第352話 地獄と俺

 

 この世の地獄というのは目の前に広がるこの光景だろう。


 机に座り、パソコンに向かう人間たち。寝不足で血走った瞳。目の下には真っ黒な隈。こけた頬。青白くなった顔色。


 虚ろなゾンビが大量にいる。最近流行りの走る系のきびきびとした動きのゾンビだ。テキパキと手を動かし、ギラギラとした執念を燃やしている。


 ホラーが苦手な俺は超怖い。でも、俺も忙しくてゾンビたちを恐怖する余裕はない。



『ハヤテ!』


「はいはい」


『ハヤ~テ!』


「ほいほい」


『カモ~ン!』


「今行きまーす」


『今度はこっち』


「わっかりました~」


『……』


「わざわざヒエログリフを画面に表示させないでくださいよ! 『こっちに来て』と書くよりも、言いたい内容を書いてくれた方が、助けるんですけど!」


『おぉ! なるほど』



 ポンっと手を打って納得しないで欲しい。そんなことをする暇があったら手を動かして! いや、だから、わざわざヒエログリフで……もういいです。通訳しますから。


 急遽呼び出されて、俺は通訳のアルバイトをしている。あっちへ呼び出され、こっちへ呼び出される。休む暇もないくらい。喋り過ぎて喉をやられそうだ。


 仕事の締め切りまで二日あるらしい。最後の追い込みをしている。


 普段も期日前は忙しいらしいのだが、例年以上に忙しいらしい。理由は、アイデアが膨大な数になってしまったから。アイデアが湧き出た原因は、俺が後輩ちゃんや桜先生の自慢をしたから。インスピレーションを受けたデザイナーたちがハッスルしすぎたのだ。


 だから、例年の想定で動き、今年も大丈夫でしょ、と高を括った彼らは、現在絶賛追い込まれている。


 なんかごめんなさい。でも、葵さんが超喜んでたから、頑張ってまとめてくださいな。俺もお手伝いしますから。



『うげぇ~。終わらない~。誰だこんなに考えた奴! どれも超良いデザインじゃん! って、考えたのアタシか! アタシって天才』


「ここのところ間違えてますよ」


『うわっ。本当だ。指摘ありがと』



 パッと目に入った誤字が瞬く間に修正される。パソコンで作業していたから修正は一瞬で終わった。



「ぐふっ!?」



 突然伸びてきた手に首根っこが掴まれて連れ去られた。首が締まって呼吸がぁ~!?



『ハヤテ、私の言うことを伝えて』


『通訳お願い』



 俺は彼らの通訳を行う。ロシア語とシンハラ語。そりゃ伝わるわけないよね。


 外国語には日本語にはない発音もあるから口が疲れる。



「というか、ググール翻訳って使えないのか?」



 有名な大手ウェブサイトのググール。検索だけじゃなく、翻訳機能も有名だ。


 使えるのなら使った方が俺の仕事も楽になるんだけど。完璧にとは言わないが、大体の話は通じると思うのだが。


 俺の独り言に興味を持った人が、今何を呟いたのか聞いてきた。隠す必要もないので正直に話す。



『あぁ~。ググール翻訳ね。使えたら便利なんだけどねぇ』


「使えないんですか?」


『うん。セキュリティの関係からネット接続できないの。このパソコンには機密情報がたっぷりと入っているからね』


「でも、周りの電子画面は? テレビ電話はネットですよね?」


『あれは特別に許可されてる機器。でも、セキュリティとファイアウォールでガッチガチに固めてあるらしいよ。聞いた話によると、会社独自の会議用ソフト? アプリケーションだっけ? 詳しく知らないけど、そんな感じだって』



 世界でも通用する大企業だ。会社独自のものを使っている可能性は高い。



「それなら、言語翻訳アプリとかソフトも作れるのでは?」


『……そうかも。全然思いつかなかった。時間がある時に社長に言っておいて。ハヤテは仲良いでしょ? そういうの欲しい。切実な願い。まあ、ハヤテが通訳してくれるのも楽しくて好きだけどね』



 嬉しいことを言ってくれますなぁ。ありがたいです。葵さんとあったらこのアイデアを言っておこう。


 でも、少し不満があるとしたら、一瞬でもいいから俺のほうを見て欲しかったなぁ。瞬き一つせずに画面を見つめて、ひたすらキーボードを打っているのは寂しい。仕事が忙しいのはわかるんだけどね。


 邪魔になりそうだったし、呼び出されたので次の通訳の場所に向かった。


 お昼休憩。通訳の仕事は一旦ストップした。社員さんたちはご飯を抜くか、食べながら仕事を続けるか、の二択だとと思っていたが、全員が一斉に立ち上がってどこかへと消えていった。食堂にご飯を食べに行ったらしい。


 俺もついていったら、大盛りの定食を黙々と食べていた。脳をフル稼働させているから栄養補給が必要なのだろう。ご飯を食べ終わったら、またバリバリと働くはずだ。


 空いた席で俺もご飯を食べていたら、対面の席に許可もなく女性が座った。葵さんだ。疲労が見え隠れしている。忙しいのにわざわざ来てくれたみたい。



「お疲れ様、颯くん」


「お疲れ様です」


「地獄よりも酷かったでしょ」


「あはは……」


「そうだコレ。忘れないうちに渡しておくわ」


「ありがとうございます」



 俺は葵さんから紙袋を受け取った。中身は後輩ちゃんたちへのプレゼント。時間がある時に隣の商業施設に行って買っておいたのだ。葵さんからの提案もあり、少し手を加えてもらった。


 そして、新たにもう二つ差し出される紙袋。



「こっちはオマケね」


「なんですか?」


「特別手当かしら。とても良いものよ。中身は見ないで葉月さんと美緒さんに渡してあげなさい」


「わかりました。それと葵さん、少し相談なんですけどいいですか?」


「何かしら? 子供の名前を考えて欲しいの? 喜んで考えるわよ」


「違います! なんでそんな話になるんですか! 仕事の話です。言語翻訳のアプリやソフトって作れないんですか?」


「……それは思いつかなかったわね。私はある程度話せるし、通訳は人っていうイメージがあったから。ふむ。お金はかかりそうだけど、長期的にみたら安い。売れば利益も出そうだし、良い案よ。すぐに作ってみるわ」



 あれれ~。質問してみただけなのに、もう決定しちゃったの? 葵さん、どこに行くの? あっ、ホクホク笑顔で社長室に戻って行っちゃった。えぇ~。


 この時の俺は、株式会社芙蓉が開発した超高性能の言語翻訳アプリが世界的な売り上げを記録するとは思ってもいなかった。

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