第3話・初出勤

 いよいよ学校に初出勤だ。今日からこのオレも、いっぱしに高校の美術教師というわけだ。高校教師・・・なかなか聞こえがいいではないか。ただのバイトとはいえ。

 ところが、いきなり問題に直面だ。この私立男子校には、美術関連のなんの設備もないというのだ。だいたいどこの学校においても、美術の授業があるのなら、美術室というのがあるものだろう。教科書とノートが一冊ずつあれば事足りる学科の授業とは違い、この体験型教科には、ある程度の規模の空間と備品が必要なのだ。デッサンひとつをやるにしても、画板にイーゼル、そしてモチーフ(描く対象)がいる。版画や立体造形、彫刻、粘土細工をするなら、素材も道具も用意しなければならない。専門的な教育環境に飛び込んだオレのような者ならともかく、一年間限定の週一授業のために、いちいち道具やらなんやらを購入させるのは酷だろう(業者とつながった強欲教師はうまうまとこれをやるが)。さらに、実際に制作作業をするスペースに、備品や作品を保管する準備室、そして後片づけのための洗い場など、最低限のインフラは欲しいところだ。ところが、これがない。あれもない。なんにもない。あるのは、ご隠居さん待合い室の壁に備え付けの棚だけだというのだ。

「この段は全部、美術の先生が使っていいことになってます」

 そう言ってもらったが、書棚のようなこのスペースは、石膏像のような大きなものが収まる広さでもない。そもそも、収めるべき備品が絶無ではないか。

「だったら、少々の予算は出してもいいです」

 校長がそう言うので、とりあえずは生徒全員分のスケッチブックを要求した。ところが、これですでに予算の半分だという。残りの使い道を苦心惨憺して考え、水彩絵の具と手鏡を100点ずつ、なんとか確保した。教室というせまいスペースでできる美術の授業は、自画像くらいしかない!というわけだ。自画像に育てられたオレだ。これだけは自信を持って教えることもできよう。こうして、なんとか体裁だけは整えた。

 で、初出勤のこの日、はじめての授業というわけなのだ。が、なんとここへきて、注文品がまだなにも届いていないことが発覚した。ぎっしりと埋まっているべき棚が、すっからかんの空なのだ。おい、テメーこら、画材屋っ!とっとと持ってこい!・・・いやいやいや、悪態をついても仕方がない。あと五分で授業開始なのだから。始業時間ギリギリでやってくるオレもオレなのだが。

 キーン、コーン、カーン、コーン・・・

 ついに運命のチャイムだ。やるしかない。最初のクラスに乗り込む。生徒たちはみんな、興味津々の眼差しをこの新米教師に向けてくる。ここでなめられてはならない。

「えー、今日からこのクラスの美術を担当する、『すぎやま』です。ヨロシクっ!」

 杉・・・山・・・

 黒板に自分の名前を大書するという、あの憧れのやつをやる。気分は・・・まあ悪くはない。が、それよりも、今からやることが決まっていない。脇汗がすごい。ひざの震えが止まらない。大学の教育実習で金沢郊外の中学校に派遣され、すでに授業は経験ずみだが、あの緊張感とはケタ違いだ。今この瞬間に感じているのは、深刻な恐怖だ。スケッチブックも絵の具もない徒手空拳で、75分間のコマをなんとかやり過ごさねばならないのだから。いつまでも世間話をつづけたところで、間が持つわけがない。どうしよう・・・なにをやらせたらいい・・・?

「えー、そんなわけで~、美術大学を出て~、この学校の先生になったわけだが~・・・」

 生徒たちが、話に飽きはじめている。そろそろなにかをはじめなければ。もうノープランで突っ込むしかない。幸い、職員室の裏倉庫でわら半紙を見つけていた。勝手に持ち出したそいつを配る。わら半紙とは、昭和を知らないきみらにはわからないだろうが、つまり連絡事項をガリ版で刷ったりする(これもなんのことだかわかるまい)とき用の、ザラザラのちり紙だ。この時代は、ツルツルすべすべなコピー紙のごとき真っ白紙は高額で、チンピラ高校生が落書きに使うなどもってのほかというご禁制品だった。だから事あるごとに、このガサガサのわら半紙が活躍したのだ。こいつを画用紙代わりに、というわけだ。

 紙はなんとかゆき渡った。鉛筆は、生徒が各自に持っているシャーペンでも構わない。が、描くべきモチーフがない。自画像を描かせようと思っていたのに、鏡が届いていないのだから。窮したオレは、意を決し、教卓によじ登った。そして、スーツを脱ぎ、ネクタイ、ワイシャツをはぎ取り、上半身裸になった。クラス中にどよめきが走る。ど、よ、よ・・・

「ええい、自己紹介代わりだ。オレを描けい!」

 教卓上に立つ、奇妙な美術教師。それを見上げて、ゲラゲラと笑い声が湧き起こる。しかし、見上げた半裸の男が、空の彼方を指差すクラーク博士のポーズを取ると、生徒たちは不思議に静まり返った。そしてなんと、クラス中が一斉に鉛筆を動かしはじめるではないか。なんだ、こいつら、意外とかわいいところがあるぞ。

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