第15話




 ──影山さんをいじめるな。

 そのひとことを言った瞬間、教室内の温度が一気に二〇度くらい下がったような気がした。きっとその場にいた誰もが、頭の中で氷の割れるピシッという音を聞いたに違いない。

 私にスマホの画面を見せられた佐藤と鈴木は、無言で私と顔を見合わせている。その表情は退屈なニュースを見ているときと同じように、なにを思い、感じているのかは判然としない。次の瞬間には「は? 何なの?」とか「もしかしてバカにしてる?」とか言いそうなトゲトゲしい空気は変わらず、しかし二人はまばたきもせず、睨むとも見つめるともいえない視線を私によこしたまま、不気味なほどの静けさを保っている。二人の雰囲気の異様さに気が付いたのか、クラスメイトたちもまた、朝の教室とは思えないほどの静寂と緊張感に包まれた空気に、誰もが指一本動かすことも出来ず、その場で石像のように硬直している。

 その見えない壁に張り付けにされているみたいな空気に臆してしまわないよう、私は佐藤と鈴木に真っ向から向き合って、大きく息を吸った。




 思いやりというものが、よく分からない。ンガポコはそう告げて、小さく首を横に振った。

「私が人類のことを調べ始めたとき、君たちはなんて不器用なコミュニケーションしかとれない生物なのか、と驚いたものだ。相手が嘘をつき、騙し、利用しようとしていてもそれに気付かず、あるいは誠意を持って、心を開き、真実を話していても猜疑心を捨てきれない。

 こんなにも不確かで、曖昧で、壊れやすい意思疎通しか出来ない文明がここまで社会を発展させられたのは、ほとんど奇跡に近い。そしてその奇跡を起こしたのは、ひとえに君たち自身が、不完全ながらもお互いを尊重し、信頼し、ときに大きな争いを生みつつも、理解し合おうと努力を続けてきた結果だ。だからこそ、私はそれを人類の素晴らしい美徳だと思ってきた。

 しかし我々、情報知性体連合は、個々の思考や感情がネットワークによってお互いに常時繋がり合っている。そのため、他者の立場になって気持ちを考えるまでもなく、何かを考えたり感じたりした瞬間にはもう、お互いのことが明確に

 ゆえに、君たち人類がお互いを『思いやる』という概念が、理屈として理解は出来ても、感覚として上手く呑み込むことが出来ないのだ。……すまない。千代美には人類に対する色んなことを教わっておきながら、私からは何ひとつ返せるものがない」

 ンガポコは苦い顔をして話し終えると、わずかな沈黙のあとで、うつ向いたまま続けた。

「私は、君たちのことが羨ましかったのかもしれない。不完全で不十分な意思疎通しか持ち得ず、誤解やいさかいを何度も繰り返しながら、それでもお互いを信じ合って生きている君たちが。

 『物語』という、存在し得ない人物や事象で創られた非現実フィクションでありながら、気持ちや感情を登場人物に投影し、心を大きく動かすことの出来る君たちが。

 そしてそれら二つに共通して流れている概念こそが、まさに千代美の言うに他ならないのだ。

 それらはおよそすべての事象をコントロール出来るなどとうそぶいていた我々には、決して到達することのない領域だ。

 ……君たちの『他者を思いやる』という感情は、『創造』という概念と同様に、我々にとってもはや退化して失われてしまったものなのかもしれない。……いや、他者の気持ちを『想像』出来ないから『創造』することも出来ないのか。

 いずれにせよ、我々には自分以外の誰かを思うという心が、著しく欠落しているようだ」

 落ち込むンガポコは本心からそう思っているようで、しかし彼女は大事なことを見落としている。自分の心に誠実であろうとするあまり、こんなにも単純なことにさえ気付いていないンガポコのことが、なんだかとても愛おしく思えて、私はテーブル越しに彼女の両手を自分の両手でそっと包みながら、ゆっくりと首を横に振った。

「そんなことないよ」

 ンガポコの手はじんわりと暖かく、そのぬくもりはやさしかった。

「だってンガポコ、傷付いているじゃない。私の力になれないかもしれないっていうことに。誰かを思いやる気持ちが分からないっていうことに。

 という心が本当に欠けているなら、そんなことで傷付いたりしないはずだよ」

 私がそう告げると、ンガポコは目を丸くして二の句を継げないようだった。

「……それに、あんまり言いたくないけど、影山さんをいじめてる私の友だちよりも、ンガポコの方がよっぽど『思いやり』について真剣に考えてるよ。ンガポコたちほどじゃないにしても、私たちもネットで自分の気持ちや思いを手軽に書き込めるようになって、から、自分自身で他者の心を考えるってことを、みんなしなくなっちゃったんだ。だから『自分の考えに沿わない』=『理解不能で意味不明で荒唐無稽』っていうふうに、すぐに結論を結びつけてしまう。

 でもンガポコはそんなふうには思わない。きちんと考えて、悩んで、相手を理解しようとしてるじゃない」

 それでもンガポコは戸惑って、「いや、しかし……」とか「私は……」とか、もにょもにょ言いながら視線を泳がせていたので、私は今度は彼女の両頬をそっとつかんで、私の方へ向けさせた。まるでこれからチュウするみたいに。

「まだ分からない?」

「千代美……?」

「思い出して。ンガポコはなんのために地球へ来たのかを」

 私はンガポコの瞳をジッと見つめた。透明なまなざしと、澄んだ蒼穹のような虹彩の中に、宇宙が見えた。あらゆる可能性を受け入れ、どんな相手でも分かり合えると無意識に信じている、無限のやさしさが。


「──相手を理解しようとつとめること。それこそが、『思いやり』の最初の一歩なんだよ──」



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