Fame side-Miori- 5
出された珈琲にミルクと砂糖を入れて、スプーンで円を描くように混ぜる。
最初の一口はブラックで頂いたけれど、苦味が強くて苦手だった。
古田さんも同じようにして、スプーンで混ぜていた。
くるり、くるりとキャラメル色の渦がカップの中で踊る。
「今日は急に誘ってごめんなさいね。
実は貴方が早退したときに、みんなにはもう話させてもらっただけど、私来月でこの職場を離れようと思ってね」
カップを見つめながら、保たれていた沈黙が古田さんの一言で破られた。
それも、横っ面を叩かれたような最悪の衝撃を伴って。
「そう、なんですか」
古田さんは、私にとって、職場でのたった一人の拠り所だった。
「赤ちゃんが出来たのよ。初めての子だから、仕事と両立できる自信なくてね。……ごめんね。貴方も色々大変なときに」
愛しそうに腹部を撫でる手。古田さんの言葉に目頭が熱くなる。柳本さんとのことを指しているかはわからなかったけれど、それでも心配してくれていたというだけで嬉しい。
「おめでとうございます、古田さん」
それから職員駐車場へ二人で戻ると、笑顔で古田さんを見送った。
人生は、上手くいかない。だから、ここでへこたれていてはいけない。
大丈夫、と自分に言い聞かせる。
顔を上げると、明るく輝く三日月と星空が見えた。
よく晴れた日曜日の正午。
私は照基さんと約束した駅の前で待っていた。
駅ビルの窓に映る自分の格好を見て、おかしなところがないか確認をする。
袖の長めなオフホワイトのセーターに赤いチェックのロングスカート。
髪もアップにしてみたり、前回に比べて気合を入れすぎたのではないかと恥ずかしくなってきた。
けれど、この約束を楽しみに乗り越えてきたのだ。
眼鏡を掛けなおして、心を落ち着けさせる。
「あれ、まだ十分前なのに早いね」
振り返ると、約一ヶ月ぶりに照基さんが居た。
グレーのテーラードジャケットに、染めたてのような濃い藍色のデニムのジーンズ。
「待たせた?」
「いえ。丁度の電車がなかったので、五分前くらいに着いたんです」
「今日は車じゃないんだ」
彼はいつもの「ふーん」というそっけない返事だけれど、微かに口角が上がったように見えた。
今日はお気に入りの書店ではなく、駅ビルの中の書店へ足を運んだ。
近くには図書館もあるので、彼の好みの本も見つかるだろう。
「なにか読みたいジャンルとかありますか?」
「そうだなぁ……」
彼は近くにあった小説を手に取った。
ちらっと見えたタイトルに見覚えがある。
最近人気な作家のミステリー物の新シリーズだ。
「その本でしたら持ってますよ。よければ、お貸ししましょうか」
「……思ったんだけど、俺の好みな本って君の家の本棚から借りるほうが早い気がする」
「お貸しするのは構いませんけれど……今からいらっしゃいますか?」
「いいの?」
「ええ」
丁度彼が車で来ていたので、助手席に乗せてもらう。
「次の信号を左です」
「了解」
案内をしながら、彼の丁寧な運転でゆっくりと自宅へ戻る。
住宅地の中の一軒家の前で停車してもらうと、彼はハンドルに凭れた。
「君、実家住まいだったのか……」
「はい。あれ、言ってませんでしたっけ」
「あのさぁ……急に知らない男連れてきたら両親なんか言わないの?」
「今日は出かけていて居ませんよ」
「あ、そう」
空いている駐車スペースに車を入れて貰って、彼を部屋へと案内した。
本棚は私の部屋を飛び出して、二楷の廊下を占拠している。
照基さんは興味深そうに、タイトルを眺めていた。
「へえ、漫画とかも読むんだ」
「漫画は小説にはない面白さがありますからね」
「あ、これも借りていい?」
「どうぞ」
漫画を二冊と、先ほど書店で気にしていた小説を手にすると彼は笑顔を見せた。
「そういえば、照基さんはお昼召し上がりました?」
「いや、君と食べるだろうと思ってたから」
「私もお腹空いてしまって。よければ何か食べていきます?」
「……料理、出来るの?」
どうも実家に住んでいると、料理が出来ないように思われてしまう。
実際作る回数は、一人暮らししている人よりも少ないだろうけれど。
「こう見えて、高校生のときは自己流のレシピを作ってたんですよ。じゃあ、なにか軽く作ってきますね」
私は一階へ降りてキッチンへ着くと、早速冷蔵庫を確認した。
「んー、そうだなぁー……」
なにか、簡単であまり時間を掛けずに作れるもの。
サンドイッチ、パスタ……ひき肉があるからハンバーグにしようか。
四等分されたレタスもあるし、小さめのサラダは作れるだろう。
キッチンの脇に置いてある私用の綺麗なエプロンを着けて、入念に手を洗うと冷蔵庫から食材を取り出した。
「お待たせしましたー」
照基さんは、床の上に直接胡坐をかいて、本を熱心に見つめていた。
脚に乗せている本の大きさからして小説ではないのはわかる。
「君って高校生の頃から変わらないんだね」
それから彼は卒業アルバムの余白に描かれた四つ葉のクローバーを指さして、私を見上げた。
胸がちくりと痛む。
「男が名前と四つ葉のクローバーの絵だけ描くって、なんか意味あんの?」
「……どうでしょう。聞きそびれてしまったので」
「ふーん」
「……ハンバーグ作ったんですけど、よかったらどうですか?」
「食べる。めっちゃ腹減った」
それから二人で、ダイニングテーブルで向き合ってハンバーグを食べる。
彼も私も、お腹が空いていて、会話よりも目の前の食事に夢中になっていた。
静かな食卓。なにを話していいか、彼の視線を探るけれど、いいきっかけは見つからない。
それから、ゆるゆると食後のお茶を飲んで、また少しだけ本の話をして……照基さんは帰って行った。
部屋に戻ると、高校の卒業アルバムを取り出して、余白に描かれた四つ葉のクローバーをなぞった。
今頃、何をしているだろう。
もう結婚しているだろうか。
幸福だった学生時代を思い出して、また胸の奥で針が刺したような痛みが走る。
私はアルバムを閉じて、本棚へと戻した。
暫くして、院内で私の噂が蔓延して、体調を崩した私は職場をやむを得ず辞めることになった。
辞めるという話をしてから、手の平を返すように柳本さんは優しくなった。
後から聞いた話では、大河原さんとお付き合いしたらしい。
これからは誰かを傷つけずにいてくれたらいいと思う。
そして、本の貸し借りをする中で、相談に乗ってくれていた照基さんと付き合い始めた。
どちらかが告白をした訳ではなく、自然と一緒に居て、お互いになんとなくそういう認識になっていったのだと思う。
いつの間にか家の庭にクローバーが群生していたけれど、私はその中から四つ葉のクローバーを見つけることが出来なかった。
季節は春へと移り変わっていた。
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