第2話・岐阜
少年期に家族で新築の家に引越したのを皮切りに、大学時代のひとり暮らしで金沢市内の三軒のアパートを渡り歩き、卒業と同時に実家に戻って、さらにまたひとりで岐阜市内へ移るわけだから・・・生涯で六度目の引越しということになる。今回の引越しの理由は、通勤時間だ。羽島の片田舎にあるわが実家から、岐阜市の最果てにある職場の高校に通うには、あまりにも距離がありすぎる。実家からの電車通勤となると、竹鼻線という単線で終点の岐阜まで移動し、そこからチンチン電車で市内を横断し、これまた終点でさらに田舎路線に乗り換えて20分、という経路しかない。そんなシブい旅を、毎日繰り返すのは御免だ。というわけで、職場の近くに居を構えることにしたのだ。
この引越しをするにあたっては、もうひとつの事情があった。高校の非常勤講師の薄給では食っていけそうにないため、夜の仕事をはじめることにしたのだ。例によって、自分から主体的に決めたわけではない。高校教師の職をオレに譲った先輩が、「ついでに夜にやってたバイトの方も引き継いでくれ」と言うので、「はあ」とふたつ返事をしていたのだった。夜の仕事とは言っても、酒、お水がらみではない。進学塾の講師だ。それも、なぜか数学の。共通一次試験で1000点満点を350点しか取れなかったこのオレが、数学の先生とは片腹が痛いではないか。しかも教えるのは、「中学・特Aコース」という、県下最高レベルの高校を目指す秀才中学生たちを集めたコースだという。昼間に最低脳のアホな子たちに美術を教えた後、夜には最高度の優等生たちに数学を教えるわけだ。まったく、奇妙なことになったものだ。そんなわけで、昼間と夜にはさまれた時間を過ごす待機場所を確保するためにも、岐阜市内にアパートを借りるか、となったのだった。
岐阜の物価には驚愕させられる。東京都内の土地は、バブルの最盛期で「千代田区いっこを売ったら、カナダ全土が買える」というほどの狂乱物価だというのに、この破格値はどうしたことだろう?市内から少し外れた長良川のほとりに、「忠節」という美しい名前の駅がある。これが岐阜市街を流す路面電車(チンチン電車)の終着地点なのだが、この駅のすぐ脇に見つけた物件は、6畳の和室に6畳のキッチンダイニング、トイレ付き(風呂なし)で、家賃がたったの15000円だという。それどころか、お向かいの部屋は6畳一間だが、11000円だ。金沢でもこの衝撃プライスは聞いたことがない。確かにお値段に見合うボロだが、そういう美観にはまったくこだわらない性格なので、早々にここに決めた。
せっかくの駅近だが、電車通いよりも、新しく購入した原チャリ「ジョグ」を日常の足とする。生活のベースキャンプが整い、新生活がイメージできはじめた。この更新感は、なかなか心躍るではないか。しかし、さすがは15000円の安物件、とすぐに思い知らされることになった。駅のすぐ隣とあって、踏切の警報音がけたたましい。電車が通ればガタゴトと振動がはじまるし、通過する際には意地悪のつもりなのか、プアーン、といつも警笛を鳴らしていくし、なかなかの環境だ。その上に、お向かいと両隣の住民のキャラが立ちすぎていて、落ち着くことができない。
向かって左隣の親子は、常に大声でケンカをしている。ティーン男子と父親のふたり暮らしと見える(いや、聞き取れる)が、部屋内で顔を合わせるたびに(と推測できる)口汚くののしり合っている。とにかく、ずーっとやり合っているのだ。壁板がひどく薄いので、騒々しいというよりは、内容が気になって煩わしい。かと思えば、向かって右隣の住民は、こちらの生活音に異常なほどに厳しい。不思議なことに、ミニコンポの音楽が漏れたりするのは平気なようだが、水道の蛇口を締める「キュッ」という音や、鉄製の玄関ドアが閉まる際の「キイッ」という音には我慢がならないらしい。そうした音を立てると、すぐに間の壁が、どんっ、と叩かれる。はじめのうち、それがなにを意味するのかよくわからなかったのだが、どうやら彼の耳はコウモリのように高周波の音にだけ反応するようで、やがて、なるほど、その手の音を出さなければいいのだ、と理解した。そんなある夜、酔っ払って、水道の蛇口を派手に「キュキュッ」とやってしまった。派手に、とは言っても、普通のひとなら聞き流すか、まったく気づかない程度のやつだ。ところが、彼にはこの音が許せなかったようだ。翌朝、玄関ドアの郵便受けに、新聞紙に包まれた棒状のものが突っ込まれている。開けてみると、ボロボロに錆びた包丁だ。新聞紙には、「蛇口をしめるときは気をつけてください」と書いてある。心底、気をつけよう、と思った。それにしても、うるさい左隣に、音に厳しい右隣・・・この両住民が隣り合わせていたら、どんな凄まじい諍いになることだろう?そう考えると、オレという緩衝地帯の存在は、ひとつの抗争殺人事件を抑止し得ているのかもしれない。
さて、残るはお向かいさんだ。このひとり住まいのおばあちゃんは、平和なひとだ。なにしろ、皇后陛下(昭和の)から直々に命を受けて、マッカーサー元帥からこの日本を守ってくれているというのだから。それを聞かされたときには仰天して、「こ、こ、皇后様にですか!?」と訊き返してしまった。すると、おばあちゃんは動ぜず、ニコニコと穏やかな口調で、ええ、通信機がありますの、と言う。部屋の中に通信機があるんすか?と訊く。するとおばあちゃんは、いえいえ、と言う。
「ここにありますの」
おばあちゃんは自分の頭をこつこつと指差しながら、ニコニコと笑みを絶やさない。指令の電波がお脳の方に直接に届くんですの、ということのようだ。新しく築いたベースキャンプは、なかなかにハードボイルドだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます