最後の作品

 一風変わった事件ですか? そりゃあ、ありますよ。四十年も刑事畑を歩きつづけてきたんですからね。

 今となっては娘夫婦や孫に囲まれて穏やかに暮らしておりますが、新聞記事などを見ておりますと、がむしゃらに足と頭を働かせていた時代が時おり思い出されて、逸るような気持ちになります。

 ……失礼、話が逸れましたな。

 そうですね、これは「意外な動機」といっていいでしょうな。世の中にはそんな動機でと思うような殺人犯がごろごろおりますし、実際わたしもそんな輩を担当することは多々ありましたが、これからお話する女の場合はその中でも格別といっていいでしょう。

 今から三十年ほど前に起こった事件ですが、当時二十五歳の女が夫を包丁で刺し殺してしまったということがありました。

 夫はファッション誌用のモデルを撮影するカメラマンをしていて、女はそのモデルとして夫と出会ったんですな。夫の稼ぎは悪くなかったし、妻も専業主婦として申し分なく、とても仲のいい夫婦だと評判だったそうです。女の方は妊娠もしていまして、幸せな家庭はこれからだという矢先の出来事でした。

 こう言うと、どうせ夫が別に女をつくっていて、それがバレた末の悲劇だろう、と思われるでしょうな。女が「夫を刺しました」という電話をかけてきた時には、われわれ捜査陣もそんなところだろうと軽く考えていましたよ。

 ところが違ったんですな。被害者に妻以外の女関係はまったくなかったし、犯人――もちろん、その女ですがね――がそのように勘違いして事に及んだというわけでもなかった。それどころか、女は浮気心を持たない夫にめっぽう惚れ込んでいたようなんです。そのせいで今度の事件が起こってしまったのですが……それは後で話しましょう。

 捜査員が殺しの現場となった夫婦宅へ行きますと、ブラウン管に箪笥、ちゃぶ台という簡素な居間に、胸から血を流して仰向けに倒れている被害者の夫と、その脇に放心状態の女がぺたんと座っていました。

 凶器は、ちゃぶ台の上に置かれている血まみれの包丁に違いありませんでした。女が自ら通報してきたこともあるし、この女が夫を包丁で刺し殺したことは明白でした。

 ただ、現場にあったブラウン管につまらない漫才師が映っていたことが奇妙といえば奇妙でした。まるで、ついさっきまで夕食後に夫婦でテレビを見ながらくつろいでいた、といった様子に思われたからです。

 その場で女に事情を訊くことは、女の状態からみてどうも難しそうだったので、署に連れて行って、気が落ち着いた頃合いを見てから女に説明を求めました。

 本人が殺したのかという問いにはすぐ頷きました。

 続いてなぜ殺したのかを問うと、女は「夫が、死ぬ時はお前や将来生まれてくる子供、孫たちに囲まれながら逝きたいと言ったから殺しました」と言うんですな。

 わたしたちは、まだ気が狂っているなと思いましたが、よくよく訊いてみると、やはり気は狂っているがその女の中では確かな理由だったのだと思わされるようなものでした。

 われわれ刑事連中の間ではよく、「犯人は生きている被害者を見た最後の人物だ」などと言いますが、それは裏を返せば「犯人は生きている被害者が最後に見た人物だ」となるわけです。それがこの事件の動機でした。

 女は、、夫を殺したのでした。

 女はファッションモデルとしてカメラマンの夫に出会い、何枚もの写真を撮られてきました。撮る撮られるという関係がすべての始まりであり、これまでのすべてであったわけです。

 子供や孫に囲まれて死にたいと夫がふとした話題の中でこぼした時、女は「夫が最後に見る光景の中には、私以外の人もいるのだ」と考え、夫と女の間にあったものが否定されたように感じたんです。

 ならば、夫が最後にかまえるフレームの中に自分ただ一人が収まるためには、自らの手で夫を殺さなければならない。そう思いつめて女は夫に包丁を刺したというわけです。

 子供が生まれると自分の連れ合いは最も愛する人から二番目に愛する人へと変わるなんてよく聞きますが、この女に子供が生まれていればまた結果は違ったのかもしれない、と思わざるを得ませんでしたな。

 その後、女は服役して獄中で男の子を生んだんですが、わたしはどうもその女に同情してしまいましてね。たびたび女に面会したり、子供への援助をしていたんですが、実はその子供がわたしの娘婿なんですよ。

 ははっ、驚かれたでしょう。

 さらにといってはなんですが、義理の息子もカメラで生計を立てておるんですよ。そのカメラで撮った孫の写真をいつも持ち歩いているんですが……あったあった。これです。可愛いでしょう?

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