春嶋ひまりの決断
「プレセアさま……」
ティアラは主のいない部屋を見渡して、ため息を吐いた。
いつ帰ってきてもいいように、ベッドのシーツは常に整え、プレセアの好きそうなお菓子をたくさん用意している。
「もう一月も、城に帰ってこられませんね……」
ティアラのそばに立っていた魔王が、いつもプレセアが座っていた椅子を撫でた。
「……居場所は分かる。見張りもついているから、大丈夫だ」
「陛下……」
ティアラは眉を寄せた。
「いいのですか」
「……何が」
「プレセアさまを手放して」
魔王に真実を聞いた日。
プレセアはショックを受けて、再び数日寝込んでしまった。
それから、もうここにはいられないと、城を飛び出してしまったのだ。
ティアラたちに感謝の言葉を述べて、今度は自分の居場所も告げて出ていった。
心を落ち着けるためにも、神殿でしばらく暮らすという。
ティアラには、プレセアの複雑な心境が理解できたからこそ、止めることができなかった。けれどやはり、プレセアのことが気になって仕方ない。
「俺はプレセアを縛る気はない」
魔王は首を横にふった。
「ここにいるのが嫌だというのなら、好きにさせておく」
「でも……」
「それに解呪のためには、しばらく心を落ち着ける必要もある。ここで無理というのなら、仕方がないだろう」
魔王は目が見えないはずなのに、それを全く感じさせずに踵を返し、部屋を出た。
「俺は少し、でかけてくる」
「陛下?」
ティアラが首をかしげると同時に、魔王は転移魔法でその身を消してしまった。
◆
人間界、オラシオン国。
王宮の一室で、春嶋ひまりは窓枠に腕をついて、ぼんやりと空を見上げていた。
体の傷が癒えきっていないためか、いつものように豪奢なドレスは着ていない。
そのかわり、眠りを妨げることのないように、柔らかな白い寝巻きに身を包んでいた。その姿はまるで、病人のようだった。
ひまりはふと、背後に気配を感じて振り返る。
「……誰?」
そこに現れたのは、黒い軍装を纏った、美しい青年だった。
黒く艷やかな髪に、黒曜石のような瞳。
人形のように整った顔立ちは、ひまりになにか、違和感のようなものを感じさせた。
それがプレセアに感じたものと同じだということに気づく。
そうであればこの男は……人間ではないのだろう。
「あなたは」
そしてそれが、あの惨劇の場にいた男だと思い出した。
「……魔界より来た。名をオズワルドという。今代の西の大陸の魔王を務める者だ」
「魔王……」
やはり、人間ではなかったか。
ひまりは目を伏せた。
「驚かないんだな」
「……もう、大抵のことじゃ驚かなくなっちゃった」
ひまりは自嘲気味に笑う。
「……私を殺しに来たの?」
魔族は、魔王はこの人間界を乗っ取ろうとする、悪い人たちなんだ。
ひまりずっと、そう教えられてきた。
そしてひまりもまた、それを信じた。
「……違う」
けれど今、ひまりの目の前に立つ魔王は、それを否定した。
むしろ魔王は、今までに見たどんな人よりも、落ち着いて、人の話を聞いてくれそうな気がした。
「ここには、謝罪しにきた」
「謝罪?」
ひまりは首をかしげた。
一体何を謝るというのか。
「……俺がプレセアの運命を変えた。因果律の変更に、お前も巻き込まれてしまった」
「私が、巻き込まれた……?」
魔王は語った。
ひまりがこの世界へやってきてしまったのは、おそらくプレセアの運命を変えてしまったせいだと。
ひまりはそれに巻き込まれて、この世界へやってきてしまったのだ。
「それは、本当なの……?」
「……分からない。俺の憶測だ。だが俺が女神と交渉した直後に、お前はこの世界へやってきた。関連しているとみて間違いないだろう」
「……私」
ひまりは黙った。
だからといって、別に何を感じることもなかった。
ただ、ああそうだったのね、と思っただけ。
「お前は一番、此度の件に関係がなかった。俺たちの争いに巻き込まれた一人だ」
「……」
「申し訳なかった。謝ってゆるされることではないが」
魔王は、頭を下げた。
その姿に初めて、ひまりは心を動かされた。
ベッドから降りると、そのそばで近寄る。
そしてぽん、と肩に手をのせた。
「……いいよ、別に。そんな不確定な話のために、こんな小娘に頭なんて下げるの、よしなよ」
「……」
魔王は顔を上げると、眉を寄せた。
「お前、年はいくつだ?」
魔王はすでに目が見えない。
だからひまりのことを、雰囲気でしか感じとることができなかった。
「十五、だけど……」
もうすぐで十六かな、とひまりがつぶやくと、魔王は悲しそうな表情をした。
そして思わずと言ったように、声をかける。
「怖かっただろう」
「……っ」
その瞬間、ひまりは衝撃で身がすくんだ。
「……あ」
魔王の瞳には、純粋にひまりを心配するような色が浮かんでいた。
それは初めて、この世界でちゃんとした大人にかけられた言葉だと思った。
──怖かっただろう。
そうだ。そうだった。
この世界の人たちは、みんなひまりのことを特別だと思っていた。
異世界から来た聖女。
神聖で、尊いもの。
だからこそ、ひまりの身にかけられる言葉は、どこかひまりを大人として見ているようなものが多かった。
