Glorious Health

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Glorious Health side-Miori- 1

 三十歳。三十路。曲がり角。

 十九歳から二十歳へと上がるときとはまた違う。

 二十歳のときの、社会に迎えられるような幸福感はないし、ミスをすれば三十にもなって……なんて言われてしまう。

 世間からしたら、二十代のひよっこな大人が、グレードアップして立派な大人になる転換点なのである。

 責任は重たくなっていくのに、変に期待は寄せられる。

 だからって、別に中身が急に大人になれる訳ではない。

 ただ、繰り上がっただけなのだ。

 わかっていても、妙に焦り始める。

 自分はちゃんとした『大人』になれているのかと。

 そして、同級生の話を聞いて比べてしまう。

 自分の人生は、間違っていないかと。

 幼い頃はぼんやりと、この年齢になれば結婚して、子供を産んで、自分の家族というものを持っているのだろうと思っていた。

 ところが、そんなピリピリした三十歳を飛び越えて、三十二歳を迎えた春。

 このままいけば結婚するだろうと思っていた、三年程付き合った彼氏に別れを告げられた。



「美織ってさ、どこ見てるの?」



 どこを見ているか、と訊かれれば、まっすぐ前を見ているのだが、彼の望んだ答えはそれではないのだろう。

 というのも、大学生の頃に数週間お付き合いした男性に同じことを訊かれて、バカ正直に「まっすぐ前を見ています」と答えたところ、激昂されてしまったのだ。

 そしてそのまま、音信不通になって、事実上お別れすることになってしまった。

 彼から交際を持ち込んできたのに、あっさりと終わってしまって呆気に取られたのを覚えている。

 話を戻すと、経験上この質問は視界に映っているものを訊いているわけではなく、私の興味の対象について訊いているのだろうと思う。


「テルくんのこと、ちゃんと見ているよ」


 我ながらベストな答えではなかろうか。

 しかし、私のベストな答えを聞いた彼の表情は、今日の曇天よりもさらに暗く翳っていた。


「……ならさ、俺と本のどっちが大切なわけ」

「え?」


 ――俺と本。


 俺とは彼で、人間のことだ。

 本とは、今私の左手の横にある、紙に言葉が連なっている物だ。

 ちなみに宝物の一つである夏目漱石著の『こころ』である。

 せめて、同じ生物にするか物にするか、比較対象を近づけて頂きたい。

 悩んでいると、答えが出ずに言い淀んでいるのだと彼は思ったのだろう。溜息をひとつこぼした。


「……もういい。別れよう」

「い、いやだ」

「美織はさ、俺が居なくても生きていけるよ」


 それは、そうなのかもしれない。

 彼は酸素でも水でもない。

 そして私は、「彼が居なきゃ死んじゃう!」なんて可愛いことを言えるような人間ではない。

 反論したい気持ちはあった。言葉は喉元まで出かかっていた。

 それでも、私は言葉を飲み込んだ。



「いいよ。別れよう」



 それからは、あっという間だった。

 翌日、陽が昇ると同時に、私は彼と二年過ごした1LDKのマンションから、段ボール五箱を車に乗せて実家へと撤退した。

 段ボールの中身は、服などが入った一箱を除くとほとんど本だ。

 肌寒い春の朝。車の中はまだ暖房が効いてなくて、コートの前を閉じた。

 急に戻ってきた娘を見て、両親は目を点にしていたけれど、私の表情を見て察してくれたらしい。


「ご飯要るの?」


 鮭の焼けた香ばしい匂いが、鼻腔を擽る。

 けれど、食欲と裏腹に、胃はキリキリと音を上げそうなほど痛む。

 到底なにかを受け付けられるなんて思えない。


「ううん。お腹空いてないから大丈夫」


 車から荷物を降ろすと、軽くシャワーを浴びて、支度をして、息を吐く間もなく家を出た。

 荷支度で一睡も出来なかったこともあって、仕事を休みたかったけれど、家に居たら昨夜のことを思い返して落ち込んでしまいそうだ。そう考えて、敢て出勤することを決めた。

 目の下の隈は化粧でなんとか誤魔化したけれど、バックミラーに映る自分の顔があまりにも疲れていて、思わず笑ってしまった。

 彼と同居する前は、徹夜なんてよくしていたのになぁ。

 駅の近くの小さな駐車場に、今日も緊張しながらバックで停めて、一呼吸してからバッグを肩に掛けて車を出た。

 朝陽に照らされて、ビルの窓がキラキラと音を立てる。

 何かに急かされるように、スーツの人々の群れが移動していく。

 私もその流れに乗りながら、足早に進む。

 職場は四階建てのオフィスビルの、一階にある喫茶店だ。名前はフォルトゥナ。四十年近くこの地でコーヒーを提供し続けている。

 周りのレンガからくっきり浮かぶ檜皮色の木造のドアを開けると、カラコロとドアベルが音を立てた。


「おはよう、美織さん」

「おはようございます、マスター」


 還暦を過ぎたマスターは、店内を見渡せるオープンキッチンですでに珈琲を淹れていた。

 オープン前で静かな店内に、マスターがゆっくりとお湯を注ぐ音がする。そして、ドリップされた珈琲が、フィルターを通って、ゆっくりと下へ滴っていく音。

 湯気に乗って、珈琲の苦味と酸味を包み込んだ爽やかな香りが漂ってくる。


「一杯いかがですか?」

「……いただきます」


 マスターは専用のカップに一口分注ぐと、口に含んで、舌先で転がす。

 まるでワインのテイスティングのようだ。

 お客様に出す前にも、いつもこうして入念なチェックを欠かさない。

 ここに来るお客様の目当ては、マスターのこの愛情の籠った一杯の珈琲だ。


「あ、マスター。今日はカフェオレにしてもらってもいいですか?」


 マスターは少し怪訝そうにしたけれど、シルバーの業務用冷蔵庫から牛乳を取り出して温めてくれた。

 私はオープンキッチンから繋がるU字型のテーブルに腰を下ろした。

 急にどっと疲れが襲ってきて、椅子に座ったまま寝てしまいそうだった。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 私の分のカフェオレと、隣の椅子を引いてからもう一杯のカフェオレをテーブルに置く。


「珍しいね。美織さんがカフェオレを頼むなんて」

「ちょっと、胃の調子がよくなくて」


 両手で温かなカフェオレの入ったカップを包む。

 マスターの奥様の好きな、透き通るような白地にブルーのお花柄のカップ。

 いつもこの朝の時間にはブラックコーヒーを頂いていたのだけれど、今日は生憎飲めそうにない。

 こくり、と一口頂く。

 珈琲の苦味を、追いかけてきたミルクがまろやかにしてくれる。


「おいしい」


 一息つくと、やっとキリキリとした胃の痛みが引いていった。


「……今日、実家に戻りました」


 フォルトゥナには、オープンキッチンとL字になるような形で、奥にメインキッチンがある。

 マスターの奥様が取り仕切っていて、私はたまに手伝いに入るくらいだ。

 そこから奥様と私と同じパートの長谷川さんが姿を現した。


「そうですか。よく、がんばりましたね」


 マスターはそう言うと、席を立ってオープンキッチンへ向かった。

 これから、朝礼代わりの珈琲タイムだ。

 カフェオレを口にする。


 ――本当に、よく頑張った。私。


 思わず込み上げてきた涙を、あくびで誤魔化した。



 



 

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