平成史ですけど/マンガ家から陶芸家

もりを

第1話・平成

 わが学生時代の最後にきて、昭和天皇陛下がお隠れになった。天皇の御霊が昇天することを「崩御」というが、日本人はなんとも美しい言葉を考えつくものだ。かくて、皇太子殿下が新天皇の座に即位され、時代も更新された。平成の世のスタートだ。この「平成」のつづりも美しい。「地が平らになったら、天は成るよ」という意味らしい。要するに、社会が平穏になったら、世界は完成するよ、とでも解されようか。そんな時代が本当にくればいいのだが。かえりみて昭和は、争いごとと急成長という激動の時代だった。そしてその繁栄は、今まさに「バブル」という絶頂を迎えた。しかしオレはと言えば、どんよりと停滞している。漠然とした不安の中に、ただ漂うばかりだ。のほほんと生きてきたツケが、ここにきてまわってきたようだ。もがき、あえぎ、懸命に泳ぎ・・・ならまだ救いはある。しかしオレには、たどり着くべき岸辺も見えていないので、足掻きようもないのだった。ただ、沈まないことだけを考えている。

 そんなさまよえる者がとりあえず流れ着いたのが、美術の授業を「時給ナンボ」で請け負う、高校の非常勤講師という職だ。大学の先輩に「やらないか?」と声を掛けられ、ふたつ返事で引き受けたのだ。空前の好景気のおかげで、就職口が有り余るほどあった。誰も彼もが気に入った企業に就職できるので、こんなのん気者でも口にありつくことができたのだ。先輩と待ち合わせて高校に案内され、理事長でもある校長先生に会いにいき、わずか5分の立ち話で、話はまとまった。面接とも面談ともつかない、「やあ、きみか、じゃ、よろしく」みたいなやつでだ。こうしてオレは、どうやら高校教師になったようだ。

 岐阜第一高校という名の着任校は、極めて残念なことに、男子校だ(当時)。そしてもうひとつ極めて残念なことに、偏差値という文化におけるヒエラルキーの最底辺に属している。学歴ピラミッドの最下段にうずもれた石、とでも言おうか。生徒が全員、アホな子なんである(当時)。そして、荒れている。スポーツの特待制度のおかげで、野球部は甲子園にも出場しているし、他の運動部も全国レベルで戦うほどに強い。が、生徒の大半は、いじめっ子といじめられっ子で構成されている。なかなか大変な環境ではある。

 先生とは言っても、オレの立場は非常勤講師だ。そのシステムはシンプルで、美術の授業ひとコマを時給2250円なりで受け持ち、授業開始の時間に学校にやってきて、授業終了と同時に帰る、というものだ。担任を持つことも、生徒の生活を指導することもない。部活の顧問もしなくていい。サイドの事務仕事や、文部省や教育委員会関係の雑多な書類をさばく必要もない。要するに、完全なアルバイト教師だ。美術は、この高校では一年生時に週一コマがあるきりで、それが12クラス分あるということは、ええと・・・月給はそんな感じになる。これで生活していけるのだろうか?

 4月。ついに初出勤・・・と言えるのかどうかはわからないが、初仕事だ。この日のために、アオキだか青山だかで、吊るしのスーツを買った。ネクタイを巻くのにさんざん苦労をし、履き心地の悪い革靴を履く。そして、新しく愛車となったヤマハのジョグ(原チャリ)にまたがり、出動だ。

 学校に着いて、事務嬢(校長の愛人という噂だ)に案内されたのは、教員たちがとぐろを巻いてたむろしているあの恐ろしい空気の職員室・・・ではなかった。そこから遠く隔たった場所にある、プレハブ小屋のような「非常勤講師待機室」だ。ここに押し込められているのももちろん教員なのだが、通常の職員室とはだいぶ色合いが違う。ここにいる20人ばかりの先生全員が、オレと同様のアルバイトなのだから。とは言え、どいつもこいつも、とてもアルバイトには見えない。なかなかの強者ぞろいで、警戒させられる。なにしろ、昨年まで教頭をしておりました、校長をしておりました、などというジジイがひしめいているのだ。この連中が実に、秋の陽だまりでしおれかかった野草のような味わいを醸している。厳しさを通り越した挙句に達観を手に入れ、隠居はしてみたものの、茶飲み仲間のひとりもほしくてパートタイムをはじめました、ってな具合いだろう。その光景は、まるで病院の待合室のようだ。交わされる会話といえば、戦時中にラバウルで戦った、とか、わしはなんとか島で高射砲を撃っておった、とか、近頃あの先生が肺炎で死んだ、とか、あの病院は設備がなかなかいい、とか、あのパチンコ店が新装開店だ、とか、マージャン屋にいくならあそこだ、とか・・・なかなかのシブさだ。この中でも、二十代のワカモノがわずかに四人いる。オレの他には、国士舘出身の右翼系空手家、はるばる滋賀から高級車を飛ばしてくる剣道家、オタク質なメガネ、とこちらも濃厚キャラぞろい。この魔窟でずっと過ごすのかと思うと、陰鬱な気分になってくる。なるほど、先輩がさっさと後釜を据えて逃げ出すわけだ。

 それでもとりあえず、一年間はがんばらねばならない。普通のバイトと違い、肌に合わないから三日でやめます、というわけにはいかないのだ。げんなりしつつも、やるしかない、と腹をくくった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る