レスカでトけるスポーツデートを

 体育祭ではない。

 だから困ってしまう。


 トケルとカタメは日曜日の過ごし方に困った時、ネットに関連ワードを入力して検索の一番トップに出てきたところへ行くという手法を時折とっている。今日がまさにそういう日で、『秋、スポーツ、近隣』で検索すると。


「陸上競技場、ラグビー場?」


 それは里山の低い方の峰のてっぺんに作られた市営の陸上競技場とそれと隣り合ったラグビー場のHPで、トケルとカタメはいつものようにベスパにタンデムしてやって来ると、ラグビー場では地元高校生たちの泥仕合が行われていた。

 いや、トケルがそう言ったのだ。


「泥んこだから泥仕合なんだね」

「トケルさん。本来の意味はもしかしたらそうかもしんないけど、この試合のことをそう言ったら怒られると思うよ」


 奇しくもラグビーのW杯が開催されている期間中にこのような遣り取りをすることは憚られるように思うのだけれども、トケルがそう感じることを止めることはできなかった。


 とりあえずラグビー場はこんなもんなんだろうと自分たちと同じ高校生たちの青春謳歌への付き合いはそこそこにして、少しだけ坂を登った陸上競技場に向かう。


「わあ。なんかいい感じ」


 陸上競技場は特にウォールもなくラバーチップが敷かれたトラックの展望が拓けており、山の斜面となっている対角の向こう側のストレートもコーナーからコーナーまで見渡せる状態だった。

 そのトラックのエリアの外を軽く走ってアップする男女が競技場のあちらこちらに分散されているが、全部で10人ほどがランニング用のウェアとシューズとを身につけていた。

 それ以外の競技場の中にいるのは記録員のジャケットを着た老人と呼べる男性たちだった。


 ただし競技者と思われる男女たちも年齢が不詳だった。


「トケルさん、あの男の人、これから走るみたいだよ」

「うん。白髪だね」


 ふたりがそうコメントした男子選手がスタートラインにひとりだけ着いた。

 トケルとカタメが疑問符を発しようとしていたところ、競技場のスピーカーからアナウンスが流れた。


「これから3,000mの決勝を行います。走者は1名。ゼッケン番号80番。秋空カケル君」


 コールされて袖のないランニングシャツとランニングパンツでフル装備した男性が軽く右手を挙げてお辞儀をし、軽く膝を何度か上下させた。


「トケルさん。1人で走るみたいだね」

「ふむう。つまりここでこの人は1人で走るけれども、決勝というからには他の会場でも走ってる人がいて、つまり色んな事情で遠征ができないひとたちのための大会なんだろうね、カタメくん」


 トケルとカタメはこれがいわゆる色々なスポーツで行われるマスターズの大会の陸上競技版なのだろうと考えた。そしてそれは概ね当たっていた。


「位置について」


 もくり、と白煙が上がった瞬間に男性はスタートを切り、パ! とスターターが撃ったピストルの音が届いた頃にはランナーはストライドを二歩半に伸ばしていた。


「わ。速い」

「うん。さすが決勝」


 トケルとカタメは競技に引き込まれていた。たったひとりで走る姿のどこが面白いのかとスタート前は少し思ってはいたのだが、ランナーが着実に距離を伸ばすのではなく削っていく左作業が面白かった。


 競技場の入り口に立って見ているのでランナーの進度に合わせて首をぐるりと回さないと追えなかったが、女性アナウンスがその情報を補足してくれた。


「まもなく800mです。はい、今通過しました」


「カタメくん、3,000mって走れる?」

「うーん。体育の授業でやる1,500m走の二倍だもんね。ゆっくりならいけると思うけど」

「わたしは走れるかどうかよりも走ってみたくなったな」

「あ、ほんと? でもトケルさんは水泳得意だし持久力もありそうだからいいかもね」

「カタメくん。でもこのランナーの走りって持久走っぽくないよ」


 実際に見た目だけでも100m走とは言わないが短距離を走るときのスピードに限りなく近い。高校生である自分たちの目をしてそう感じさせるのだから本当にそういう感覚なのだろうと思った。


 カンカンカン、とラスト1周を告げる鐘の音が鳴る。ランナーは自分なりのスパートをかけてゴールした。仕事か家のことかで多忙なのだろう。男性は着替えるとそのまま競技場を後にした。


「カタメくん、レモンスカッシュ飲みたくない?」

「え? レモンスカッシュ?」


 トケルが指差す先に自動販売機があり、ペットボトルのスポーツドリンクに混じって缶のレモンスカッシュが売られていた。全体が黒の缶に水色がかった炭酸の気泡と一個だけ黄色のレモンが描かれたそれはずっと昔からあったレトロなデザインの商品のようだが、今こうして見るととてもキュートな感じがする。


