春嶋ひまり②
けれど結局、プレセアと祈祷場で鉢あってしまってから、ひまりは集中して祈りを捧げることができなかった。
神殿の庭に出て、ひまりはエルダーに彼女のことを聞いてみた。
祈祷場にいたあの子は、いったい何者なのか、と。
エルダーは迷いながらも、静かに打ち明けた。
「……彼女は今代の聖女で、わたしの婚約者だ」
「えっ」
ひまりの心は凍りついてしまった。
今代の聖女。
エルダーの、婚約者。
それはてっきり、今までひまりが手にしていたと思っていたものだった。
頭が真っ白になってしまう。
──それなら私という存在は、一体なんのためにあるの? どうしてここにいる必要があるの?
ひまりがここに残ってもいいと思った理由。
それはエルダーであり、自身の身に突然舞い降りてきた聖女という地位だった。
けれどひまりは、この一瞬でそれらすべてを失ってしまったような気がした。
「ヒマリ。どうか心を落ち着けて聞いてほしい。プレセアではダメなんだ」
ショックを受けたひまりを宥めるように、エルダーはひまりの肩に手をおいた。
「彼女では、聖女の任を負いきれない」
エルダーはプレセアがどういう存在であるのかを、ひまりに説明した。
歴代の聖女は、ほとんどが貴族の娘の中から選ばれていたこと。
この国において魔力持ちというのは忌み嫌われる存在であるのに、プレセアは聖力と同時に、強大な魔力を持ち合わせていること。
そして彼女自身、聖女として国を背負う気力がなく、いつもエルダーを困らせていることなど。
「だから私は、ヒマリこそが本当の聖女だと考えている」
「でも……」
「これは、神の起こした手違いだったのだ」
エルダーはひまりにそう告げた。
「プレセアは聖女足り得る能力も、慈愛も、学も、何もかもが足りていない。彼女が聖女として君臨し続ければ、やがてこの国は滅びるような気がしてならないのだ」
「……殿下」
ひまりはそれを聞いて、少しだけ心が落ち着いた。
それは仄暗い優越感というか、安心感のようなものだった。
ひまりより先にお告げが下り、聖女となった少女。
けれど少女には、エルダーからの寵愛も、聖女としての力も、聖女足りうる器の大きさも、ない。
あるのはただひまりより先に聖女となった、という事実のみ。
「ヒマリ、どうか私のことを、信じてほしい」
ひまりがぼうっとしていると、エルダーはいきなり、その場に膝をついた。
「殿下?」
ひまりの手をとって、静かに告げる。
「わたしは、貴女のことを愛している」
「!」
「初めて見たときから、これは運命なのだと、そう思った」
なんてことだろう。
美しい緑色の瞳が、ひまりを捉えてはなさない。
「どうか、私の妃になってはくれないだろうか」
その真摯な言葉は、ひまりの心を打った。
たった一人、日本からこの世界へ呼ばれてしまったひまり。
けれどエルダーが支えてくれた。
この世界の人達が、ひまりを支えてくれた。
だったらひまりは、その人達の恩に報いたいと思う。
「私も、エルダー殿下のことが、大好き。今まで出会ったどんな人たちよりも」
「ヒマリ……」
「あなたに婚約者がいても。わたしが聖女じゃなくても。その気持は変わりません」
ひまりの頬を、つう、と涙がこぼれ落ちた。
もしかしたら、ひまりとエルダーは結ばれないかもしれない。
聖女になれなくて、いつの日か王宮から追い出されてしまうかも。
そうしたら、ひまりの居場所はなくなってしまう。
日本に帰れないのなら、ひまりの居場所はここしかないのだ。
エルダーを好きという気持ちは、本当だった。
けれどエルダーの告白を受け入れるのには、一つの打算もあった。
わたしはここでしか、生きていくことができない。
この世界の中でたった一人の日本人には。
中学三年生のひまりには。
十五歳のひまりには。
それを受け入れることしか、できないのだ。
その他の道を探ったとして、うまくいく気がしなかったのだから。
ひまりはエルダーの口づけを受け入れた。
