第218話 窮鼠と美緒ちゃん先生

 

 爬虫類館を出た俺と後輩ちゃんはぐったりと疲れきっている。顔は青い。冷や汗ダラダラ。恐怖でガクガクブルブルと震えて、お互いに支え合わないと立てないくらいだ。


 原因は爬虫類館の中に俺たちの大っ嫌いのものがあったからだ。


 俺の場合は節足動物。なんで爬虫類館の中にいるんだよ! あの後、サソリもいたんですけど! 大絶叫してしまったではないか!


 節足動物なんか滅びてしまえ!


 係員さん、他のお客さん、突然叫んでしまい申し訳ありませんでした。ようやく余裕ができた今になって謝罪いたします。


 後輩ちゃんは後輩ちゃんで、トカゲのエサとして与えられていた黒光りするGを見て悲鳴を上げた。後輩ちゃんは虫が苦手だ。特にGが苦手だ。


 本当にウチの後輩ちゃんもご迷惑をおかけしました…。


 疲れ果てた俺と後輩ちゃんは桜先生にもたれかかって歩き始める。



「うぅ…疲れた」


「疲れましたね…」


「二人とも大丈夫? 今にも倒れそうよ? 休む?」



 俺たちに寄りかかられ、ちょっと嬉しそうな桜先生が魅力的な提案をしてくれる。


 休みたいのはやまやまだけど、どこのベンチもいっぱいだ。家族連れやカップルが座っている。


 仕方がないから頑張る。少しすれば回復するから。



「それにしても、弟くんも妹ちゃんも可愛かったわね。ワニとかいたけど、見向きもしないで出口へと直行したところが二人らしいわ」


「ワニ…いたんだ……ちょっと見たかったかも」


「全然気づきませんでした。一刻も早くあの建物から出るのに必死で…」


「じゃあ、戻る?」


「「戻りません!」」



 悪戯っぽい声の桜先生の問いに、俺と後輩ちゃんはブンブンと首を横に振って拒否する。


 絶対嫌。ホラー並みに嫌。なんでわざわざ嫌いなものの近くに行かないといけないんだ! 断固拒否する!


 固い決意をしている俺と後輩ちゃんを見て、桜先生がクスクスと笑った。


 少し歩くと、チョロチョロと水が湧く音が聞こえてきた。どうやら次の動物が近いらしい。


 次は何だろうなぁ。実に楽しみだ。


 柵に近づいて覗き込むと、茶色い塊が水の中に浸かっていた。



「これは……カピバラか?」


「カピバラさんです! おっきなネズミです!」


「ひぃっ!?」



 んっ? 楽しそうに歓声を上げる後輩ちゃんの声に紛れて、小さな悲鳴が上がったような気がする。


 ふと見ると、桜先生の目は見開かれ、顔は青ざめている。可愛いカピバラを見て、恐怖を浮かべている。



「姉さん? 大丈夫か?」


「えっ? ……お姉ちゃんっ!? 一体どうしたのっ!?」


「な、ななななななんななんでも、ななななないわよ!?」



 恐怖で歯がカチカチと鳴り、言葉を上手く喋れていない。余程カピバラが怖いようだ。綺麗な瞳に涙が浮かび、今にも零れ落ちそうだ。………あっ、泣き始めた。


 何となく察した俺と後輩ちゃんは、すぐさまカピバラの場所から離れる。桜先生は硬直していたから無理やり引きずった。


 少し離れたところで一旦休憩する。しばらくすると、桜先生は落ち着いた。



「あはは……ごめんなさいね」



 まだ少し顔が青くて震えている桜先生が謝ってきた。零れ落ちた涙をハンカチで拭っている。



「姉さん……もしかして、カピバラって嫌い?」


「そ、そそそそそそそんなことないわよ?」



 桜先生動揺しすぎ。キョトキョトと視線を宙に彷徨わせ、ダラダラと冷や汗が流れ落ちている。



「………………ネズミ」


「ひぃっ!?」


「むがっ!?」


「うぐっ!?」



 もしかして、と思って呟いてみたら、桜先生が飛び上がって驚き、俺と後輩ちゃんをまとめて抱きしめる。


 く、苦しい! 柔らかくていい香りがして温かいけれど、息ができない! 顔が大きな胸に覆われて呼吸ができない! 誰か助けて!


