あなたが愛してくれた十五年を


 沈黙が落ちる神殿の祈祷場。

 わたしは夕方の光を浴びながら、女神像を見上げていた。

 すると背後から、扉が開く音が聞こえてくる。

 静かにこちらへやってくるひと。


「──プレセア」


 かけられた懐かしい声に、わたしはゆっくりと振り返る。

 それは紛れもなく、この魔界の西の大陸を治める魔王さまだった。

 魔王さまはもう、何も見えていないはずなのに、まるで見えているかのように、わたしに視線を向けた。

 少しだって、その視線はずれていない。


「……魔王さま」


「……久しぶりだな」


 そうだね。

 もう一月以上は会っていないと思う。


「どうした。こんなところに呼び出して」


 魔王さまは小さく首を傾げた。

 わたしのすぐそばに立つと、わたしを見下ろす。

 ……ちょっとだけ、元気がないように見えた。

 困っているような、なにか、辛そうな。

 目が見えなくなったんだから、当たり前だろう。


「わたし、魔王さまに話があるの」


「……」


「魔王さま、これで最後にしようよ。はっきりさせよう」


 魔王さまは少しだけビクリとしたあと、ゆっくりとまばたきをした。


「……」


 何も言わずにいる彼に、わたしは静かに告げる。


「魔王さまたちの戦いに巻き込まれて、わたしは人間界であんな生活を送ることになったんだよね?」


「……その通りだ」


「魔王さま、わたしに、申し訳ないって思ってるの」


「……ああ」


 わたしは、ごくりとつばを飲んで、魔王さまを見上げた。


「じゃあ……わたしに、跪いてよ」


 そんな願い聞いてくれるかな……なんて思ったけれど、魔王さまはなんのためらいもなく、跪いてわたしに頭を垂れた。

 

 西の大陸を統べる王が。

 たった五才の、ちっぽけな幼子に頭を垂れる姿は、それはそれは奇妙に見えたことだろう。


「わたしね、十五年間、苦しかった。辛かったよ」


 ぽつぽつと、初めて、魔王さまに自分のことを話す。


「人間界で聖女だなんだって言われて、魔力封じのサークレット嵌められて、無理やり白魔力を使わされて。苦しくて、辛かった。寂しくて、悲しかった」


 でもわたし、それすらよくわかんなかった。

 魔王さまたちに出会うまで、自分の本当の心というものを。

 痛みにまみれすぎていたんだろう、きっと。

 魔王さまたちに出会ってから、やっと気づいたんだ。

 自分がどれほど愛に飢えていたのかということを。


「わたしね、なんで自分は生きてんだろって、よく思ってた」


 すごく虚しい人生だと思った。

 一生懸命祈っても、誰に愛されることもなく、ほしい言葉ももらうことができず。


 空っぽで、何もなくて。

 このまま死んじゃうんだって思ってた。

 そんな人生に、なんの意味があるんだろって思ってた。


「でも、今なら分かるよ」


 人は、苦労は買ってでもしろとか。

 どんなに辛い経験でも、それは無駄にならないって。

 そんなの絶対ウソだと思うよ。

 だってさ、最初から最後まで幸せな方が絶対いいもん。

 幸福なまま死ねるほうが絶対よくない?

 ストレスって、体に悪いんだよ。

 それはつらい思いをした人が自分を正当化するために言ってることな気がする。

 他の人はそうじゃなくても、わたしはそう思う。

 つらい思いなんかしないほうが絶対いいに決まってる。

 決まってるけど……。


 けどさ、わたし、あえて言うよ。


「わたしの十五年は、無駄じゃなかった」


 痛みと苦しみだらけの人生だった。

 嘘にまみれた、悲しい人生だった。

 

 けどね、魔王さまがわたしに愛を注いでくれた十五年は本当だったから。

 わたしは大切にする。

 小さくなっちゃったけど、絶対に忘れないよ。


「あなたが愛してくれた十五年を、わたしは決して、忘れない」


 いつもいつも、魔王さまはわたしを探してくれた。

 己の光を失くしても、わたしを求めてくれた。

 わたしのそばにいてくれた。

 わたしを助けてくれた。


 わたしはあなたのそばに居たいと思った。

 ずっとずっと、一緒にいたいって。

 そう思ったから。



「わたしはあなたに出会うために、生まれてきたの」



 魔王さまがはっと息を飲む音がする。

 わたしはそっと、魔王さまの瞳を隠すように、見事な銀糸の刺繍が入った黒い帯を巻いた。

 後頭部できゅ、と黒い帯を結ぶと、そのまま魔王さまに抱きついた。


 我慢していたものが溢れ出して、ひっく、と嗚咽が漏れた。


「ま、まおう、さま……あのね……」


「プレセア……」


 わたし、たった一度も、言ったことがなかったのだ。

 その言葉が欲しく欲しくてたまらなかったくせに。

 なんて愚かだったのかと、今なら分かる。


 むぎゅう、と魔王さまに強く抱きつく。

 泣くつもりなんてなかったのに、勝手に涙がポロポロ溢れてくる。


「わたしのこと、ずっとずっとさがしてくれて、ありがと……」


 鼻水とか、涙とかで顔がぐしゃぐしゃになった。


「魔王さま、ちっとも悪くなんかないよ……魔王さまに罪なんかない……」


 言うんだ。

 わたしが欲しかったもの。

 けれどもう、すでに手にしていたものを。

 今度はわたしが、魔王さまに返すんだ。



「ま、まおうさま……せ、世界中で、いちばんだいすき……」



 あなたに注がれた愛があるのなら、わたしはどんなに辛くても、あの十五年を手放したりしない。消して無駄だとは言わない。

 大切に大切に、自分を形作る過去として、全部持って、大人になる。

 

