第4話‐田の怪

 もう何年も前の話だ、と彼は語り出す。

 精々高校生だろう若い顔は、田舎の迷信深い老爺のように、疲れた色をしていた。

「父親の田舎は、田んぼしかないようなところで。盆時期とか、夏に帰ると蛙と虫の声がうるさくて寝られないような、そういう場所だった」

 青年はそっと耳をふさぐように両手を持ち上げたが、結局その手を膝の上で拳の形に結んだ。


***


 夜に、田んぼのど真ん中を歩いたことはあるか?

 夏の田んぼはなにかしらがずっと鳴いていて、静かになる瞬間なんかないんだ。あれはヒキガエルの声、今度はウシガエル、気の早いスズムシ……そうやって、布団の中でなんの声がするのか当てっこして遊んでいた。

 俺には兄がいたんだ。年子で、俺は大したことないけど兄貴は全然大人の言うこと聞かないガキで。一人でなにかやって怒られることはないくせに、俺がいると無茶するような、そういうやつだった。

 それで、父親の田舎に帰って畦で散々遊び倒した日の夜、俺は寝る前に忘れ物を思い出した。虫かごだけ持って帰ってきて、虫取り網を畦に置いてきたんだ。

 兄貴に忘れ物のことを言ったら、それじゃあ取りに行くか、って軽い調子で布団から這いだした。

「明日で大丈夫だよ」

「でも、田んぼの爺さん朝早いだろ。踏まれて破けたりしたらもったいないし」

 もっともらしいことを言ってはいたけど、兄貴は多分、夜中に田んぼに行く理由を見つけられて喜んでた。帰省のたびに、祖父から固く言いつけられていたことがあったからだ。

 それが、「アレが鳴く時間に田へ寄るな」という、村の決まりだ。

 アレ、というのがなんなのか、詳しい話もされなかったし、姿も知らない。ただ、生き物の鳴き声というよりもブザー音みたいな、かなりうるさい音が絶え間なく鳴り続けるんだ。毎晩どんな蛙の声よりも大きな音がする。祖父も父もよく寄り合いで酒を飲んでいたけど、その音が聞こえる時間には必ず帰ってきて、それから朝まで絶対に家から出ない。

 玄関を出たら五歩で田んぼに入るような家だったから、村の決まりを守ろうと思ったら、夜に家から出るだけでアウトだった。

 兄は楽しそうに俺を布団から引きずり出して、蚊帳を捲る。

「どうせ、酔っぱらって用水路に落ちるからって、酒飲みに言うこと聞かせるためにおっかない話しをしてるだけだよ」

 兄が笑って言うと、本当にそうなんだろうと思えて、俺も蚊帳から出た。


 縁側からサンダルを突っかけて庭に降りた。

 ブザーみたいな音はずっと聞こえていて、それでも外に出ると窓で遮られていた他の生き物の声もよく聞こえる。

「網拾ったらさ、アレを捕まえて、なんなのか確かめてみよう」

 兄は蛙の声に隠れるように、小声で俺にそう言った。

「捕まえるって、どこにいるかもわからないのに?」

「あの音、どっちから聞こえるかくらいはわかるだろ」

 音を頼りに追えばいい、と言いながら、庭の木戸から敷地の外へ出る。俺も兄に手を引かれて外へ踏み出して、木戸を閉めようとした。開けるよりも閉めるほうが軋む扉だったので、少し考えてから開けたままにする。大人に見つかって怒られるのは嫌だった。

 里山と田んぼの境の道を歩き、山をよけるように大きくカーブしたところで畦に降りる。この道最後の街灯が、ちかちかと点滅していた。夏の盛りで夜霧が出るほど冷えるはずもないのに、月明かりの下で田んぼは白くけぶる。堆肥のにおいと、昼よりも湿っぽくて、生ぬるく冷えた草のにおいがした。半袖の寝間着からむき出しの腕にゾワゾワと鳥肌が立つ感覚に震える。

 なにが、とはっきりした理由を見つけることもできないまま、ただ気味の悪さに歩幅が小さくなっていく俺を、兄貴は平気な顔で引っ張って歩いた。じっとりと湿った土にサンダルのつま先をつっこみ、足指が泥まみれになっていくのを感じながら、どうにか昼間遊んでいた場所まで行く。

