Glorious Health side-Miori- 3



 モーニング帯を抜けると、店内は落ち着きを取り戻して静かになった。

 けれどそれも一時のこと。

 これからはランチの時間を迎えて、また慌しくなる。嵐の前の静けさ、といったところだ。

 三十席ある店内は四人掛けテーブルにスーツ姿の男性がお二人、朝いらっしゃった常連のご年配のご夫婦が二人掛けの席を利用している。

 ガラスのカラフェにお冷やのお代わりを準備して、席を回る。

 スーツ姿のお二人のところは、大事なお話をしているようなので後にすることにした。

 ご年配のご夫婦は、お冷やを注ぐと頭を下げてくれた。

 カラコロとドアベルが鳴って、近くの百貨店のメイクコーナーに勤めている高野さんがいらっしゃった。休憩時間なのだろう。制服のままだ。

 入り口近くに居たマスターがご案内する。


「こんにちは」

「こんにちはー」


 二十代後半だという彼女は綺麗に巻かれた栗色の髪を靡かせて、U字のカウンター席へ腰を下ろした。


「今日はどれにしようかなぁ」


 私はオープンキッチンで新しいお冷やとおしぼりを持って、メニューを見つめる高野さんにお出しする。


「髪、染め直しました?」


 確か、以前はもう少し明るい色だった気がする。

 彼女は自分の髪に指を絡ませると、不服そうに表情を歪ませた。


「そーなんですよ。クーポン貰ったから行ってみたけど、なんかあんまり雰囲気よくないお店だったから萎えちゃって。美織さんも髪長いよね、どこの美容院?」

「私は拘り無くて、近くの安いところ行ってますよ」

「へー、ツヤツヤで羨ましい」


 彼女はお話したいことがあるとき、カウンター席に腰を下ろす。これはなかなか、鬱憤が溜まっていそうだなぁ。


「もう、ランチ大丈夫ですかぁ?」


 時計を見ると、針は十二時を指していた。


「大丈夫ですよ」

「それじゃあ、サラダパスタと珈琲のセットで。食後にプリンをお願いします」

「いつものベーシックコーヒーでよろしいかしら。珈琲はいつお持ちしますか」

「プリンと一緒でお願いします」

「かしこまりました」


 すでにマスターはオープンキッチンで別の方の珈琲の準備をしている。

 メインキッチンに「サラダパスタをお願いします」と伝えて、マスターのお手伝いを始めた。

 ソーサーとカップを戸棚から取り出したところで、「ここは大丈夫なので」とマスターが止めた。

 マスターは横目で高野さんの方を窺う。

 高野さんは手持ち無沙汰なのだろう。ネイルの手入れが行き届いた指先が、 スマホの画面を払うように細かく動く。

 私はマスターの意図を汲んで、グラスに水を注いでキッチンからホールへと出た。

 高野さんの横に腰を下ろすと、彼女はの表情は花が開いたかのように明るくなった。


「今日はなにかあったんですか?」

「もー、ほんと嫌なお客さん来て。図々しいんですよ。テスター全種類一個ずつくれって。しかも今日だけじゃなくて、今月三回目くらい来ててー」

「そうでしたか」


 口を尖らせて話す彼女は、内容が愚痴だとしても可愛らしく見える。

 きっと、私には足りないものだ。


「そーそー。ほんとやになっちゃう。……あ、そうだ。美織さん今彼氏いたっけ?」


 まさかの切り返しに、言葉に詰まる。

 高野さんも、私が昨夜別れているなんて夢にも思わないだろう。


「……居ません、ね」

「よかったら、今夜合コン行きません? 友達が一人来れなくなっちゃったんですよ」

「今夜、ですか?」


 さすがに昨日の今日で合コンは――と断ろうとしていると、「いっていらっしゃい」とマスターがオープンキッチンから声を掛けてきた。


「気分転換も必要ですよ」

「そうそう!」

「……気分転換、ですか」


 いくらマスターの勧めでも、そう簡単に乗り気にはなれない。

 返事に困っているとカラコロとドアベルが鳴ったので、自分の使ったグラスを持って席を立った。

 これからランチで客足が増えてくる。

 ゆっくり断っている時間はないと判断し、誘いを受けることにした。


「わかりました。では、閉店後にお待ちしてますね」

「よろしくね!」


 マスターが接客している間に、オープンキッチンへ向かう。

 今日一日頑張ろう。

 長い一日に目が眩みそうになるけれど、自分を奮い立たせた。

 お冷やとおしぼりを用意していると、丁度高野さんの注文したサラダパスタが出来たので一緒に運ぶことにした。





 午後の三時。

 ランチにいらっしゃったお客様はお仕事へ戻り、店内はゆったりとした時間が流れていた。

 マスターは馴染みのお客様のお席で楽しそうにお話している。

 私も休憩を頂いたあとだったので、眠気ですこしぼんやりしていた。

 暖かい日差しが窓の外から入ってくるのを眺めながら、このまま立って寝ちゃいそうだなと思っていると、隣で悲鳴のような声が上がった。


「えー! 先輩彼氏と別れた挙句に昨日の今日で合コン行くんですか!?」

「声が大きいよ、明日葉あすはちゃん」


 ボブカットがトレードマークの明日葉ちゃんは最近入ってきた女子高生だ。

 月水金の週三回、午後三時から六時までの時間を働いている。

 勤務態度は真面目で、今まで遅刻すらしたことはないけれど、何分おっちょこちょいで細かいミスが多い。

 二人で洗い終わったカップとソーサーを拭きながら、戸棚に戻していく。


「うー……でも、誰だってびっくりすると思いますよ。たしか、二年か三年くらいお付き合いしてましたよね? なんか、そんなあっさり別れちゃうのかぁって悲しいです」

「そうだね。……付き合ってからは三年だったかな。一緒に住んでからのほうが長かったから、もっと一緒にいたような気がしてくるけど」


 明日葉ちゃんはソーサーを拭きながら、溜息をついた。


「先輩いい人にも程がありません?」

「そう、かしら」

「そうですよ。そんな嫌な別れ方されたら、愚痴の一つや二つ溢すのが普通です」

「……愚痴を溢すほど、受け止められていないのかもしれないね」


 明日葉ちゃんに言われてから気付いた。私はまだ、未練もなにも感情が追いついていないのだと。


「あんまり溜め込まないでくださいね」

「そうね。気をつけます」


  とりあえずへらへら笑って誤魔化してみるけれど、 一回り以上年下の彼女に心配されて、すこし情けない。


「お話変わるんですが、美織先輩に一つお願いがあるんですけどー」


 明日葉ちゃんは両手を合わせて私の表情を窺う。


「実は、明後日気になる男の子にお弁当を作っていくことになりまして、練習するためにも明日レシピ本が欲しいんですよ」

「レシピ本? 今なら、クックピーとかお料理アットとか、動画もあるじゃない」

「でもほら、そこは美織先輩の本棚にある本っていうだけで信用ができるじゃないですか」

「なにそれ」


 我慢出来なくてつい笑ってしまった。彼女は私の読む本にいつも興味を示してくれるから、信用できると言われて悪い気はしない。


「どうしても明日欲しいんですよー。取りに来るので、お願いします」

「わかったよ。探しておくね」

「やったー! ありがとうございます!」


 奥の席から「お願いします」と声がかかったので、明日葉ちゃんは注文表を持ってオープンキッチンから慌しく出て行った。

 そして彼女の出て行った後に転がり落ちてきたボールペンを拾い上げる。


「ない! あれ? あれー?」


 やれやれ、と私もボールペンを届けにオープンキッチンを出た。



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