第一章 記憶がない少年      

1


此処は何処だ……僕は、誰だ。

全く思い出せない。記憶にあるのは「旅人」と言う事だけだった。

勿論、言葉を忘れた訳ではない。思い出せないのは自分の事だ。


僕は夢を見ていた。

幸せそうにしている僕が居た。

隣には見知らぬ少女も居て周りには見に覚えのない人が数人居た。

騒ぎで真っ暗になり、現実に目覚めた。

「……っぐ!」

  冷たい風で目覚める。

「……はっ、良かった。起きた、はぁ~死んだのかと思ったよー!」

「……うっ、ひゃーっ!」

 目を覚ますと、その見知らぬ少女に膝枕をされている状況で叫んだ。

少女は地面に膝を付いて、長い髪が地面に付いて少女は安心した表情をしていた。

少年は勢い良く起き上がり、少女のおでこに頭をぶつけた。

ゴーンっと音が響き、少女は笑顔のまま仰向けに倒れた。

「ってー! ……なんだ、一体!」

僕は頭を押さえながら立ち上がる。

 少年の服装はボロボロな格好で、スーツと呼ぶのか分からない。黒のズボンとブレザーとその下にはカッターシャツを着ている。

「って、ててて。此処は? 何処だ!」

僕はキョロキョロと首を動かして、困惑した。ふと、少女は起き上がりつつ「痛いよ」と呟いた。

「……うわっ、なんだ!」

「『なんだ!』とは酷いよ。折角、助けたのに。その言い草は酷いよ!」

 少女はおでこを摩りながら、涙目になっている。

「……はぁ? 君が……」

 少女は服の汚れを手で払って、僕を睨んだ。

 それを見て、可愛いくも思えた。

 金色の長い髪が風で揺れた。

「……」

 制服を着てその上に白衣を羽織っているのを見た僕は、何処かの研究員なのかと思った。

「……あの、なんかごめん。いきなりの事だったから、つい悪い事を言ってしまってごめん。僕も混乱していて、何が何やら」

「むー! うん、私もごめんね。怒鳴ってしまって。改めて、仲直りしよう」

 少女は手を出して来た。

「ははぁ……」

 仲直りって、初対面で言う台詞なのか……それ。

「分からないの?」

 少女は手を出したまま、疑問をぶつけた。

「はい?」

「あっ、握手だよ。した事ないの?」

 少女は頬を赤くしながら言った。

「ある……のかな。まぁ良い、はい」

 僕は握手をした。

 少女は落ち着きを取り戻した。

 金色の髪が腰まであり、猫耳みたいなヘアースタイルだ。

 背は低く、150の中間ぐらいかな。

「あの、大丈夫なの。身体の方は?」

「うん……? なんともないけど……」

僕は自分の身体の確認をし、少女に目を向けた。

「そう……。空から落ちて来て、ビックリしたから。そして、君が私を下敷きにして。あれは痛かったよ! 潰れると思ったよ! そして大変だったよ、退かすのに……」

「えっ? 空から……良く意味が分からんのだが……」

 僕は手を顎に付け考えた。

 少女は事の説明をした。唇をなぞりながら僕を見た。


「成る程。僕が、空から落ちて来たと言う事か。そして、落ちた場所は時森家の領地である、この街。そして落ち先は、君。……君が下敷きになったと」

「……そう。本当に潰れると思ったよ!」

「なんか……ごめん」

 僕は謝りつつ、状況が全く飲み込む事すら出来ないでいた。

 全く信じられないのだが。

「良いよ、もう。済んだ事だから。はは」

 少女はニッコリと笑った。

 この街のシンボルであろう時計塔の針が七時を差していた。

「ごめん、僕……何も覚えてなくて……」

「気にしないで、大丈夫だから」

 少女は僕の手を取り、優しげに微笑んでくれた。

「ありがとう。所で、君は……誰なのかな?」

「……私。私は、時森静、この街の領主」

 少女はニコヤカに言った。指を立てて、首を傾げた。


「えーっ! 本当なの!」


静かな街に風が吹き、少女の金色の長い髪が靡いた。

 街の周りには大きな時計塔があり、古びた建物がある。歴史がある街なのであろう。

「はは……」

 僕は今、この街の領主様と話をしている状況である。

