第9話
瞬間、時が止まった。丸顔に愛嬌のある笑顔をたたえていた女性店員は、途端にその笑顔をしぼませ、引き吊った、恐怖に
完全なる無音の刹那に、時計の秒針だけが、カチッ──。カチッ──。カチッ──。と、あたかも近付いてくる運命の足音のように規則正しい音を響かせていて、その異様な緊張感に、誰もが私たちの会話に耳を傾けながら、硬直しているのが分かった。
「あの……大丈夫ですか? こちらのメニューはかなり辛いお品になるのですが……」
「あー大丈夫ッス。彼女、モモちゃんは激辛喰いの
恐る恐るといった風に、あるいは控えめに「止めとけ」と伝えてくる女性店員に、私は軽く返した。
断っておくけれども、これはなにもンガポコに意地悪をしているのではない。彼女自身が、何事も経験が大事なのだと言っていたので、その貴重な経験の機会を私が与えてあげたに過ぎない。
決して両親を勝手にいじくったことへの逆襲だとか出会った瞬間から常にペースを握られっぱなしだからここいらで一発カマしてやろうとかそういったよこしまな気持ちは一切ない。ええ。一切ありませんとも……。いーっひっひっひっひっ。おっと持病のシャクが出てしまった。相すまぬ。ところでシャクってなあに?
お姉さんは、これから死ににゆく戦士を見送るときの笑顔を見せて、厨房へと去って行った。
彼女が席を離れるのを確認してから、ンガポコが私に声をかけた。
「先の女性は何だか我々を怪訝な目で見ていたように思うのだが、私に何か落ち度があったのだろうか」
「いやー、気のせい気のせい」
「そうか。ならばいいのだが。何せ人前で食事をするというのは初めてだからな」
「初めてって……、モモちゃんの家族と一緒にごはん食べないの?」
というか、ンガポコはモモちゃんの家の中ではどんな風に過ごしてるんだ? この調子だと、おじさんやおばさんを誤魔化すっていうのも無理そうだし。
「私が表に出るのは君の前でだけだ。家族の前で私が表に出る必要もないし、余計な混乱を生んでしまう。ゆえに、家にいるときは基本的に私は内側に籠っている。調べものをするときは表に出て来るが、それもモモ=チャンがひとりきりのときを見計らってから
「そうなの?」
そこまで気を使っているなんてちょっと意外だ。
「ていうか、今ふと思ったんだけど、モモちゃんにとってあんたが表に出ている間の記憶ってどうなってるの? モモちゃんの意識は眠ってるわけだから、記憶がブツ切りになるんじゃ?」
「その点は問題ない。おおよそ私の経験したことを辻褄が合うように編集して海馬に書き込んでいる」
「それって、好きなように記憶を改竄してるってこと?」
「違う。例えば今このときのことを、細かな会話の内容には触れずに記憶させている、ということだ。早朝に千代美と会って、ラーメン屋に寄った、という事実と結果のみがモモ=チャンの記憶に残り、我々の間の会話や問答は残らない」
「……それってすごくかなしい」
「何故だ?」
「なぜって、それじゃあ思い出になにも残らないじゃない。数式じゃないんだから、事実と結果だけあっても意味がないよ。たとえどんなに些細なことでも、あんなことして盛り上がったとか、こんな話をして笑いあったとか、そういったことの積み重ねが大事なんでしょ?」
「君は昨日、誰とどんな会話をしたかすべて覚えているのか? だとすれば地球人の記憶力を甘くみていたことになるが」
「いや、すべて覚えているわけじゃないけど……。ていうか別に一から百まで覚えてなくてもいいんだよ。誰かと一緒にいて、どんなことを思ったかとか、どういう風に感じたかとか、色んな思いや気持ちを共有することで、信頼関係って成り立ってゆくんじゃないの?」
どうだ。なかなかいいこと言ったろう、私。
ところがンガポコは、ふふん、とドヤる私の顔を見て、可愛らしく小首を傾げながら、まるで私が間違ったことを言っているかのように、ごく自然にこう問いかけてきたのだ。
「君たち人類の人間関係というものは、打算と忍耐でかろうじて成り立っているのではないのか?」
彼女の言葉を聞いた瞬間、なぜか佐藤と鈴木の顔が頭に浮かんできて、違うという言葉がのどの奥で詰まってしまった。
佐藤と鈴木は友達だ。それは間違いない。しかし私は二人を純粋な意味での友達と言い切れるだろうか。あるいは学校生活を円滑に過ごすための実利的な友達ではないと、断言出来るだろうか。
そこにいたって、私はなぜすぐに否定出来なかったのか、その理由を悟った。
さしてショックではなかったのは、私自身薄々は気付いていたんだろう。私が本当は二人のことをどう思っているのかということを。私はそういう乾いた人間なのだ。
──しかしそれならモモちゃんとの関係は?
ンガポコへ二の句を告げられないまま、まごまごしている間に、さっきのお姉さんが「お待たせしました」と、私の野菜塩ラーメンを運んできた。
〈モモちゃんは、佐藤と鈴木とは違う。私の大好きな親友で、そこには理由なんてない〉
モモちゃんは特別だ。でもだとするなら、私はモモちゃん以外の人間関係をメリットかデメリットでしか考えていないのだろうか。それともンガポコの言うように、人間関係とはそもそもそういうものなのだろうか。過去の友達との関係性を思い出してみようとするも、私には小学校、中学校と友達がいないんだった。
〈むぅ……。でぃふぃかると……〉
ラーメンのナルトを見つめながら、そんなことをぐるぐる考えているうちに、ンガポコの〈龍の炎の息吹〉が遅れて運ばれてきた。
「まじか……」
私は思わず絶句した。さっきまでの悶々とした思考が一瞬で吹き飛ぶくらいの衝撃だった。
一言で言えば赤かった。ていうか赤しか見えなかった。
「……千代美」
「……なに」
あのンガポコが恐る恐るといった風に私を見る。その顔からは、ある種の恐怖と戦慄がアリアリと浮かび、本能的な忌避感が見てとれた。
「これは……本当に人類の食べ物なのか」
どんぶりには赤い粉──たぶんハバネロかな?──がありえないくらい山盛りにされていて、麺も具も埋もれて見えず、ちょっと見た目には、どんぶりを調味料の入れ物代わりに使っているようにしか見えない。
「これを食べることに私は抵抗を覚えるのだ。直感だが……何かヤバい」
それはそうだろう。だって机の上に置かれた時点で、目も鼻ものどもヒリヒリするんだから。ましてそれを食べるとなれば……ひいぃ。
さすがにここまでヤバそうな
「だーいじょーぶだぁって! ここは食べ物屋だよ? 食べられないものが出て来るわけないじゃん!」
あえて大したことない風を装う。あえてね。どうせ食べないといけないんだったら気持ちが楽なほうがいい。食べないともったいないし。まあ食べるのンガポコなんだけど。
「そうか……。まあその通りだな。では気は進まないが、頂くとしよう」
「私も。いただきまーす」
ちゅるちゅるずぞぞ。ちゅるちゅるずぞぞ。うん。あっさりしててボリューミーで結構うまい。朝ラーメン意外とイケるかも。
……などと若干現実逃避しながら、チラッとンガポコを見やると、彼女はゆでダコみたいに顔を真っ赤にして、全身の毛穴という毛穴から蒸気を発散していた。今顔を洗えば毛穴汚れとかきれいに落ち……あ、だめだ。目と口が「*」になってる。洗顔どころじゃないや、こりゃ。
「ぼい。びぼび……」
ンガポコが目と口を「*」にしたまま、こちらを見てなにか言っている。……怖ぇ。
「ぼい。びぼび」
これは……「おい。千代美」と言っているのだろうか。
「びびば、ばばびぼ、ばばびばば」
やばい。なに言ってるのか全然分かんない。けど慣れるとシュールでちょっと笑えるかも。唇がタラコみたいになってるし。……ぷーくすくす。
「ばばぶば」
これは「笑うな」と言っているんだろう。たぶん。
「あーごめんごめん。ちょっとなに言ってるのか分かんなくってさ。で、なに?」
必死で笑いをこらえながら、それでもときおり笑いをもらす私に、ンガポコは「*」のまま、神妙な顔つきになってみせた。器用なやっちゃ。
「……びっべぼぶば」
「言っておくが?」
「ぼぼ、ばばばぼ、ぼびぶびば」
「この、身体の、持ち主は?」
「ぼぼ=ばん、ばばばば?」
「モモちゃん、だからな?」
私はひと呼吸おいて、ンガポコの言っていることをつなげてみた。
「言っておくが、この、身体の、持ち主は、モモちゃん、だからな?」
「……」
「……」
アッ──!
しまった! ンガポコに一泡吹かせることしか考えてなかったけど、身体はモモちゃんのままだった!
「ごめん! モモちゃん!」
「ぼぼ=ばんべばぶ、ばばびびばばばべ」
ンガポコがまだなにかほざいていたけど、もうそれどころじゃなかった。私は大慌てでグラスの水をモモちゃんに差し出すと「飲んで! 早く!」とうながした。それが間違いだった。
水を飲んだモモちゃんは、その直後にむせびだし、のどを掻きむしりながら「び、び、び……!」と、まるで毒を飲まされたかのような、痛苦に歪んだおぞましい声ならぬ声を発しはじめた。
「ど、ど、どうしたの!? モモちゃん!」
「びびびびび……!」
あたかもロイコクロリディウムに寄生されたカタツムリのように(注! ガチでグロいので検索されるのであれば自己責任でお願いします)顔色を次から次に変化させるモモちゃんを目の当たりにして、私は重大なミスをおかしてしまったことにようやく気が付いた。
〈……カプサイシンは油溶性、水は厳禁……! うかつだった……! 焦るあまり真逆のことをしちゃうなんて!〉
ラーメン四天王、巣鴨の仙人が確かそんなことを言っていた。水で辛さは洗い流されず、むしろ辛さがより鮮明になり、痛覚を刺激して口腔内に激痛が走ると。
〈思い出せ……、思い出すんだ。藤原書記はどうやってこの激辛を乗りこえたのか……!〉
「生命ノ維持ニ深刻ナ影響ヲ及ボス可能性ノアル、外的要因ヲ検知シマシタ。緊急脱出しーくえんすニ移行シマス」
モモちゃんがいきなり機械ナレーションみたいな声になった! 急げ! 急いで解決法を思い出すのだ!
