Glorious Health side-Miori- 2



 喫茶フォルトゥナは、朝九時に開店し、夕方の六時に閉店。飲食店にしては珍しく、土日はお休みだ。

 土日に営業しないのは、お店の専用駐車場が無いことに起因している。

 平日は目の前に市役所や銀行があるため、そちらを利用するお客様がついでに寄っていかれることが多い。近くに商業施設や有料駐車場はあるものの、そちらを利用してまでいらっしゃる新規さんは、筋金入りの珈琲好き以外いないだろう。

 私は月曜から金曜日までフルタイムで働かせてもらっている。

 以前働いていた医療事務に比べたら、お給料は半分に減ってしまったけれど、職場の環境の良さには代えられない。

 九時から十時半までは珈琲と軽食の組み合わせのモーニングのセットがあって、この時間帯だけの常連さんも居たりする。

 名古屋発祥のモーニングのようなあれこれ付いてくるわけではないものの、通常のメニューよりもお徳にはなっている。

 カラコロとドアベルが音を起てて、近くに居たマスターが接客に当たった。


「いらっしゃいませ」


 マスターの人好きする笑顔に、お客様も表情を和ませた。


「空いているお席にどうぞ」


 私は早速、オープンキッチンでお冷やとおしぼりを用意して、丸トレーの上に乗せた。

 マスターがホールから戻ってくると、珈琲を淹れるためのお湯を準備し始めた。

 お客様は見掛けないお顔だ。何十年続いているフォルトゥナは、敷居が高いのか、新規のお客様が来ることはあまりない。

 顔を見るだけで、自然と新規のお客様かどうか判然がつくようになる。

 奥のテーブル席に座って一息つかれたところで、私はお冷やとおしぼりを差し出した。

 お冷やは氷を三つ。おしぼりは通年温かいものを提供している。

 おしぼりを手にしたお客様は指先を包むようにして、手を拭いた。


「ご注文がお決まりになりましたら、お声を掛けてください」

「あ、はい」


 四十代くらいだろうか。髪を左へ流し、真っ黒なレースのシュシュで纏めている。オフホワイトのシャツに、若草色の地に白い小花が散るロングスカート。おっとりとした雰囲気も相俟って、よき奥様という感じだ。先ほどから視線がテーブルの上を彷徨っている。


「メニューはこちらです」


 テーブルの横に立てられたA4サイズのカードケースに入れられたメニューを渡す。

 初めてのお客様はメニューがこれ一枚なのに驚き、そしてそのメニューの一面が珈琲メニューなのにもう一度驚く。


「ただいまのお時間はモーニングセットとして、珈琲にトーストかホットケーキをお付けすることが出来ます」

「はい」

「小さいですが、サラダも付いてきますので、よければご利用ください」


 お客様の目がメニューから離れなくなったので、そっとテーブルを離れる。

 その間に、常連のお客様がご来店されたので、席へご案内した。

 常連のご年配のご夫婦は、マスターに向かって軽く頭を下げてから二名席に着いた。


「いつものをお願いします」

「今日もサンドウィッチでよろしいですか?」

「はい、柔らかいほうね」

「かしこまりました。すぐにお冷やをお持ち致しますね」


 ご夫婦はモーニングセットではなく、アメリカンコーヒーを二つとロースハムサンドを一つ注文し、二人で召し上がる。

 マスターはご夫婦の姿が見えてから、すでにアメリカンを淹れ始めていた。

 店内にドリップされた珈琲の香りが満ちていく。

 メインキッチンの方へオーダーを伝えて、取り皿を用意しておくと、お冷やとおしぼりをトレーに乗せてフロアに戻った。


「おまたせしました、お冷やです。ごゆっくりどうぞ」


 常連のご夫婦にお冷やとおしぼりをお渡ししていると、先ほどの新規のお客様に声を掛けられた。


「はい」

「えっと、モーニングセットをトーストでお願いします」

「かしこまりました。モーニングの珈琲はベーシックブレンドでよろしいですか?」

「はい」

「お飲み物は先にお持ちしますか?」

「一緒でお願いします」


 聞き漏らさないように耳を傾けながら、エプロンのポケットから取り出した注文表に暗号のような頭文字を書き込んでいく。


「かしこまりました、お待ちください」


 オープンキッチンでマスターに「ベーシック、ワン、お願いします」と伝えてから、メインキッチンに居る奥様に「トースト、ワン、お願いします」と伝えて、マスターの手伝いに入る。

 カップとソーサーを並べて、ミルク用の小さなピッチャーにミルクを注いで準備をしておく。

 マスターは小さいカップにドリップした珈琲を淹れて味を確認している。


「うん、アメリカン出せますよ」

「お願いします」


 カップに珈琲を注いだあと、ゆっくりとお湯で薄めていく。

 私は濃い珈琲が好きなので、お湯で薄めるのがもったいないと思ってしまうけれど、マスターのアメリカンは美味しい。

 珈琲の風味は薄まっておらず、立ち上る湯気から香る。

 珈琲が好きだけれど、胃が弱い方もいらっしゃる。ご夫婦も珈琲が苦手にも関わらず、週に一度はマスターのアメリカンを飲みにいらっしゃってくださる。

 マスターのコーヒーだから飲めるのだ、と以前仰っていた。


「では、美織さん。お願いしますね」

「はい」


 丸トレーにそっとアメリカン二つと取り皿を載せる。

 ご夫婦は楽しそうにお話していた。


「お待たせいたしました、アメリカンコーヒーです」


 ソーサーごと手に持ち、アメリカンのカップをお二人の前に置いていく。


「ありがとう」


 丁寧な奥様と対照的に、ご主人はすでにシュガーポットに手を伸ばしていた。


「あなた、お砂糖は二杯までですからね」

「そんなこん、わかってら」


 ご主人は砂糖を二杯入れて、かちゃかちゃと音を立てながら珈琲を混ぜた。

 丁度メインキッチンからロースハムサンドが出てきた。


「サンドウィッチもすぐにお持ちしますね」


 テーブルを離れたところで、カラコロとドアベルが鳴った。

 パリッとしたスーツを着たお客様だ。


「いらっしゃいませ、空いているお席へどうぞ」




 慌しい一時間半を乗り越えて、やっと一息つけた。

 マスターはUの字のカウンターに腰掛け、出涸らしの珈琲で寛いでいた。

 テーブルを拭いていると、最初にいらっしゃった女性のお客様が静かに本を読んでいた。

 何の本だろう。文庫本はカバーがかかっていて、背表紙からはタイトルがわからない。

 視線を上げると、お客様と目が合った。

 不快に思われただろうか。取り繕おうとしていると、手招きをされた。


「はい。あの、すみません、ジロジロと不躾に見てしまって」

「お気になさらないで。小説とかエッセイじゃないんですよ」


 見せて貰った本のページはカラーで、鮮やかな花の写真が載っていた。


「植物図鑑、ですか?」

「そう。最近始めた趣味なんですけれど、目に入ってきたお花のお写真を撮っているんです。そして、植物図鑑と照らし合わせるの」

「素敵なご趣味ですね」

「あなたは? なにか趣味はないんですか?」


 返されて、言葉に閊えた。


「……読書が、好きです」

「素敵な趣味じゃないですか」


 胸の奥がツキツキ痛む。


「そう、ですね」


 昨夜、趣味がきっかけで彼氏と別れたとはとても言えない。


「この植物図鑑、よければ差し上げます」

「え?」

「お古でごめんなさいね。でも、今日とてもいい気持ちなの。よければ受け取っていただけないかしら」

「いいんですか?」


 女性は頷くと、「お会計をお願いします」と席を立った。




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