「どうしよう……僕、失礼をしました。領主様だとは気付きませんでした!」


「あっ、はっ! あっはっははは!」


 少女は突然と笑い出した。緊張が取れたように、お腹を押さえていた。僕は意味が分からないで唖然とした。

「……どうしましたか。領主様」

「だって、真剣な顔で言ってるもん。冗談なのに。あっははは!」

 お腹痛いと言いつつも、笑いを止めなかった。

「……冗談? 何処からが冗談なのでしょうか?」

「あはは、だから。領主ってのは嘘だよ~はは、はぁ~可笑しかった。さて、改めて私は時森静です。時森家の次女であり、領主の孫です」

「孫? ……孫でも、失礼な事は……」

「私は気にしないよ。孫だからって、贔屓にされたくないから。でっ、君は?」

 少女は何気なく訊いて来た。可愛いく首を傾げて、僕を見た。

 僕はその言葉で戸惑っていた。

 静は大きな瞳で凝視していた。

「……えっと、ですね……さっぱり思い出せない。さっきも言ったけど、全く覚えてない。自分が誰なのかも」

「えーっ! ……本当なの、何も……覚えて、ないの?」

「うん。ちっとも。ごめんね」

 僕は即答するが、彼女は驚きの表情をした。

「それは……所謂いわゆる、記憶喪失って事。どっ、どど……どうしよう!」

「ちょっと、落ち着いて! ねっ!」

「……そうだね。うん、落ち着こう」

 静は深呼吸をした。


 静は考え込んでいた。唸りながら首を振る。

 何を考え込んでいるのだろうと思った。

「……うんーどうしよう。このままにはして置けないしね。しかし掟もあるし、どうしたら良いんだろう。飛鳥ちゃんに来て貰うのは……時間が掛かるし」

 静は困惑していた。

「……あの、何を悩んでいるの?」

「ちょっとね、やばいの! 君みたいに素性も分からない人は掟により捕まるの」

「捕まる?」

「そうだ、来て。もう夜の七時過ぎか……うん! 商店街にいつも行っている喫茶店があるから、移動しよう」

 僕の質問はスルーですか。

「えっ、まぁ、良いけど。帰らなくても良いの。遅くなると家の人が心配するんじゃないの? 時森家では厳しいんじゃないの?」

「うん、そうだけど……大丈夫だよ、叔父様に言えば分かって貰えるから。だから……行こう」

 何故、不安そうに言うのかな。

 静は手を出した。微笑みながら「案内するから」と言った。

「……分かった、お願いします」

 と僕は彼女の手を握り歩き出した。

 坂道を下りて行くと商店街に着く。そして、時森さんが言っていた喫茶店に到着した。


 彼女が説明をしてくれた。

 坂道から商店街の通り道をメープル・ロード・ストリートと呼ばれている。

「なんか凄い街だね。歴史があるのかな?」

「そうだよ。詳しくは知らないけど、多分……沢山あると思うよ」

 喫茶店に着くまでの間、二人で雑談をしながら歩いた。

 夜の坂道を下りて行くと、街灯の光が沢山点っていた。

 とても綺麗に見えた。

 商店街から賑わいの声が響き渡っていた。夜でも働いている人が居るのだろう。

「ねぇ、本当に何も覚えてないの?」

 景色を楽しんでいた時、唐突な質問をした彼女は僕の袖を掴んでいた。

「……うん、そうだね。はは……そんな僕は、端から見たら怪しいと思われても仕方がないね……」

「……そうね。はぁーどうしよう」

 静は俯きながら言った。

「あっ、あの……そんなに落ち込まないで。僕も、少し考えてみるからさ」

 僕は考えた。

 しかし、本当に何も覚えてないからな。考えても、思い出せない。頭の中は真っ白だ。

「どう……かな。思い出した?」

白衣の少女は上目遣いで僕を見ていた。

 思い出す事を期待しているのだろう。

 少し頑張ってみるか、彼女の為にも。

 僕は目を閉じ、深く記憶を探る。


 周りには見渡す限りの草原と石階段に座っている二人か三人が居た。

 なんの話をしているのか分からない。

「旅をするんだ、父と」

 一人の男がそう言って、周りがざわめき出す。

 二人は胴着を着て、もう一人は和服を着ていた。