「5……4……」
メニュー表をめちゃくちゃにめくっていた私は、デザートの欄にあったアイスを見いだすと、思わず「これだ!」と叫んで、店員のお姉さんを大声で呼んだ。
「バニラアイス! 超特急で!」
〈油溶性の激辛には、油脂性のアイスが一番効果的……! 藤原書記もそうやって食べてた〉
「3……2……」
「急いで!」
私の剣幕に押されたのか、お姉さんは小走りに厨房へ入っていって注文を告げると、おどろくほど早くアイスを手にして、私たちのもとへ駆け寄ってくる。
「1……0……ピー。発射シマス」
なにをだ!
「するなぁーっ!」
私はお姉さんの手からアイスをひったくると、強引にモモちゃんの口へ放り込んだ。
モモちゃんはしばらくモガモガしていたけれど、ようやくひとごこちついたのか、徐々に顔色が元に戻っていった。蒸気はおさまり、目と口も、愛らしいいつものモモちゃんのものになって、私はなんとかホッと一息つくことが出来た。
「モモちゃん……大丈夫?」
「ふぅ……まさか地球にこんな危険な食物があるとは。あと私はンガポコだ」
「ンガポコは問題なさそうね」
「君はモモ=チャンに比べて私の扱いが雑過ぎないか」
「そんなことあるよ」
「あるんかい」
ンガポコが初めて私にツッコミを入れた。なんだこれ。謎の達成感。勝った。
「まったく……」
そう思ったのもつかの間、ンガポコは再びはしを取って〈龍の炎の息吹〉を食べ始めた。
「ってまた食べるの!?」
「これも経験だ。幸い攻略法は分かった」
それからンガポコは、カウンターに座っていた
これには私も含め、おっちゃんたちも大いに盛り上がり、拍手や歓声で皆ンガポコをたたえた。
「お嬢ちゃんすごいねえ! 俺ァこの店の常連なんだが、こいつを完食出来たやつァ、初めて見たぜ。良かったらSNSにのせてもいいかね?」
「それは私の情報をネットワークに流すということか?」
「お? あぁ、まあそういうこった。俺ァこう見えてもラーメン喰いの間じゃそこそこ有名で、フォロワーも結構いるんだ。どうだい? お嬢ちゃん。一気に有名になれるかもしれんぞ?」
「ふむ。それは願ってもない話だ。私は──」
「あー、ごめんなさい! さすがにネットで素顔をさらすのはちょっと無理かなあ! それに私たちこれから急ぐ用事があるんで! それじゃ!」
おっちゃんの話にのせられそうになっているンガポコの間に割って入り、モモちゃんがネットのさらし者にされるのをなんとか防ぐと、私は彼女の手を取って、手早く会計を終えて外に出た。
そのまま手を引いてしばらく歩いていると、不意に「千代美」とンガポコが私に声をかけてきた。
「せっかく私の情報を積極的に拡散してくれるというのに、何故止めたのだ?」
「モモちゃんがネットでさらし者になったら大変だし、かわいそうでしょうが」
どこか不満げなンガポコに、私は振り返って答えた。彼女はまだ「むぅ……」と納得いかない様子で、うらみがましくつぶやいた。
「……私を騙してあんな爆弾みたいな食物を食べさせたくせに……」
ギクッ。
「……私はさらし者にされ、かわいそうな目にあっているというのに……」
ギクッギクッ!
「あ、あー。そういえば、あんたって色んな情報を自由に変えられるんでしょ? だったらあの激辛ラーメンの味を変えちゃえばよかったのに」
私の露骨な話題そらしに、ンガポコはジト目でため息をつく。
「それでは『経験』の意味がないだろう。それが例え
ンガポコの言ったことに、私は反発と同時に、はっきりとは言葉に出来ない、羨望に近い感情を抱いた。
かなしいことと嬉しいことが同価値であるはずがないと思う反面、辛いことと楽しいことのどちらも大切に思うことが出来たなら、その覚悟を持つことが出来たなら、教室内における立場とか人間関係にとらわれることもなく、佐藤や鈴木や、そして影山さんにも、私は本音をさらして、誠意をもって接することが出来るのだろうか。
私がそんなことを思っているなどとはつゆしらず、ンガポコはふと表情を変えて考え込むようにひとりごちている。
「……しかし、たかだか食事をしただけであれほどの注目を集めることが出来るとは。ひどい目にあった甲斐があるというものだが、これは意外だった。一考してみる価値はある、か……?」
なおもぶつぶつ言っているンガポコに私が「次はどこ行くの?」と問いかけると、彼女はしばし考えて答えた。
「図書館へ行けないのなら、本屋へ行ってみよう」
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