第3話-くし

「髪に関わるものを、拾ってはいけない。そんな話を聞いたこと、あるかしら」

 女性はそう言って、短く切り揃えた髪を指先でいじった。

「私、小さい頃からずっと母にそう言われて育ったの」

 髪飾り、ヘアゴム、ヘアピン、それから櫛。案外、道端に落ちているものだ。使い古されて壊れたものもあれば、とても綺麗で汚れなんかついていないものもある。

 一つ一つ思い浮かべるように指折り語る女性は、目を伏せて握った手をもう片方の手でさすった。

 母に言われ続けたために、大人になってもそういったものに触れようとはしなかった女性だが、一度だけ、拾ってしまったものがあるらしい。

「とってもきれいな、櫛だったわ」


***


 街を歩いていたのよ。お天気も何も覚えていないくらい、いつも通りの時間にいつも通りの道を歩いて、そうしたら、病院の前に櫛が落ちていたの。

 歯が一本も欠けていなくて、繊細な透かし彫りが見事でね。彫り欠いたままでなく、縁は少し丸くなっていたから、きっと大事に大事に使われていたものなのだろうと思ったわ。

 大事に使われていたのなら、こんなところで野ざらしになっていては可哀想だから、そう、ひとまず病院の人に落とし物として届けようと思った、はずなの。

 ――気が付いたら、その櫛を持ったまま、自宅に帰っていたわ。

 ええ、白状すると、あんまりその櫛が綺麗だから、欲が出てしまったのね。

 大人になって、髪に関わるものを拾っちゃいけないのは毛じらみなんかがうつるかもしれないからだって思うようになっていたから、私はその櫛を除菌シートでよく拭いて、それからそっと髪に通してみたの。

 その頃は、腰まで髪を伸ばしていたのよ。

 とても扱いに気を付けていて、本当なら目の粗い櫛から順に通していかなくちゃいけなかったのだけれど、その櫛は目が細かいのに最初から髪を絡ませることもなくさらりと毛先まで梳いてくれたわ。

 あんまりスムーズだから、櫛がちゃんと髪をつかまえていないんじゃないかと思うくらい。

 櫛を通すたびに、それまでだって気を使ってきれいにしていた髪が、もっともっと滑らかに艶を帯びていくのに夢中になったわ。人からもね、最近また髪がきれいになったじゃないかって、よく褒められるようになったのよ。


 それで、元の持ち主に返さなくちゃと思っていたことなんかすっかり忘れて、どうせあんなところに落ちていたのなら私がもらったって、なんて考えるようになって。いい気になって、ずっとその櫛を使っていたの。

 どれくらい経ったころかしら。

 少し髪が服に引っかかって、ぴんと張った髪が櫛の歯を一本、オルゴールみたいに弾いたのよ。

 その音が、怖気だつように不気味に聞こえて、思わず櫛から手を離したわ。それまでその櫛を使っていて髪が絡んだことなんかなかったから、歯を弾いた音なんて初めて聞いたの。

 もう拾ってから何か月もたっていて、今更届出るのも気が引けたし、手放すのは惜しくて。でも、不気味だなって思いながら使うのもちょっと嫌で、気持ち悪いって思ったことを忘れてしまうまで、少し仕舞っておくことにしたの。

 我ながら欲に忠実過ぎて笑えて来るわね。……全然、笑えないのだけれど。


 櫛を使うのをやめたら、髪を褒められることが減ったわ。冷静に考えれば櫛を使いだす前に戻った程度のことなのだけれど、そのころの私は、毎日のように髪を褒められることに慣れてしまっていたのね。

 しばらく我慢していたのだけれど、櫛の歯が鳴るのを不気味と思うよりも、髪を褒められたい気持ちの方が勝ってしまって。それで、仕舞いこんだ櫛を早々に引っ張り出して、また髪を梳いたの。

 櫛の先を頭皮に軽く当てて、滑らせるように、毛先へ。よく手入れしている髪だからするりと櫛は毛先まで抜けていくけれど、少しは擦れる音がするのよ。

 その音に混ざって、人の声みたいなものが聞こえたの。

 櫛を通すたびに、人の声ははっきりしていく。それは、呻き声と、すすり泣きだったわ。

 ――櫛。くし、苦死。

 贈り物、特にお見舞いの品になんかしちゃいけないものだって、雷に打たれたみたいに、突然考えが至ったの。

 この櫛を拾ったのはどこだったかしら、なぜあんなところに落ちていたのかしら。何人の、誰の手を、どうやって渡って、私に拾われたのかしら。

 急に鉛のように重くなった櫛を、今度は取り落とすのではなく放り出して、私、その日はずっと櫛と反対側の部屋の隅に縮こまって過ごしたわ。


 夜明けまで震えながら櫛を睨んでいたけれど、日が出てきたら気が大きくなったのかしら。

 直接櫛を触らないようにして、幾重にも布で巻いて、その櫛を近くのお寺へ持って行ったの。拾ってしまった後で気味が悪くなったからお焚き上げをしてくれって頼んで逃げ帰ってきたわ。

 それでも、まだ櫛が怖いの。

 あの櫛はもうないけれど、髪に櫛を通したときの音を聞くのが怖くて、お焚き上げをお願いしたその日にバッサリと髪を切ってしまったわ。絡まりようがないくらい短くして、それからずっと伸ばしていないの。

 落ちている髪留めや髪飾り、当然櫛にも、もうさわれない。たとえ落とし物として届けるために拾うのでも、どうなるか分かったものではないから、見つけたらすぐに目をそらして逃げているの。


***

「安易に拾い物しちゃだめよ」

 関係なかったはずの呪いや妙な念も拾うかもしれないから。

  

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