それは本当の愛でもあったし、打算の結果でもあった。
◆
エルダーの告白を受け入れてから、ひまりは聖女としての活動に、積極的になった。
プレセアよりも優秀だとみんなに思われたい。
その一心で、社交にも精を出したし、勉強も頑張った。
神に祈りを捧げ、毎日綺麗にして、エルダーにも会った。
自分なりに考えて、民衆の支持もほしいと思ったから、よく下町にも遊びにいくようになった。
中学の頃よりもだいぶスケジュールがつめつめになってしまい、一度風邪をひいて寝込むようになってしまってからは、自分の体調にも気をつけるようになった。
体は資本なのだと、このときになってようやっとひまりは身にしみて分かった。
そんなある日。
ひまりは再び、プレセアと出会った。
それは祈りを終えて、神殿の庭に出たときのことだった。
疲れたので一人にしてほしいと衛兵に告げ、外に出ると、プレセアがぼんやりと庭に立って、空を見上げていた。
「……こんにちは」
ひまりがプレセアに声をかけたのは、単純な興味だけでなく、なにか、その姿に突き動かされるものがあったからだ。
気づいたらプレセアのそばにいて、声をかけていた。
プレセアはゆっくりとひまりの方を見た。
「……こんにちは」
それだけ言うと、また空に視線を戻す。
「何を見ているの?」
ひまりがそう問うと、相変わらず感情のない声で、プレセアは答えた。
「……鳥。空、飛んでる」
「……」
「わたしもあんなふうになりたい」
ひまりの心に、その言葉は触れた。
「……ここから出ていきたいってこと?」
言葉にトゲが混じってしまったのは、やはりヒマリがプレセアに嫉妬していたからなのだろう。
プレセアは視線を下げて、ぽつりと呟いた。
「……わたしは、聖女になんか、なりたくないもの」
「っ」
なんてことを言うのだろう。
ひまりは唇を噛んだ。
みんなが願ってやまなかったこと。
それはこの国の平和。
聖女はその願いを叶えるべく、国のために、人々のために身を捧げる尊い存在だ。
それを否定するなど……そんな気持ちで聖女を務めるなど、到底ひまりには考えられることではなかった。
「……なんで、そんな無責任なことを言うの?」
ひまりは気づいたら、そう言っていた。
ひまりが求めて仕方がなかったものを、この子は全て持っている。
美しさも、聖女という地位も。
エルダーの婚約者というステータスも。
聖女のサークレットでさえ。
ひまりにはそれらがないと、生きていけないかもしれないのに。
それを自分より早く聖女のお告げが下ったというせいで、プレセアはすべて手にしているのだ。
それなのに、そんなことを言うなんて、奢りもいいところだ。
なぜ、どうして。
そんな無責任なことが言えるのか。
「……身体中が痛いの。もう、壊れそうなの、分かってる」
痛い?
痛いって、何?
ひまりがふと、そう疑問に思ったところで、プレセアがひまりの目を見て言った。
「あなたも、帰ったほうがいい」
ずきり、とひまりの胸がきしんだ。
本当に、ムカつく女だと、思った。
「……帰り方がわからないの」
初めて、その瞳に感情がうつった。
それは哀れみだった。
ある種の、同情を含んだような。
──やめて。
そんな目で見ないでよ。
あなたに何がわかるっていうの?
私が欲しいもの全部持っているあなたに。
何もわかってないくせに、そんな目で見ないで!
その後、ひまりはプレセアと何を会話したのか、あまり覚えていない。
けれどエルダーが迎えに来てくれて、プレセアを叱りつけてくれたことだけはよく覚えている。
やっぱりプレセアの性格はよくなかった。
エルダーの言ったとおりだと、ひまりは思った。
──あんな子、聖女になんか、ふさわしくない。
エルダーや周りが言うように、プレセアは聖女の器ではない。
彼女の祈りでは、
──それなら、わたしが聖女になってやる。
ひまりはこのときに、そう決めたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます