春嶋ひまり③
それからしばらくしたある日。
ひまりは果物ナイフで、自分の腕を切った。
祈祷場にカラリとナイフを落とす。
それからありったけの声で、叫んだ。
慌てて飛んできた側仕えたちに、血を流した腕を見せる。
「ヒマリさま!?」
「プレセアさんが……わたしなんか聖女にふさわしくないって」
涙を滲ませれば、それだけでみんなはひまりのことを信じてくれた。
それは聖女になりたいと努力してきたひまりのおかげもあったし、プレセアに人望がなかったせいもあるのだろう。
「どうか泣かないでくれ」
飛んできたエルダーは、ひまりにそう言って、慰めてくれた。
「もう終わりにしよう」
そう言って、あの断罪の場を設けてくれたのだ。
婚約破棄と聖女の地位を奪う宣言をするあのパーティの日。
エルダーの宣言を聞いたプレセアは、いつもよりほんのわずかに感情を見せていた。感情を見せる、というよりは、感情を抑える、といった方が正しいだろうか。
体などは震えて、やはりショックを受けたようだった。
ひまりはそれを見て、いい気味だと思った。
あの大嫌いな瞳が、今は不安に揺れているような気がする。
サークレットがその額から失われる瞬間がなど、一番動揺していた。
それを見ているだけで、心に降り積もっていた不安が吹き飛んで、一気に安心感が満ち溢れた。
サークレットはひまりの額に収まると、ふんわりと優しい光を帯びた。
そのとき、ひまりは嬉しくて嬉しくて、涙が溢れ出したのだった。
これでやっと、聖女になれる。
みんながひまりを祝福している。
そう思った。
けれど、現実はそううまくはいかなかった。
ひまりはもともと、別にプレセアを殺そうとか、ひどめにあわせようと思っていたわけではない。
ただプレセアを聖女の地位から退けたかっただけなのだ。
ひまりの温情ということで、神殿から追い出して終わりにするだけのつもりだった。
けれどエルダーは、プレセアを処刑してしまったのだ。
ショックだった。
人を殺してしまったと思ったから。
日本の中学三年のひまりにとって、その事実は重くのしかかってきてしまった。
人殺し。
たとえそんな意志はなかったとしても、その事実に変わりはない。
ひまりは病んだ。
プレセアを嘘ではめて処刑させてしまったことに。
エルダーもやりすぎだとは思ったが、結局そのきっかけを作ったのは自分だったのだから。
しばらくの間、ひまりは寝込んでしまった。ストレスでものもうまく食べられず、それでも結界は張り続けなければいけないくて、ずいぶんとやせ細ってしまった。部屋で眠ったり、堅苦しい王宮から抜け出して街へ遊びに行ったりして、なんとかごまかしていたが、それでも心に降り積もるストレスは、はねのけようがなかった。
そしてそれに積み重なるようにしてやってきたのが、ひまりにとって初めての
ひまりはそのときになってようやく、プレセアがどれほどの苦労を強いられていたのかが分かった。
ひまりでも、瘴気を抑えきることが難しく、三日三晩寝ないで祈祷し続けても、なかなかスタンピードを終わらせることができなかった。
もともとプレセアが基礎の結界を張った上で、ひまりは足りない部分を補修していたようなものだったのだ。基礎からすべて自分一人で、となると、できなくはないが、いつまでも自分一人でやり遂げることは難しいだろうと感じた。
だからその話を聞いたとき、ひまりは本当にホッとした。
プレセアが生きているかもしれない。
うまくやれば、戻ってこさせることができるかもしれないと。
ひまりはプレセアに、ひどい罪悪感を抱いていた。
だからこそ、今生きているのならどこにいるのか不安だったし、早く王宮で保護したほうがいいと思ったのだ。
よかった。
わたしは、人を殺してなんて、いなかったんだ。
安堵して体から力が抜けたのもつかの間、しかしエルダーはとんでもない提案をひまりにした。
プレセアを第二妃にして、王宮と神殿に縛るというもの。
ひまりはもちろん正妃だが、それでは大好きなエルダーに、もうひとり妻がいることになってしまう。
生粋の日本人であるひまりには、そんなことは考えられなかった。
しかもエルダーは、プレセアに子どもまで産ませると言っているのだ。
そんなの、嫌!
プレセアが生きていると知ってホッとしたのもつかの間、ひまりの心にはまた醜い感情が生まれ始めていた。
けれどプレセアと再び二人で一緒に祈れば、今までよりもずっと楽になるのは事実で。しかも聖女と正妃の座はひまりにあり、プレセアは影のような存在になるのだという。
エルダーの愛がひまりにあるのも、分かりきっていることだった。
ひまりはプレセアに罪悪感を抱いていた。
だからこれからは、王宮でプレセアを保護しつつ、自分の手伝いをしてもらおうと、思ったのだ。
それがプレセアを連れ戻すことと、エルダーの妻が二人になる、という事実を天平にかけた結果だった。
そうして、プレセアをうまく連れ戻したけれど……。
その結果、最悪なことが起こってしまった。
きっかけは、ひまりだ。
半分好意で、半分意地悪で、プレセアに告げたのだ。
人質にされているはずの孤児院の院長は、とっくの昔に死んでいたのだと。
そう告げた瞬間、プレセアは、今までにないほどの感情の変化を見せた。
ひまりには、何が起こっているのかよく分からなかった。
プレセアは、ひまりと牢獄で会話をしたあと、自らの力で拘束具を壊した。
壊れたような、何かが軋んだような叫び声を上げながら、何もかもを破壊し尽くしていった。
それは、小さな嵐のようだった。
牢屋はこわれ、建物は強い風と、なんらかの魔法によって、ぐちゃぐちゃに壊されていく。
プレセアが歩くたび、周りのものはすべて破壊され尽くしていった。
ひまり自身も、プレセアの魔法の暴走によって、大怪我をおった。
プレセアはひまりを引きずって、他のあらゆるものたちを傷つけながら、この祈祷場までやってきた。
ひまりはあのとき思った違和感は、別の物だったのだと理解した。
プレセアは人間じゃない。
かといって、魔族でもない。
もっと何か……別の次元に生きる、生命体なのではないか、と。
──ああ、わたし、死ぬんだな……。
血が止まらない。
聖女の力も、もう使うことができない。
それほど死に差し迫った状態なのだろう。
周りにはけが人とも、死人とも言えないほどの人たちが転がっていた。
神殿の祈祷場。
地獄というのは、こういうことを言うのだろう。
なんだか眠たい。
ひまりはゆっくりと目を閉じた。
ふと、ひまりはひどいデジャヴュを感じた。
そしてようやく気づく。
──そうだ。私、あのとき、事故にあったんだ。
この世界に来る前のこと。
ひまりは学校の帰り、飛び出してきたとトラックに跳ねられたのだ。
救急車の中で救命救急士がなにかを叫んでいたこと。
病院で両親が泣きながらひまりを名を呼んでいたことを思い出した。
──あのとき、もっと生きたいって、強く願った。
そうしたら、この世界にやってきたのだ。
ひまりはそうか、と思った。
ひまりの命はすでになくなっていて。
きっと神様が、願いを叶えてくれたのだ。
この世界での生は、ボーナスタイムのようなものだったのかもしれない。
けれど、それでももっと生きたいと思うのは贅沢なのだろうか。
だんだんと意識が遠くなっていく。
今度こそ本当に終わり……そう思ったとき。
祈祷場の扉が開いて、何者かがコツコツと靴音を鳴らしてこちらにやってくる音が聞こえてきた。
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