実際、この国の成人は十五歳で、そこからは大人として認められている。
だからこそ、ひまりは日本にいたときと違って、本当の意味で誰かに甘えたりすることができなかった。常に緊張しているような状態だった。
けれど魔王が初めて、客観的な視線から、大人として、子どもの庇護者として、その言葉をかけてくれたのだ。
それは、お父さんとお母さんみたいな。
大好きな学校の先生みたいな。
子どもを本当に心配する、大人の言葉だった。
中学生のひまりが、一番求めていたもの。
欲しくて欲しくて、仕方なかったもの。
「なんで、あなたなんかが……」
ひまりの顔はくしゃりと歪んだ。
「う……うぅ……」
その場に泣き崩れる。
涙が床にこぼれ落ちた。
プレセアが、羨ましい。
こんな素敵な人のそばにいられる、プレセアが。
これは、きっと罰なのだろうとひまりは思った。
自分の身を守るために、ひどい嘘をついて、プレセアを傷つけた。
たとえどんな理由があろうとも、他者を傷つけていい理由など、どこにもない。
ひまりはプレセアへの嫉妬だけで、あんなに非道なことをしてしまったのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
あの子に謝りたい。
初めてひまりはそう思った。
ようやく自分のしでかしてしまったことの大きさを思い知った。
「私、羨ましかったの」
ひまりは泣きながら本音をこぼした。
「あの子、全部持ってた。聖女の地位も、婚約者も、サークレットも、何不自由ない生活も! 私には、それがないと生きていけないかもしれないのに……あの子、そんなのいらないって、言った」
「……」
「だから憎くて憎くて仕方なかった!」
だからといって、プレセアを陥れたことが罪にならないというわけじゃない。
ひまりは思っていたことを全部吐き出した。
ひまりが一番心を許せた人。
それが、魔王だったのだ。
「……プレセアは、何も欲してはいない」
魔王はひまりに告げた。
プレセアの真実を。
どれほど彼女が王宮でひどい目にあっていたのかを。
ひまりは目を見開いた。
「そんな、うそ……」
「嘘じゃない」
と言っても、もう何が本当で嘘なのか、混乱しているだろうな、と魔王は苦笑した。
「人間界で魔族についてお前が教わったことも、大半は間違っている。だが、難しいな。何が真実で、嘘なのかを見分けることは」
「私は、いったい……」
「……だから自分の目で見て、決めるといい。疑うことは悪じゃない。自分で確かめた真実を、信じろ。必要ならば、俺が助けてやろう」
それが俺にできる、お前への償いだと、魔王は言った。
ひまりの涙はすうっと引っ込んだ。
ひとりじゃない。
そう思えたからだ。
しばらくしてから。
「……私が、選ぶんだ」
ひまりはつぶやいた。
「世の中にはいっぱいいろんな情報があって、悪意で溢れていて。だからこそ、自分の目で見て、手で触って、確かめなきゃいけなかったんだ」
立ち上がって、涙を拭く。
「私がどうやって生きていくか、何を信じるのか……全部ちゃんと見て、聞いて、触って、私が選ぶんだ」
ひまりはもともと気が強い。
ずっとへこたれている質でもなかった。
「あなた、やっぱり謝らなくていいよ」
「……なぜ」
「私、あのとき、自分で生きたいって願ったの。そうしたら、この世界へ来たの」
ひまりは涙を拭って、窓辺へ足を運んだ。
「籠の中の鳥なんていうけれど、鳥だって本当に自由に焦がれるなら、鍵を開けて出ていっちゃうわ。あの子みたいに」
そうでしょ?
とひまりは魔王を振り返った。
「許してくれ、なんて言っても、許されないのは分かってる。だから今は、あの子には会わない。それにあなたがあわせてくれないんでしょう?」
「……」
魔王は黙ることでそれを肯定した。
ひまりは俯いて少し笑うと、窓の外を見る。
「それだったら、私ももう少しマシな大人になってからでいいや。今は考えることがいっぱいあるから」
「……手伝えることがあるなら、手伝おう」
それが魔王にできる、精一杯の譲歩だった。
「ありがとう」
ひまりは素直に頷いた。
「でも、できるだけ、この国の人たちと一緒に頑張るよ」
「……あの男の容態はどうだ」
「……プレセア、相当嫌いだったんでしょうね。中途半端に治しちゃって。そのせいで痛みが長引いて、大変だったわ」
エルダーは、プレセアによって傷つけられた傷がなかなか治らないでいた。
あの杖は、特殊な力を秘めていたらしい。
「あの人はひどいことをたくさんしたけれど、でも。この国を大切にしているのは本当なの」
「……それはこれからの治世で証明するといい」
魔王は心なしか、不機嫌そうになった。
誰に何を言われようと、魔王はエルダーのことが心底嫌いだった。
ひまりもそれを分かっているのか、何も言わなかった。
「……私はあの子みたいに飛べないけど、その代りこの足で立って歩いていく」
異世界の少女、ひまりは言った。
「それが私の選んだ道だから」
空は青い。
空を駆け抜けるように、一羽の鳥が、ぴゅうと飛んでいった。
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