 俺と後輩ちゃんがバタバタと暴れ、桜先生の腕や身体を叩き、必死にアピールする。


 桜先生がハッと我に返った。



「あらっ? ごめんなさい」


「ぷはっ!?」


「ぷほっ!?」



 あぁー! やっと呼吸ができる! 死ぬかと思った! 空気が美味しい。


 俺たちは必死に呼吸して身体に酸素を送り込む。


 桜先生の大きな胸は男の夢が詰まっており、そして凶器である。胸は人を殺せる。



「お姉ちゃんってネズミが嫌いだったんだね」


「ひぃっ!? その名前を出さないで―! またおっぱいで顔を塞ぐわよ!?」



 涙目の桜先生。余程ネズミがお嫌いのようだ。俺の節足動物、後輩ちゃんのGくらい大嫌いみたい。



「ネズ………げっ歯類全般がダメなのか?」



 ネズミと言いかけたら、桜先生がキッと俺を睨み、両手をバッと広げたから慌てて言い直した。


 危うく殺されるところだった。胸の中で窒息死するなんて恥ずかしい死に方は嫌だ! 他の男どもだったら喜びそうだけど!


 桜先生は少し残念そうにしながら、はぁ、とため息をついた。



「ええ。げっ歯類全般無理ね」


「何か理由あるの?」



 後輩ちゃんが踏み込んでしまった。わざわざ思い出させなくてもいいだろうに。


 桜先生は遠くを見つめて話し出した。



「あれは忘れもしない幼稚園の時よ。幼稚園ではハムス………ひぃっ!? と、とりあえず、ハムさんを飼っていたの」



 あぁー。俺もおぼろげながら飼っていた記憶がある。幼稚園には他にも金魚がいて、皆でお世話していたなぁ。



「お姉ちゃんも可愛がっていたの。でもある時、そのハムさんがお姉ちゃんの指をガブって噛んだの! 窮鼠がお姉ちゃんを噛んだのよ! それ以来、お姉ちゃんはげっ歯類が苦手になりました」



 ほうほう。『窮鼠猫を噛む』ではなくて、『窮鼠ポンコツ姉を噛む』だったのか。小さい頃だったらトラウマになってもおかしくないな。なるほどなぁ。


 でも、桜先生の回想は続く。



「今度は移動動物園が幼稚園にやってきました。そこで出会ったのがモルモッ……ひぃっ!? モ、モルさんです。苦手を克服しようと頑張った小さい頃のお姉ちゃんは優しくモルさんを撫でました。しかーし! またもやガブって噛まれたのです! それ以来、お姉ちゃんはげっ歯類が大っ嫌いになりました」



 以上でお話は終わり、と桜先生の過去の回想シーンが終わった。


 そんな壮絶な過去があったなんて…。嫌いになっても無理はない。心中お察しします。



「じゃあ、お姉ちゃんは夢幻の国のズッミーとズニーのキャラクターもダメなの? 夢幻の国に行けないの?」


「う~ん……ダメじゃないけど、好きでもないわね。どうしても連想しちゃうから」



 夢幻の国のキャラクターがダメな人に初めて出会った。桜先生にプレゼントを贈る時はネズミ系は避けよう。


 桜先生の嫌いなものなんて全然知らなかった。もっとよく知りたいなぁ。



「よしっ! お姉ちゃんの嫌いなもののお話しは終わり! 思い出したくありません! 次へ行きましょ!」



 復活した桜先生が俺と後輩ちゃんの二人と腕を組んで歩き出す。


 俺たちは仲良く動物園の散策を続けるのだった。






 しかしすぐに、リスを見て発狂する女性の悲鳴が響き渡った。




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