『僕が生きていなかった時』

 僕が生きていなかった時……

 僕に「イキル」という名前が無かった時……


 僕には愛された記憶がない。

 生まれてからずっとお母さんと2人だけの生活だった。だけど、お母さんは殆ど一日中帰ってこない事が多かった。帰ってくれば大抵殴られた。蹴られた。お母さんは僕が嫌いだった。僕の顔が目が性格が声が、全て気に入らないらしい。痛かった苦しかった。でも少しでも抵抗すればまた殴られる、また怒られる。だから僕はひたすら耐えた。髪が引きちぎれる程に強く髪を掴みあげられる。


「お前は本当に気持ち悪いね! いるだけで不快なのよ!」


 ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……


 何度も何度も呟くうちにいつの間にか謝るのが口癖になった。僕はお母さんにとって生活保護というのを受ける為の道具。だから死ぬ事も許されないのだ。


 ……どうして?


 幼かった僕にはお母さんしかいなかった。お母さんが僕の全てだった。お母さんが怒るのは、全部僕が悪いから。僕のせいなんだ。

いつだったか、お母さんから貰ったテディベアを強く抱きしめる。このテディベアを貰った時はまだお母さんは優しかったはずなんだ。手作りのオムライスも食べさせて貰って……きっと僕に笑いかけてくれていたはず。なのに、その顔が今は思い出せないんだ。その記憶はまるで夢だったかのように曖昧で……

 夢なんかじゃない、認たくなくて僕はテディベアに顔をすり寄せた。



「う……」


 酷い頭痛に目を覚ます。いつの間にか眠っていたようだ。窓から白い光が差し込んでいる。お母さんはいない。出かけたのだろうか。


「あれ……とびら……あいてる」


 いつもなら鍵をかけてるはずなのに、忘れていったのだろうか。内側から鍵をかけようとしてふといつもなら浮かばない考えがよぎる。外に出たい。長く閉じこもっていたせいで外がどんな所なのか忘れてしまっている。お母さんに出るなときつく言われていたけれど、この時の僕は好奇心から我慢する事は出来なかった。僕はテディベアを抱いて外へと飛び出した。陽の光が暖かくて気持ちがいい。外の空気を吸うのはいつぶりだろうか。まだ頭はズキズキしていたけれど、気にならなかった。開放的な気分だった。しばらく歩くと公園があった。公園には楽しそうに遊ぶ子達がいた。僕も……混ざりたいな。そんな事を思いながら見ていると突然後ろからドンと誰かに突き飛ばされる。僕はよろめきそのまま地面に手をつく。


「なんだお前! 汚ねぇかっこ! きもちわりー!」

「男の癖にぬいぐるみなんか持ってんぞ!」

「あっ……!」


 持っていたテディベアを力づくで奪われる。


「か……かえして……!」


 必死に手を伸ばそうとするが身体が小さな僕じゃ届かない。それどころか突き飛ばされたり蹴られたりしてまともに立ち上がる事すら出来ない。やめて、痛い痛いよ。どうしてこんな……僕何も悪いことしてないのに。男の子達のうちの1人がテディベアの両腕をぐっと引っ張る。テディベアからぶちぶちと嫌な音がする。


「ゃ……や、め……っ」


 僕の目の前でテディベアの身体が綿を散らして宙を舞う。両腕をもがれたテディベアは無残にも地に落ち、その目は僕を悲しそうにじっと見つめる。


「う、ぁ……っあぁ……! あああぁ……」


 お母さんに貰った大切なテディベア

 寂しい時辛い時いつも側にいてくれたテディベア

 僕の唯一のお友達……


「……ぃ」


 僕の中で何かがぷつりと切れる。


『許さない』


 その時僕は感情のままにその言葉を発してしまった事を酷く後悔した。僕の目の前で蹲る男の子と戸惑いと恐怖に顔を引き攣らせその場に立ち尽くす周りの子達。「お前も痛い目に合え」、僕は彼にそう言い放ってしまった。そして彼は僕の目の前で遊具から飛び降りた。彼の両腕は有り得ない方向に曲がり、骨が皮膚を突き破っていた。気付けば僕は逃げていた。腕のないテディベアを抱えて、必死に走った。骨の折れた鈍い音が怖かった。男の子の耳を劈くような叫び声が怖かった。最後に向けられた自分への視線が怖かった。何より一瞬でも快感を感じてしまった自分が……怖かった。傷付けられる事がどれだけ痛いか苦しいか、知っていたはずなのに。どうしてこんな事になっているんだろう。僕が一体何をしたっていうの。


 家に帰るとお母さんはいつも以上に冷たくて恐い顔をしていた。ごめんなさいお母さん……悪い子で、ごめんなさい。


 数日後。

 ……話し声が聴こえる。お母さんと、男の人の声。身体中の痛みに耐えながら重い身体を少しだけ持ち上げて声のする玄関の方を見る。


「……だから、来月には纏まった金が入るから! それまでは……」

「前もそう言ってたよなぁ? そろそろ返してくれないと困るんだよ。 出来ないならこっちのやり方で稼いで貰うけど」

「それは……」

「あんまり手荒な真似はしたくないからさ、頼むよ」


 優しい口調で話すのとは裏腹に男の人の表情は笑っていなくて。その手には銃が握られていた。男の人はお母さんに銃口をむけている。お母さんを撃つの?無知で幼かった僕でも銃で撃たれるとどうなるかくらい分かっていた。ふと腕の中のテディベアを見る。お母さんが……殺されちゃう。そう思った瞬間頭の中が茹で上がるように熱くなって。僕はそれを予感していたのに、敢えて利用した。


『消えろ』


 お母さんに向いていた銃口がゆっくりと男の人の頭へ向く。そして引き金が引かれた。響く銃声の後男の人の身体が糸の切れた人形のように倒れる。僕はそれをぼんやりと眺めていた。テレビの中の光景を見ているかのような気分だった。何も感じなかった。それよりお母さんが無事だった事に安堵していたんだ。我に返り、お母さんの方を見る。


「お、おかあさん……!」

「ば……化け物!!」


 僕を見るお母さんの目はあの時の周りの子達と同じ目をしていた。


「おかあさん……? ぼく……」

「近寄らないで! 化け物! あんたなんか……あんたなんか生まなきゃ良かった!」

「ばけ……もの……?」


 ずっと隠していた。皆と違う事。自分が異常だという事。それでもいい子にしていれば、いつかきっとお母さんは僕を見てくれるって。僕はただお母さんに優しく頭を撫でて抱きしめて欲しかっただけだったのに。


 ……お母さんがいなくなって数日が経った。僕はいつものように部屋の隅にうずくまってテディベアを強く抱き締めていた。


「おか……あさん……」


 僕は本当に化け物なのかな。生まれちゃいけなかったのかな。もう枯れる程泣いたはずなのに涙は止まらなかった。

 突然玄関の扉がぎいっと開いた。


「おかあさん……?!」


 入ってきたのはお母さんじゃなかった。白い防護服を身に纏った人達が続々と入ってくる。そして僕に向かって白い煙のようなものを噴射する。僕は動けなくなり、朦朧とする意識の中で目を必死に開きお母さんの姿を探した。僕に近付いてくる防護服達の背後にはお母さん。そして薄れゆく世界の中で最後に見たのは……お母さんの歪んだ笑顔だった。

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