 トケルが言う。


「安いし」

「ほんとだ」


 他のものよりも10円から30円低い価格設定のボタンをカタメが押し、ガコ、と取り出し口の指先の感覚が鈍るぐらいに冷えた缶を取り出しながらトケルは言った。


「一個でいいよ」

「え」

「ふたりで、飲も?」


 ふたりは競技場のスタンドに上がった。周囲を覆うのではなく、トラックの一辺のストレートに沿って建つスタンドの階段のように作られたなんの装飾も仕切りもないコンクリートの座席の中央に、ちょこん、と座った。


 シパッ、とプルトップを起こして2人が並んで座る膝と膝との真ん中に缶を置くと、カコン、という音と同時に、たぷ、という液面の音がした。それから乾いたコンクリートに缶の底の水滴が円周のシミを作る様子が想像された。


「これより5,000mの決勝がスタートします。ランナーは3名。山上ノボル君。九坂アガル君。涼風ソヨグ君」


 男性2人に続き最後にコールされたソヨグ君は女性だった。見た目の判断で30歳を少し超えたくらいかな、とふたりは感じた。


 ごちゃ混ぜに区別なく走るこのレースに、トケルとカタメはなんだか不思議な希望を感じた。


「まぶしいね」

「使う?カタメくん」


 トケルがデイパックから取り出したのはバイク用のサングラス仕様になったゴーグル。秋の、けれどもまだツクツクボーシが鳴き続けられるほどの日差しを緩和するためにトケルとカタメはお揃いのゴーグルを装着して観戦する。


 レースは序盤、男子2人が大きなストライドで壮年が先頭を走り青年がそのスリップストリームを利用して引っ張ってもらうような展開に見えた。

 先頭の壮年男子が後続の青年を振り返りながらペースを確認し、青年のタイムを更新させようという思惑らしく、きっと同じランニング・サークルの同好なのだろうと思われた。


 女子は対照的に短いストライドで、ピッチ走法の典型例だった。彼女の属性はわからないが、顔も四肢も全身が濃い茶色に日焼けしているのが印象に残った。


 液晶でもLEDでもなく、デジタル数字のドットが物理的な表示板となっていて、10分の1秒の表示が動く度にツクツクツクという音が静寂の競技場に響き渡る感覚が、トケルもカタメも気に入った。


 先にトケルがレモンスカッシュを飲んだ。


「はい。カタメくん。もし、わたしの口をつけたのが汚くなければ」


 光線の具合によってサングラスの向こうに透けて見えるトケルの瞳は、微笑んでいた。


 カタメは幸福を感じ、トケルが飲んでいた部分の唇の形の上に、そっとズレずに重ねるようにして、レモンスカッシュを飲んだ。


 カカッ、カンカンカンカンカン!


 ラストを告げる鐘の音が、打撃手である老人競技員の興奮を明らかに示していた。


 女子が、小幅のストライドのまま、足がつりそうなほどにピッチを上げ、男子2人をあと10mで捉えるところまで迫っていたのだ。


 女子の肉薄により男子2人がオーバーペースでレースを進めたことは明らかだった。本来なら一位でゴールするはずだった青年が左足のふくらはぎをぴょこぴょこケンケンしながらコースアウトした。


 壮年の男子はほぼ毎秒後ろを振り返る。大きなストライドはもはやかなぐり捨てて、とにかくガムシャラなピッチ走法に自分も切り替えた。


 だが、ソヨグ君は冷淡だった。


 ハムストリングスとふくらはぎの筋肉を、ピッチの瞬間に極限に膨張させさらには極限に硬質化させてピッチの間隙を有り得ないほど短くした。

 それは褐色だからよりはっきりと筋肉の変化が観る者たちに読み取れた。

 そして

 駆け引きの余裕もない男子のインをこじ開けて抜き去った。


 歓声は上げないが、トケルがまず立ち上がった。


「海!」


 カタメもすぐに立ち上がるとそれまで視界になかった海が、この里山の山頂の、更に一段高いスタンドから、水平線がやや湾曲して飛び込んできて、たぶんゴーグルをしていなかったら視力を悪くするぐらいの煌めきだった。


 その煌めきの眼下のトラックで、ソヨグ君は右腕のその先の指を一本突き立てながら、ゴールした。


「涼風ソヨグさん、ご職業は?」


 トケルとカタメを含めてたった10人しかいない陸上競技場で、ミドルエイジのお茶目な女性アナウンスはワイヤレスマイクを使って勝利者インタビューを始めた。


「ライフセイバーです」

「ライフセイバー? 海のですか?」

「はい。この夏は向こうに見える海水浴場で5人の溺れる子供を救命しました」

「すごい!」


 そしてソヨグ君は、美しいアスリートの四肢と満面の笑みでもって言った。


「誇り、なんて言い方しません。救命は、わたしの自慢です!」

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