Fame
side-Miori-
Fame side-Miori- 1
―― Age 29――
人生というものは、思っているように上手くいかない。
高校二年生の夏、私には未来像が明確に描けていなかった。
進路志望の空欄を見ながら、ぼんやりと将来のことを思う。
それは茫洋とした海を見ているようで、水平線の先のアメリカを思い描いているのと似ている。
そもそも、私には幼い頃から将来の夢、というものがなかった。
幼稚園のときの『魔法使い』、小学校のときの『アイドル』、『先生』。
全部、仲のいいお友達が書いていたのを真似して書いていたに過ぎない。
この高校へ進学したのだって、周りの女子が「制服が可愛い」と言っていたからだ。
いつも、そこに自分の意思なんてなかった。
―― 俺は……美容師になるつもり。だから、専門に行く 。
はっきりとそう言っていた彼を眩しいと思った。
実際彼は夢を叶えて、今は東京の美容室に勤めているらしい。仲の良かった男子がそう言っていた。
忙しいのか、去年の年末に行われた同窓会でもお目にかかれなかった。
彼は元気にしているだろうか。
彼のことを思い出すと、決まっていつも卒業アルバムに描かれた四つ葉のクローバーを一緒に思い出す。
私は彼にその真意を聞きそびれてしまった。
今でも、ほんの少しだけ後悔をしている。
「ねえ、式部さん」
「はい」
「古田さんが、不倫してるって知ってた?」
「え?」
「それもやばいよ。相手は大河原先生らしい」
大学三年の夏。就職先に悩んだ私は、総合病院の事務を選んだ。事務職は肌に合っていたけれど、こうしたギスギスした雰囲気があるのが玉に瑕だ。
古田さんは去年結婚された、私の三つ上の先輩で、大河原先生は今月から内科に勤めることになった若い先生だ。
――新婚ホヤホヤの古田さんが不倫?
さすがにガセネタではないだろうかと思ったけれど、楽しそうに話す
いつも、誰かの噂が鳥が囀っているかのようにあちこちから聞こえてくる。
それは誰かが誰かを好きだというものから、ある先生が奥様と不仲だというような踏み込んだものまで。
毎日のように聞こえてくるものだから、自然と笑って聞き流すようになっていた。
柳本さんは私と同期で、噂好きの人の中でも突出した噂好きだ。
仕事が出来て、目鼻立ちのくっきりした美人だけれど、こういうところにはあまり好感を持てなかった。
「大河原先生がかっこいいからってありえないよね。古田さんおしとやかに見えて、こういうの平気なのかなぁ。一体何人の先生に手出してるんだろうね」
「え?」
何故、不倫していることが前提になっているのだろう。噂ではなかったのか。
ただの噂でそこまで人を貶していいものなのか。
暖房で暖められているはずなのに、急に室温が下がったかのように肌寒さを感じる。体が震えてしまいそうだった。
「ね、式部さんもそう思うでしょう?」
「……」
古田さんの方を見る。今、彼女は患者さんに対して丁寧に説明をしている。
その横顔は、とても不誠実なことをするような人には見えない。
私が勤め始めた頃から、よく声をかけてくれて、相談にも乗ってくれた。
だからかもしれない。
私はいつものように柳本さんの話を聞き流すことができなかった。
「式部さんも好きな人とか居るなら、気をつけたほうがいいよ」
「……本当に、そうですか?」
私の呟くような返事に、柳本さんは目を点にしていた。
「本当に柳本さんには、古田さんが不倫をするような人に見えるんですか?」
「は? なにそれ、説教しようとか思ってんの?
……マジうざいわ」
「古田さんは、新人だった私達に優しく指導してくださったじゃないですか」
「だからなに?」
あからさまな拒絶と悪意の籠った視線に、言葉に詰まった。
「式部さんってさ、空気読めないよね」
それっきり彼女は、私の傍から離れると、他のグループに入って古田先輩の噂を振り撒いていた。
私への中傷の言葉と一緒に。
最初の一週間。勤務中は、特に気になることはなかった。
二週間。仕事で些細な失敗すると、いつもと違って白い目で見られるようになった。
三週間経つと、面倒な仕事を押し付けれられるようになって、一月経つと話しかけてくる者も減っていった。
人の噂は七十五日と聞くけれど、それを待てる人は一体どれほどいるのだろう。
私はキリキリと悲鳴を上げる胃に苛立ち、パソコンのキーボードに乱暴に打ちつける。
「大丈夫?」
古田さんがデスクの脇に、ペットボトルの冷たいお茶をそっと置いてくれた。
「……ありがとうございます」
「顔色良くないわよ。今日は帰ったらどうかしら」
「でも」
月の始まりは、カルテの見直しや医療保険に申請を出したりと慌しい。
今抜け出して休みを貰うのは気が引ける。
「気にしないの。ね」
古田さんに促されて、早退をすることを決めた。
席を立つと、柳本さんが隣の席に座る女子へ耳打ちしているのが目に入った。
……彼女も私のほうを見ていた。
早退させてもらったのはいいけれど、すぐに家に帰って寝なくてはいけないほど体調が悪くはない。
まだ日の高い時間だったから、気分転換をしようと、久しぶりに駅前の百貨店の本屋へと赴いた。
フロアの半分を占めるこの全国チェーンの書店は、十年前に出来てから私の心のオアシスになっている。
好きな作家の新作を手当たり次第買うと、少しだけ心が晴れた。
「あれ、美織?」
軽くなった足取りで五階の書店からエスカレーターで下りていると、私の後ろ、三階の婦人服売り場から乗ってきた女性に声を掛けられた。
いつも会うときよりも、しっかりメイクをしているせいで気付かなかったけれど、高校の頃からの友人の優奈だった。
「久しぶりだね、優奈。今日はお休みなの?」
優奈は大手銀行にパートで勤めている。今日も仕事のはずだけど、腕に掛かっている異なるブランド物の三つの紙袋を見ると、私より長くこの百貨店に居たことを思わせる。
「あー……有給使っちゃったんだよね。ねえ、折角ここで会えたんだし、ちょっとお茶でもしない?」
このまま一人で居ても、心が塞がるばかりだろう。
私は優奈の誘いに乗ることにした。
「いいよ。どこに行く?」
一階に降り立つと、優奈の後を追って暖かい百貨店から外へ出た。
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