ポッキーゲームパズル

 ねぇ、はやくして……

 夕陽の差す廊下を歩いていると、そんな声が聞こえた。わたしに向けられたものではない。どこかの教室から漏れ聞こえてきたのだろう。どことなく舌足らずな言い方だったからはっきりしないけど、万結まゆ先輩の声だったような気がする。

 こんな時間まで何してるんだろうと思いながら、一年三組の教室を目指す。忘れ物のノートを取りに行くところだった。ものの数秒で扉の前に立ち、ゆっくりそれを開きはじめると、数瞬間後にはまた閉じてしまった。そして来た道をかけ足になりながら慌てて戻っていく。そんな中でも、わたしは口がにやけるのを止められなかった。

 ――わわわ……すごいもの見ちゃった!

 薄く開けた扉の隙間から、二人の女生徒が棒状のお菓子を両側から咥えている光景が、わたしの目に飛び込んできたのだ。まだるっこしく言えば、細い棒状のスナックにチョコレートを塗装したお菓子を。直接的に言えば、ポッキーを。両側から咥えて食べる。あれはまさにポッキーゲームというやつだ。しかも女の子二人で!

 教室の中には万結先輩ともう一人がいたけど、扉の陰に隠れて顔が見えなかったので誰かはわからなかった。はっきりと覚えているのは、複雑に絡まった指が官能的に見える二人の両手、チョコ色からクリーム色へ、さらに万結先輩の綺麗な薄桃色の唇へと続く魅惑的なグラデーション、そして、扉を開けたわたしを見つめる先輩の、かくれんぼで鬼に見つかった子どもがするようないたずらな目だけだ。

 忘れ物を忘れていることなどまったく忘れて、わたしはひぐらしが鳴く家路についた。


     *


 翌日の放課後、わたしは前日の夕暮れ時に見たものについて、中学時代からの友人であるミヨちゃんに語っていた。万結先輩はわたしとミヨちゃんの所属する文芸部の先輩で、いわば共通の知人である。部員は三名だが、万結先輩は今日から修学旅行なので、今はミヨちゃんと部室で二人きりだ。

「お前の好きな百合ってやつか? よかったじゃないか、お前の読む本の中の世界が現実にもあって」

 真っ先に部室へ来て、相変わらずの仏頂面で本を読んでいたミヨちゃんは、そう言いながら自分の好きな推理小説から目を離していなかった。推理小説みたいなことが現実に起こらないから嫉妬しているのだろう。

 購買で買って来たポッキーを開封して、「食べる?」と一本をミヨちゃんに向けてみたら、「要らない」とすげなく返された。わたしは仕方なく、行き場を失ったポッキーを頬張った。

「二人がポッキーゲームするところ、見たかったな~」

「先輩の相手が誰だったかは気にならないのかよ」

「え? 別に誰でもいいけど」

「いやいや。こういう場合、まずはフーダニット、《誰がやったのか?》だろう……」

「誰、とか、なぜ、とかは彼女たち個人の問題でしょ? そこにわたしたちが踏み込むのは野暮ってものだよ。ミヨちゃんが言うところのハウダニット、《どのようにして親交を深めるのか?》、それこそが至高なんだよ!」

 わたしが演劇部のように手を天井に差し上げて興奮気味にまくしたてると、ミヨちゃんはため息を吐いて、

「お前の百合観はどうでもいいが……。要は先輩と犯人Xはポッキーゲームをしてたわけだろう。そのHOWを推理する余地がないことはないな」

「本当⁉」

 いつの間にか顔を上げて喋っていたミヨちゃんが、中学二年生の時に落ち葉で作った栞を本に挟んで机に置くと、わたしの方を向くように座り直した。

「二人がどのようにしてポッキーゲームをしたのか? 《どのように》というのは、ポッキーゲームをするに至る経緯じゃなくて、ゲームの手続きのことだ。まず八通りが考えられる」

