第13話




 私は出来るだけ普段と変わらないように「行ってきまーす」と家を出て、いつもより少し早い電車に乗った。モモちゃんと話してしまうと、悪い意味でリラックスしてしまって、せっかくの決意がにぶってしまうかもしれない。佐藤と鈴木に影山さんのことを話すには、今の緊張感をたもったままの方がいい。

 けれども、強ばった心のままぎゅう詰めの電車に揺られていると、さすがに具合が悪くなって、私は駅に降りたあと、コンビニへ寄ってちょっとひと休みすることにした。買ったプリンをもみゅもみゅと食べていると、赤色だったライフが緑色へと回復してゆく。うん。やっぱり甘いは正義。

 そこから学校までの道のりで、佐藤と鈴木を説得するためのシミュレーションを頭の中で繰り返す。①真面目に聞いてくれるパターン。②ふざけて相手にしてくれないパターン。③不機嫌になってイラついてくるパターン。

「やっぱり③かなぁ……」

 影山さんをいじめるのはやめよう、なんて真正面から言っても、あの二人がまともに受けとってくれるとは思えない。出来るだけ自然な会話の流れから、影山さんはいい子、やさしい子、思いやりのある子、とつないでいって、二人が自発的にいじめを止めるように仕向けるのがベターかもしれない。どうやって影山さんの話題を持ち出すかという問題はあるけれど、会話なんてもともと未知数だから、上手く流れをつくるしかない。

「よし! 方針決まり!」

 まだ若干不安は残るけれども、あれこれ考え過ぎるとかえって怖じ気づいてしまうから、まあなんとかなるだろう、くらいに考えておこう。

 しかしそうして意気揚々と、まるでなにかスポーツの試合にでも行くような心持ちでいられたのも、わずかな間でしかなかった。

 スマホで音楽を聞きながら、五分ほど歩いて学校へ着くと、私はすれ違う友だちや知り合いにおはようと声をかけていった。佐藤や鈴木とはよく校門で一緒になるけれど、今日は微妙に時間がズレたせいか、二人とは会わなかった。

 下足場で上履きに履き替えて、廊下を歩いてゆく。二人への説得が上手くいく見通しはまるでないけれども、雨降って地固まるという言葉にもあるように、佐藤も、鈴木も、そして影山さんも、これをきっかけにして仲良くなれたら、それはなんていうか、すごく嬉しい。

 そんな淡い期待を抱きながら教室の戸を開いたとき、私は教室を満たす剣呑な空気に、思わずその場に立ち止まったまま固まってしまった。

「だからさぁ、どうしてくれんのコレ? って聞いてるわけ。分かる?」

 そこには、ひときわよく通る声で影山さんを責め立てている佐藤の姿があった。

 自分の席にふんぞり返り、腕と脚を組んで、いかにも女王さまみたいに振る舞う佐藤の目の前には、うなだれ、うつ向いたまま喋ることさえ出来ないほど萎縮した影山さんが立っている。

「黙ってたらいいと思ってんの? そういう態度マジでムカつくんですけど」

 傍らには佐藤の忠実なしもべのように鈴木が立っていて、ご主人さまと二人して影山さんを恫喝している。

 クラスメイトたちは佐藤と鈴木に気圧されてなにも言えず、ただ遠巻きに眺めているだけで、二人を止めようとする者は誰もいなかった。みんなあまり関わりたくないと思っているのかもしれない。

 私は強ばる身体でなんとか足を踏み出して、佐藤たちに近付いていった。

「おーぅ、お千代」

「おはー」

 私に気が付くと、二人は何事もなかったように明るくあいさつをしてくる。嫌な感じだ。

 私が軽くおはようと返して、なにがあったのかを佐藤に問いかけると、佐藤は「ちょっと聞いてくれる?」と、語尾を上げながら、いかにも理不尽な目にあわされたと言わんばかりに愚痴を語り始めた。

「さっきここで鈴木と話してたらさぁ、影山コイツが花瓶を抱えてふらふらしながら歩いて来たわけよ。その時点でぶっちゃけ嫌な予感はしてたんだけど、案の定、私のど真ん前でズッコケそうになってさ。もう、スカートも靴下も座席もびっちょびちょに濡れまくっちゃって。どうしてくれんの、って言っても黙りこくるだけでウンともスンとも言わないし。ねえ、あんた悪いと思ってんの?」

