3

 数瞬のラグがあって、連絡通路の風景に重ねてARが表示される。……やはり遅い。この場に来るまでにいくつかのエリアを通ったが、とりわけこのエリア――中央棟117階・一般区画・北側連絡通路――は表示が遅いと感じる。


 視界に表示した画面にログが書き込まれていくのを横目に収めながら、辺りをざっと見渡した。三メートルほどだろうか、どちらかというと狭めの幅の通路に、今僕とこずえ以外に往来はない。通路の両脇には鳩尾ぐらいの高さから窓が張られていて、窓の向こうは夕暮れの茜色に染まっていた。空は進行方向の方角が明るく、しかし角度の関係で窓から陽が射し込まないために、通路は薄暗い夕闇に閉ざされている。


 普段から通るときと変わらず、特に異常なものはないように見える。横を見ればこずえも同じように周囲に視線を走らせていて、特に何事もないとわかるなり、すぐに視線を手元に落とした。


「……あー、『西講義棟117階・課外活動区画・北側連絡通路』、確かにあるな。にしてもなんだこのサイズ」


 彼の言につられ、僕もログ画面に目を落とした。十七時五五分、僕らがこの通路に足を踏み入れた時刻の行が幾つか並ぶ中に、果たして該当のログを認める。詳細を表示すると、言われれば確かに、『連絡通路』と銘打たれているにしては異様なほどに大きなデータサイズである。中央棟のエントランスホール並みか、それより少し小さいぐらいだろうか。ただ……。


「でも、現在地のドメインのコンテンツが優先的に、読み込まれたぶんから表示される、って考えると、よく考えたら、やたら重いキャッシュがあってもAR表示が遅れるってことはないはずだよね」


 勝手にすたすた歩き出すこずえに、僕は小走りで追いつきながらそう告げると、「あぁ~、まあ確かに」周囲を見回しながら、こずえはまた別のことを考えているように曖昧に頷く。頷きながら、「なぁ、あれ」彼は急に歩を止め、連絡通路の片隅を指差した。つられてそちらに視線を向ける。


「あれ、あの廊下……」


 連絡通路の右側。連なって張られた窓が途切れ、連絡通路は西講義棟の中へと続いていく……。その終わり間際に、右に折れ曲がっていく狭い廊下の入り口があった。僕たちがいる連絡通路よりも頭ひとつ分ほど天井が低くなっていて、その境界は一段下がるふうになっている。


「おい、眼鏡外してみろ」


 脇から小突かれて、怪訝にこずえの方を振り向くと、なんだか凄く悪そうな顔をしている。「俺コンタクトだからさ、ほら」にやにやと笑いながら肘でつついてくる彼に、僕は渋々眼鏡を外し、促されるままに廊下に視線を戻すーーと、ない。


 慌てて眼鏡を掛け直す。また外す。


「えっ」


 壁しかない。眼鏡を掛け直すと、廊下が見える。困惑して何度も眼鏡を掛けたり外したりする僕を横目に愉快そうに笑いながら、こずえがずんずん廊下に近づいて、眼鏡を掛けていると何もない空間にしか見えない、その境界に手をかざした。手は見えない壁に阻まれて、パントマイムのように中空に留まる。


「おぉ~、面白いなこれ」


 何度か中空をぱしぱしと叩いて、それが壁だと確かめるこずえ。「入れないか……、おい、こっち来てみろよ」楽しくてたまらないというような表情でこちらを呼ぶ。


 彼のもとへ近づいていくにつれ、廊下の先の様子が徐々によく見えるようになっていく。同じような壁が続き、壁、壁……。それから……やがて正面に立った頃に、ずいぶんと遠くの方が突き当たりになっているのが見えた。突き当たりはやはり壁で、しかしその左右にまた廊下が延びているようだ。あまり遠くて解像度が低く、よく様子が伺えないけれど、左右の廊下から零れているのだろうか、突き当たりはうっすらと淡い青い光に照らし出されていた。……僕らのいる夕暮れの連絡通路とは対照的に。


 僕の胸中に、何かざわざわした感覚が沸き上がる。興味……、いや、好奇心……? 廊下の先はどうなっているのだろう。体を左右に揺らしながらその先を伺おうとするものの、やはり流石に距離も角度も悪すぎてかなわない。横を見やると、こずえも僕と同じように左右に揺れながら廊下の先を見通そうとして、やがて諦めたふうに揺れるのをやめて中空に手をついた。


「なんとか入れないかなぁー、これ」


 こずえがぼやく。「入るって」無理だろう。入ると言っても、壁のなかに入るのはまず物理的に無理だ。ただ、壁の向こうに空間が割り当てられているなら……あっ。


「後ろは……なぁ、壁の向こう……」


 僕の言に、「あぁ~、見てみるか」彼は窓がある方まで戻り、窓の際に顔を寄せてこちら側を伺う。


「空中だな」


 僕も立体地図を開いて確認すると、僕たちがいる位置ーーアイコンが明滅しているーーは、窓が張られていない壁であるとはいえ、まだ西講義棟に接続されている手前だった。だから、壁の向こうはすなわち何もない空中であるはず。「歩いていくわけにはいかないかぁ」呟くこずえのもとに向かい、一歩下がってくれた彼の位置から確認するが、やはり先ほどの位置の壁の向こうは空中だった。何もないーーただ西講義棟の白い外壁だけが見える。手を伸ばすにも今一つ遠い距離。それに、恐らくだが見た目に現実の外壁しか見えないのであれば、そこまで仮に行けたとしても現在ドメインの情報は変わらないだろう。入るのは……「うーん、無理そうだなぁ」こずえの声と思考が被る。


 しばらく降りる沈黙。こずえは再び壁の前まで行き、廊下の映像をまじまじ眺める。顔を近づけたり、遠ざけたり、と、思い付いたように中空を操作し始める。


「とりあえず、調べられる範囲で調べていこうぜ。後できりことみづきにも教えよう」


 とりあえず俺視界撮るから、と告げて、彼はまた近づいたり遠ざかったり、しゃがんだり立ち上がったり、きっとさまざまな角度から視界を撮っているのだろう。僕は彼の数歩後ろに立って、ひとまずこちら側から調べられる廊下の情報を集めることにした。

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