「そんなにあるの⁉」

「それだけだよ。お前の情報と合わせれば、そこからさらに絞り込める」

 机の上に置かれているポッキーの袋を持つと、ミヨちゃんはそこから一本を抜き取って、

「ポッキーゲームをする時、まず何をする?」

 と訊いてきた。わたしは、ミヨちゃんが左右に揺らす一本のポッキーを目で追いながら、

「うーん、まず女の子が女の子を好きになって……」

 と言うと、ミヨちゃんのチョップが頭に飛んできた。

「まず買ってきたポッキーを袋から取り出して口に咥えるんじゃない?」

「そうだ。だがそこに八通りの分岐がある」

 ゆらゆらと振っていたポッキーを食べながら間を置いた。

「まず、どちらが先にポッキーを手に取るか。これが二通り」

 ミヨちゃんが指を二本立てる。

「次に、手に取ったポッキーを自分が咥えるか、相手に咥えさせるか。これも二通り」

 空いた方の手で、これまた指を二本立てて、カニみたいだ。仏頂面なだけに少し滑稽で笑い出しそうになるけど、ここで笑ったらまたチョップを食らいそうなので我慢する。

「そして最後に、チョコ部分と持ち手部分、どちらを咥えるかの二通り。二×二×二=八で八通りだ」

 カニの足はハサミを除くと八本だったっけと思いながら、ミヨちゃんの推理に耳を傾ける。

「自分で進めておいてなんだが、どちらがどちらにどちらを咥えさせたのかという結論はしょうもなさすぎるな。それでもいいか?」

 わたしは迷いなく頷いた。わたしにとっては決してしょうもない結論ではないという理由の他に、ミヨちゃんの語りにわたしはすっかり興味を覚えていたからだ。

「なら続けるが、ここからまず四通りを除外できる。沙希、教室のドアを開けた時に見たものをもう一度言ってくれ」

「一瞬のことだったから、たくさんのことは見てないよ? 指を絡ませた両手でしょ、ポッキーを咥えた万結先輩の唇と、それから……」

「そこだ。先輩が咥えていたポッキーはどっちの部分だ?」

 さっきミヨちゃんに語った昨日の話を思い返してみる。チョコ色からへ、さらに万結先輩の綺麗な薄桃色の唇へと続く魅惑的なグラデーション……

「持ち手の方だった!」

「うむ。先輩はチョコ部分ではなく持ち手側を咥えていた。八通りのうち、半分は先輩がチョコ側を咥える可能性だから、それらはすべて除ける。残りは四通りだ」

 ミヨちゃんは、整理のために、学生鞄から取り出したノートに八通りの場合を書き込み、除いた可能性の上にバツを付けた。

 ×一、先輩が、自分で、チョコ側を咥える。

  二、先輩が、自分で、持ち手側を咥える。

  三、先輩が、相手に、チョコ側を咥えさせる。

 ×四、先輩が、相手に、持ち手側を咥えさせる。

  五、犯人Xが、自分で、チョコ側を咥える。

 ×六、犯人Xが、自分で、持ち手側を咥える。

 ×七、犯人Xが、相手に、チョコ側を咥えさせる。

  八、犯人Xが、相手に、持ち手側を咥えさせる。

「さて、今度はお前が教室に向かって歩いている時に聞いた声が焦点になる。確か、『ねぇ、はやくして……』と先輩が言ったんだったな?」

「うん」

「その声に何か特徴はあったか?」

「特徴ねぇ……。そういえばちょっと舌足らずというか、いつもと違う感じはしたけど」

、というような感じじゃないか?」

「あっ、そう! 確かにそんな感じ!」

「先輩が咥えていたものといえば一つしかない。先輩はポッキーを咥えながら『ねぇ、はやくして……』と言ったんだ。状況から考えて、その時、犯人Xはポッキーを咥えることに躊躇していたのではないだろうか」

「あーなるほど。つまり、万結先輩が先にポッキーを咥えていたってことになるから……先輩が相手に咥えさせた三番と、犯人Xが自分で咥えた五番はなくなるのね」

「そういうことだ」

 と言って、ミヨちゃんは三番と五番の上にバツを付け加えた。

  二、先輩が、自分で、持ち手側を咥える。

 ×三、先輩が、相手に、チョコ側を咥えさせる。

 ×五、犯人Xが、自分で、チョコ側を咥える。

  八、犯人Xが、相手に、持ち手側を咥えさせる。

「これであと二つだね」

「ああ。最後は我ながら気に入っている推理なんだが、八番の可能性があったとは考えられない」

「八番は、『犯人Xが、相手に、持ち手側を咥えさせる。』かぁ。どうしてこれがおかしいの?」

 ミヨちゃんはポッキーの入っている袋を、受け取れというようにわたしに差し出すと、

「お前が犯人Xだとして、この八番をやってみるといい」

 わたしはポッキーの袋を受け取り、さっそく一本を抜き取って八番の行動をとろうとする……と、おかしなことに気づいた。

「気づいたみたいだな」

「うん……相手に持ち手側を向けると、自分はチョコ側を持たないといけなくなるんだね」

「そうだ。人は普通、。手が汚れるからな。特に今は夏だし、チョコが溶けやすい時期にチョコ側を持って相手に咥えさせるなどナンセンスだ」

 ミヨちゃんが八番の上にバツを付けた。

  二、先輩が、自分で、持ち手側を咥える。

 ×八、犯人Xが、相手に、持ち手側を咥えさせる。

「結論はこうなる。先輩がポッキーを手に取って持ち手側を咥える。相手が躊躇するので『ねぇ、はやくして……』と言って急かす。先輩たちは指を絡めて手をつなぎ、いざポッキーゲーム開始という瞬間にお前が乱入してきた。という流れだったんだろう」

「うーん……いい! すごく捗るわ!」

 今度はわたしが手に持ったポッキーを揺らしながら、

「でもどうしてそんな推理がすぐ出てくるの? いや、素直にすごいと思うんだけどさ」

「ああ、それか。ちょうど昨日、ポッキーを食べる機会があったからな。……というか、犯人Xは私だったんだ」

「えっ!」

 びっくりしてポッキーを落としそうになった。きっとわたしの顔はこれ以上ないほど輝いているだろう。

「ちッ、だから教えるの嫌だったんだよ……」

「えー? でも教えてくれたじゃない」

「お前が言ったからだろ」

「何を?」

「誰とかなぜとかはどうでもいいって……」

 わたしは、手に持っていたポッキーの先端をミヨちゃんの口元に向けて、

「ポッキー、食べる?」

 と訊いた。

「……食べる」

 と応えて、ミヨちゃんはポッキーにかじりついた。

 わたしの指は万結先輩の唇ではなかったけど、ミヨちゃんはポッキーを頬張りながらぽろっと笑みをこぼした。

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