 魔王さまは何も言わずにわたしを掻き抱いた。

 苦しいくらいに抱きしめられて、でもわたしも、必死に魔王さまに抱きついた。

 こらえていた涙が、溢れてくる。

 十五年分の涙。

 何かが決壊したように、わたしはわんわんと泣いた。


「……ありがとう、プレセア」


 魔王さまの優しい声。


「ずっとずっと、お前に会いたかった。見たこともないお前に焦がれて、気が狂いそうだった。けれど俺がお前を助けられなかったから、お前は辛い思いを強いられることになった」


 違うよ。

 魔王さまは何一つ悪くない。


「だから俺は、お前のそばにいる権利なんかないと、思っていた」


「……まおうさまが、わたしのそばにいないほうが、ひどいよ。まおうさまのきもちは、そんなものなの?」


「……いいや、違うな」


 魔王さまが少し、笑う気配がした。


「もうお前を手放すことはない。これから先、永遠に」


 嬉しい。

 わたしも笑顔になった。

 魔王さまは、そっとわたしから手を離す。


 ──さあ、賭けだ。

 この一月で、わたしの魔力をほとんど投げ売った。

 この魔道具に、わたしのすべてをかけた。


「プレセア──……」


 魔王さまの驚いたような声。

 体が熱い。

 心臓がバクバクした。

 わたしの挑戦は、成功したのだろうか。


 魔王さまはわたしの頬に手をあてた。


「……こんなにクマを作って」


「……!」


「城に帰ったら、しばらく部屋でおとなしくしてもらおうか」


「魔王さまっ!」


 嬉しくて嬉しくて、魔王さまに飛びついてしまった。


「よかった! 見えるようになったんだね!」


「ああ、見えるよ。元の通りだ。かわいいお前が、全部見える……」


 魔王さまはわたしを抱き上げて、笑った。

 瞳に当てられた黒い帯に縫い付けられた銀糸が、魔力を帯びてきらりと光った。


 ──一ヶ月前。


 魔道具屋のじいちゃんは、わたしにこんな提案をした。


 式布と呼ばれる特殊な布に魔術式を縫い込むことで、魔王さまの視力を補う魔法が使えるようになる。

 ただしそれには莫大な魔力が必要となり、おまけにその式布を扱う者の魔力と注がれた魔力の相性が良くなければ、魔法は発動しない。


 今までだったら、魔王と相性のいい魔力を持つ者なんていなかったから、式布を使ったこの方法は無理だっただろう。

 しかし魔王様と同じ、女神の血を継いだわたしの魔力だったら、可能性があるのではないか。

 じいちゃんはそう言って、わたしに魔力を貸すように、提案したのである。


 乗らないわけがなかった。

 布に全部魔力を搾り取られて死にそうになったけど、わたしは一ヶ月間、ひたすら魔力を注ぎ続けた。

 そのせいで今、わたしはなんの魔法も使うことができない。

 もちろん空も飛べなくなった。


 でもいい。

 そんなことは。

 魔王さまの目が見えるようになったのだから。

 わたしは賭けに勝ったのだ。


「すごいな、この布は」


「わたしの魔力、ぜーんぶぶち込んだんだから!」


 魔王さまに抱きついて、笑う。

 魔王さまは私を床におろすと、ほっぺたを包み込んでいった。


「本当にありがとう、プレセア。俺はお前に、いろんなものを貰いすぎたな」


「何を言ってるの。たくさんもらったのはわたしの方」


 そう告げると、魔王さまはおもむろにわたしの前に跪いて、言った。

 

「神の名のもとに、俺のすべてをかけて、お前を愛すると誓う」


「……!」


「どうかずっと、俺のそばにいてくれ、プレセア」


 魔王さまはそっと、わたしの額に口付けた。

 その瞬間、ステンドグラスがふわりと光を帯びた。

 眩しくて目を細める。


「!」

 

 真っ白になった視界の中。

 ほんの一瞬だけ、美しい女性が微笑んでいる姿が、脳裏に浮かんだ。




 ──どうか、幸せに。




 ああ、そうか。

 あれがわたしのお母さん。

 女神さまなんだ。


 光はすぐに収まった。

 魔王さまもわたしも、女神像を見上げて、その場に立っていた。

 心地よい沈黙がしばらく続いたあと、わたしは魔王さまに声をかけた。 


「……魔王さま」


「ん」


 魔王さまは何も言わずとも、わたしを抱っこしてくれた。


「帰ろう?」


「ああ、そうだな」


 みんなが待つお城へ。


 魔王さまは歩みを進める。


 祝福された光の中を。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る