「……ごめんなさい」

 影山さんは視線を上げることなく、そのかすかな声からは、彼女がなにを考えているかは分からない。

「だいたい、日直でもないくせに何で花瓶なんか持ってうろついてたの? 意味分かんないんですけど」

「それは……、日直の人も田中先生も誰も花の水を代えようとしないから、かわいそうになって……」

「は? ますます意味分かんない。花はかわいそうでも、水をぶっかけられた私に対してはあんた何にも思わないわけ?」

 これはまずいことになった……と、私は心の中で頭を抱えた。考えてきた計画(というか段取り)が全部パーだ。こんなにも険悪になってしまったら、今さら影山さんを持ち上げたところで、かえって逆効果になるのは明らかだ。

 とはいえ、放っておく訳にはいかない。ていうかたぶん私にしか止められない。

「ま……、まあまあ二人とも。影山さんもわざとやったことじゃないだろうしさ。もうその辺でゆるしてあげなよ」

 どうせあんたのムダに長い脚で影山さんを引っ掛けたんでしょ。そのくらい私にも分かるわ。──とは思ったけれども、言葉には出さなかった。うん。えらいぞ私。

「じゃあ私の濡れた服はだれが責任取ってくれるわけ? 結局私がひとり損してんじゃん。そいつは適当に謝るだけで何もしてないし。だいたい着替えはどうしてくれんのよ? 今日は体育もないし、一日濡れたままで過ごせって言うの?」

 佐藤は今や怒りのボルテージをどんどん上げていって、こちらの説得など聞きもしないどころか、むしろ火に油をそそぐことにしかなっていない。怒声はより大きく、声高に響いて、隣のクラスにまで聞こえるんじゃないかと思えるほど膨れ上がっている。

 その声が、ふと穏やかに「あ、そうだ。いいこと考えた」と、どこか可笑しそうに変化して、しかし顔付きはさらに鬼の形相になる。

「あんたの服と交換してよ。今すぐそこで脱いでさあ!」

 ふたたび怒声で叫びながら、佐藤は手を伸ばして影山さんのスカートを無理やりずり下ろそうとする。影山さんは小さな悲鳴を上げながら必死でそれを押さえようとして、しかしパンツの一部が見えてしまっている。

 さすがに見ていられなくなって、私は「やめなよ!」と、つい強い口調になって間に入った。

「あ? 何でそいつの肩を持つわけ? ……お千代さぁ、何か勘違いしてない? 被害者は私だよ? それとももそいつと同類と見られたいの?」

 佐藤は底冷えがするほど容赦ない声で私をめつけ、側にいる鈴木もいやらしい笑みを浮かべながら私たちを見つめている。

 私は他者に対する寛容さのない人間の恐ろしさをありありと身に受けて、みぞおちがグゥっと重くなるのを感じた。おへその下の辺りから両脚にかけての力が抜けていって、今にも膝が震えそうになるくらいだった。

〈黙ってちゃダメだ! なんでもいいから言い返さないと、このまま負けちゃう!〉

 分かってはいても、のどがカラカラになって、上手く声が出せそうにない。それ以前に呼吸が止まっている。手汗がにじみ、頭が真っ白になる。そのくらい、二人のことが怖かった。

〈もうだめだ……。やっぱり私には無理だったんだ──〉

 私がそう諦めかけたとき、後ろに庇っていた影山さんが、私の手をぎゅっと強くにぎった。振り返ると、彼女も震える脚を懸命に立たせて、二人に対しての精いっぱいの抵抗を試みているようだった。うつ向いた顔の脇からは、あの日に見たすみっこぐらしの小さな髪止めが、痛ましいくらい可愛く揺れていて、そこに至って、私は初めて気が付いた。

〈そうか──。影山さんはいつもこんな気持ちでいたんだ──〉

 そう思ったら、急に佐藤と鈴木に対する怒りが沸いてきた。

〈あんたたちは人の痛みを知らない。痛みを知っている人間の方が、知らない人間よりも弱いなんて、あってはならないことだ。

 だけど私には二人を説得する言葉を持たない。佐藤も鈴木も、自分の価値観や感情にしか従わず、他者を理解したり思いやったりする気持ちをすっかり忘れてしまっているからだ。それなら──!〉

「ねえ、ちょっとこれを見てほしいんだけど」

 私はスマホを操作して画面を二人に向けた。

「は? 急に何言ってんの?」

「意味分かんないんですけど」

「いいから。とりあえず見て」

 怪訝な顔を向ける二人へ、私はさらにずいっとスマホを近付けた。

 私のSNSに書き込まれていた、あの文字。『ンガポコ』を。

「──影山さんを、いじめるな」


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