 街灯の灯りがずいぶん遠くなったように思える頃、ようやく兄貴は俺の手を引くのをやめた。

「あったあった」

「どろどろだ」

 兄貴があぜ道から拾い上げた虫取り網は、湿った土から水気を吸い上げていたようで、土色に染まっている。網同士が張り付いて、柄の先で重く揺れていた。

「……ぜ、あっち……ろ」

「なんて言った?」

「だから、」

 兄貴が網を拾ったあたりから、まるでいつ気付くだろうと試すように、ブザーのような音が強くなっていた。兄貴がなにか言って、来た道とは反対のほうを指す。もう会話するのも難しいくらいに、音が大きい。

「やっぱりやめよう、なんか変だよ」

 指で示したほうへ歩き出そうとする兄貴の寝間着を引っ張って首を横に振って見せたが、兄貴は聞かなかった。多分俺の声は兄貴に聞こえていなかったし、兄貴がなにか言ったのを確かに見たけど、兄貴の声は少しも聞こえない。

 行こうとする兄貴と止めようとする俺とで、ほんの少しのもみ合いをしているうちに、ブザー音は耳をつんざくような轟音に変わった。大きすぎる音に驚いて、痛む耳を押さえようと兄貴の寝間着から手を離した瞬間、兄貴が足を滑らせたように転んだ。

 服を引く力がなくなって、反動で転んだんじゃなかった。足元をすくわれたように……足首を突然なにかに強く引かれたように、上半身を俺のほうに残して倒れたんだ。

 転んだだけじゃなく、兄貴はそのまま、体ごと畦の端のほうへ引きずられていく。なにか叫んでいたようだったけどやっぱり聞こえなくて、一周回って静かになってしまったように思えた。

 兄貴がこっちに手を伸ばしていたら、俺は兄貴の手を取って助けようとしたんだろうか。

 ……兄貴は虫取り網をめちゃくちゃに振り回して、柄の先で自分の足元にいる「なにか」を必死で突き剥がそうとしているようだった。それで俺は、恐ろしいものが兄貴を引きずり倒して持って行こうとしているのだと知って。

 逃げた。

 どうやって走り出したのか、まるで覚えていない。ただ、気がついたときにはあの街灯の下まで走ってたどり着いていた。そこまで来てしまえば、兄貴を助けに駆け戻るより、家に帰るほうがよっぽど近い。

 ガクガク震えてこわばる体をどうにか転がし、開けっぱなしの木戸を弾き飛ばすように庭へ突入した。元々自分たちが寝ていた部屋への掃き出し窓から中へ入るより、まだ灯りがついていた大人の部屋のほうが先に目に付く。

 外から窓を叩いて、兄貴が、兄貴がと要領を得ない泣き声で訴えれば、大人たちは外へ飛び出してくるのではなく、俺の服や腕を手に手につかんで屋内へ引きずり込んだ。

「外へ出たのか!」

 雷鳴のような声で祖父が怒鳴る。俺が泣きわめきながらうなずくと、父は頭を抱えた。母が立ち上がって電話のほうへ走っていき、祖母が真っ青な顔をして俺の泥足を拭きだしたのを見たのが、その晩最後の記憶だ。


 翌朝、両親に手を引かれて例の畦へ連れ出された。

 確かにこの畦で兄とはぐれたのか、と再三確認されて、再三うなずいた。

 隣村の駐在さんまで駆り出されて、田んぼのそこここに棒を持った人が立っている。地面を突くように棒を動かしていた駐在さんが、アッ、と声を上げた。

 大人たちが集まり、ばしゃばしゃ、どぼん、ばしゃん、と水の中の足音が重なる。しばらくして、びちゃびちゃと滴る水の音に混ざって、重たいものを持ち上げるかけ声と、泥の上を引きずる音がした。

「ご両親」

 呼ばれた両親について行こうとしたら、近くに立っていた村の駐在さんに止められる。

「なんで」

「お前のせいじゃない。見ないほうがいい」

 駐在さんの言葉が途切れるか途切れないか。母の悲鳴と、父の嗚咽が聞こえてきた。


***


 青年はせき立てられるかのようにそこまで語ると、膝に肘を突いて上体を倒し、しゃくりあげるように息を整えた。

「……兄貴は、虫取り網を握りしめたまま、用水路にうつ伏せに倒れていたらしい。死因は溺死でなく、失血と低体温」

 体の内にこもったような小さな声で、それだけ言うと、ため息をついて椅子に深く腰掛け直す。

「あの音はやっぱりなにか、蛙とか虫とかの声だと思う、けど」

 恐ろしいなにかがいるという警報のように聞こえて、あの音が聞こえる夜の田んぼには行けない。言い伝えなんか関係なく、足がすくんで動くこともできなくなる。

 あのときはあんなに走ったのにな、と青年は青白い顔をひきつらせて、泣くとも笑うともつかない顔を作った。

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