2章 4
心臓の鼓動が戻るまでに30分は要した。
安全な場所に身を隠して30分。見てしまったものを消すことは難しいが、可能な限り心を落ち着かせる。
「まったくこの世界は心臓に悪いね」
何度目かのため息。
「いつの間にか空も明るくなっているし、そろそろ一度帰ったほうがいいのかな」
建物の影から体を出して、背後から物音。いや、それは足音。
「なにも言わずにいなくなったって知ったら心配されるかもしれないから、帰るときもひっそりと帰ろうと思っていたんだよ、ボクは?」
それは言い訳だった。
振り返るとそこには水無月留美の姿があり、彼女の瞳には涙が溜まっていたので言い訳よりもまずに謝ったほうが良かったと後悔してももう遅い。
「朝いきなりいなくなって……どこに行っていたんですか」
明らかに怒っていた。目に涙をためて怒っていた。
「目が覚めてしまったから朝の散歩をね。書き置きでもしておけばよかったかな?」
「そういう問題じゃありません!」
声を荒らげられてしまい、さらにはそれがきっかけで彼女の瞳から溜まった涙が零れ落ちるのを見てしまい
「ごめん。こんなにも心配をかけるとは思わなかったから」
謝るしかなかった。
「ク、クラスメイトを心配するのは当然だと思います」
「でもこの世界の話じゃないよ」
「どこの世界でも変わりません」
涙を拭う水無月の言葉に、うんと頷いて
「ありがとう」
小さくつぶやいた。その言葉は彼女の耳には入らなかったが、それでも構わない。
「それじゃあ帰りましょう。いつどこから虫に襲われるかわかりません。もっとも日が昇っているうちはそれほど活発的じゃないんですが」
「えっ、そうなんだ」
「はい。少なくとも日中ならば動きも鈍いですし、襲われることも稀かと」
なにかを言おうとして、秋山は口にするのを避けた。自分がつい先程遭遇したことをなにも彼女と共有する必要はない。
「じゃあボクのこともそこまで心配しなくても」
もう一度、続きを口にしようとして止めた。一度拭ったはずの彼女の涙がまた目尻に溜まり始めていたからだ。これ以上言う必要もなく
「ごめんなさい」
今度は素直に謝る。
「じゃあ帰りますけど、いいですね」
「うん、そうだね。ここにいる理由もないし、帰ろうか」
彼女に素直に従ってホテルへと帰還する。
「あれ? 見張りの人がいない?」
ホテルに帰ってくると水無月が視線を巡らせて、そこにいるべき人がいないことに首を傾げる。
「見張りの人?」
「はい。いつもならそことそこに誰かかならずいるんですよ。虫の接近を知らせるために。あと人の出入りも管理しているんですけど、いないってのはおかしいんですよね」
首を傾げたままホテルの中へと向かう彼女の手を掴んで。一旦足を止めさせる。
「ボクが最初に入るね」
ニッコリと、反論を許さずに先に建物へと入っていく。
なにがあっても大丈夫なように用心しながらロビーへと入って行くと、とたんに大声が響きわたって耳を押さえた。
「それは本当なのか⁉」
あまりの大声に子供が数人泣きだしてしまう。それにも構わず話は続く。
「本当に全滅したのか……」
ロビーにはこのホテルをすみかにしていた全員が揃っていて、ロビーが狭く感じる。
「あれ、あの人誰……」
昨日からここでお世話になった秋山はわからなかったが、一人だけ水無月にも知らない男性がその中に混じっていた。その男性はリーダー格の男性と顔を合わして
「あぁ、全滅だ。俺を残して全員が殺された。いや、もしかしたら俺と同様になんとか生き延びた奴もいたかもしれないが、それを確認できないほどに街は……奴らに埋め尽くされていた」
ロビーが動揺と恐怖に騒がしくなる。
「そ、それは辛いことだけど、本当なのか?
本当に奴らの大群はこっちに向かってきているのか?」
震えた声で別の男性が問いかける。
「…………あぁ」
長い沈黙の後男性はそう答えた。
「奴らの気が変わっていなければこっちに向かってきているはずだ」
「なるほど」
誰もが慌てる顔を浮かべる中、リーダー格の男性だけは眉間にシワを寄せて考え込んでいて
「ここ数日奴らの動きが妙だとは思っていたが、援軍という意識は奴らにはないだろう。
同種が近づいていることを察していたからこその、妙な行動だったのかもしれないな」
ただ一人慌てていない、それだけでも他の全員の視線を集める。いままで全員を引っ張ってきた男性に期待が集まる中さらに深く考えこんで、リーダー格の男性が結論を出す。
「やつらがここに来るのはいつ頃なんだ?」
「えっ? あっ、明日、いや明後日ぐらいだと思う。
こっちに向かってきているといってもあっちこっちをウロウロしている状況だからそこまで早くはない」
「そうか。わかった。全員に告げる。明日の朝、ここを出る」
騒がしくなるロビー。
「出るって……このホテルをか?」
「いや、この付近からだ。可能な限りここを離れよう。
他の集団にも声をかけたほうがいいな。こちらも可能な限り声をかけよう。遠藤その任務を頼めるか?」
声をかけられた少年は一瞬驚きつつも
「は、はい!」
語尾を強めてそう答える。その少年を、離れてみていた秋山はどこかで見た記憶があったものの、思い出せないまま少年がホテルを出て走って行ってしまった。
「他のものは荷物を最小限にまとめていてくれ。
俺とほか数名でどちらへ逃げるか偵察してくる」
話は終わって騒がしさは止まらない。上階へと荷物をまとめていったもの、ロビーに残ってこの辺りの地図を広げるもの。
リーダー格の男性は装備を整えると数分後に二人連れて出て行ってしまった。
「いやはや、なんとも大変な事態で」
「そうですね」
「ボクもなにかした方がいいのかな」
「さぁ」
なぜだか、ここに来て水無月のリアクションは冷めていた。
「えっと……」
リアクションを期待していたわけではなかったが、掛ける言葉を失ってしまった秋山。
「もしかしてボク……なにか水無月さんを怒らせるようなこと、言ったっけ?」
「……」
ついにリアクションがなくなってしまった。まずは謝ろう。そう決まって彼女の方を向いて頭を下げようとして、彼女の横顔を見て動きを止めた。頬をつたる涙。
「泣いて、いるの?」
言われて初めて水無月自身もいま自分が泣いていることを知った。慌てて涙を拭う。「大丈夫ですなんでもありません。ちょっと……目にゴミが入っただけですから」
秋山に背中を向けて
「私たちも準備をしましょう」
振り返らないまま一人で上階へと上がっていってしまった。残された秋山は誰からも声をかけられることもなく、やがて彼も上階へと上がっていった。
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