員さんだった。

 人数を確認すると、すぐに空いている席へと案内してくれた。

 内装はアンティークで統一されていて、木の温もりと相俟って心地よい空間を作っている。

 店内は若い女性客が多く、ボサノヴァが穏やかに流れている。

 ただ、珈琲の香りは感じなかった。

 優奈に教えてもらった駅前の、珈琲の香りの溢れるあの古くて温かなお店を思い出す。


 ――あのお店の珈琲、また飲みたいな。


「式部さん?」

「すみません、ぼーっとして。古田さん何を注文しますか?」

「そうねぇ、じゃあ珈琲にしようかしら」

「私も同じにします」


 テーブルチャイムを鳴らすと、すぐに店員さんが来てくれた。







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