 小さき少年と少女だった。

 これは幼い頃の記憶だ。

 此処までは思い出せた。


「……いっ! 頭が割れるように痛い!」

 少年は膝を付き、頭を押さえた。

「だっ……だ、大丈夫! どうしよう、何処か休める場所は……もう直ぐ喫茶店に着くのに」

「……っ! はぁはぁ、大丈夫、だよ。心配しないで、はぁはぁ……ふう~」

 僕は落ち着きを取り戻し、ゆっくりと立ち上がる。

「ごめんね、心配させて。もう……大丈夫だから」

 頭が痛いのは直ぐに治まったから良かったから良いもの、長く続くと厄介だ。

 笑顔を作り彼女を安心させた。そして、空を見上げて息を吐いた。

 やはり記憶を探ると頭に激痛が走るのか。これは参ったな。でも、少し休めば徐々に痛みは引いていく。

「どうしたの、暗い顔をして」

気付くと彼女は僕の手を握り締めて、顔を俯かせていた。

「……ごめんね。私が、無茶なお願いをしたから」

 静は泣き出してしまった。「ごめんね、ごめんね」と何度も繰り返していた。

「おい、おい……君のせいではないよ。僕は気にしてないから。泣かないで、ねっ! さぁ笑って」

 僕は彼女を慰める。

「っぐ、本当に……大丈夫なの?」

「うん、大丈夫だよ。記憶がないからって焦る事はない。……徐々に思い出して来るさ! だから泣き止んでよ。折角可愛いのに、台無しだよ!」

「うひゃ! 可愛い……私が」

 静は顔を赤くし、そして呟いた。

「あ、ありがとう。……さぁ、行こうか」

「……うん」

 静は恥ずかしげに坂を下りる。

 こうして僕と彼女は何気ない会話をしながら歩いた。


 僕達は坂道を下り、商店街に入った。そして、彼女が言っていた喫茶店に辿り着いた。

「……本当に良いのかな? 僕……お金ないよ」

「良いよ。私が出すから。心配しないで。すいません!」

 静は喫茶店の扉を開けて入った。

 店内は広く、普通の風景だ。何故かスクリーンが取り付けてある。外にテラスがあり、其処はとても快適に食事が出来るだろう。

「いらっしゃいませ!」

 ウエイトレス姿の店員が僕達の前に現れた。

「お茶を飲みに来ました!」

「はい。では、席に案内しますね」

「お願いします!」

 静が言うと同時に店員に付いて行く。僕はおどおどしながら歩いた。店の中に客が数人居るが、気にせずに後を追う。

「……うん?」

 すると、眼鏡を掛けた青年がちらっと此方を睨んだ。服装はスーツを着ていた。

「こわっ! 睨まれたよ、静」

「何? あーっ!」

 突然と叫び出した。何やら騒がしくなる予感がする。

「はぁ~うるせぇーな! 少しは静かに出来ないのかお前は……他の客に迷惑だろう」

 その青年は珈琲を飲んでいた。

「気付かなかったよ。なんで居るの、蓮時御兄様」

「はぁ、お前には関係ないだろう。誰だか知らないが、怒られるぞ」

 眼鏡を掛けた青年は少年を見た後に静を見て言った。

「やはり、言うつもりなの……成治御兄様に?」

 青年は珈琲を飲み終えて立ち上がった。そして、会計の方に向かって行ってしまった。

「ビックリした。あっ、そう言えば……さっき私の事、『静』って、名前で言っていたような……」

 ギクッ! はは……

「気のせいだよ」

「そうかな。まぁ……悪くはないかな。名前で呼んでも……行こうか」

 少女は先程の会話で顔を赤くしていた。僕は気付かれぬようにと願い、この言葉を言う。


「無意識に言ってしまい、ごめん」


 そして、店員に案内してくれた席にお互い向き合うように座った。

「今、お冷やをお持ちしますから、少々お待ち下さい」

 っと言って、ウエイトレスは小走りで行ってしまった。震えているようでちょっと不安になって来た。

 ウエイトレスの格好は和風素材で水玉のワンポイントでミニスカート。今の季節では肌寒いだろうと思った。

「なんか、緊張しているのかな」

「そうかもね。私の事も知っているからね。さてと、来るまで考えようかな」

「うん……って言うか、何を!?」

「何を、って。名だよ! 私が君の名前を付けてあげるから、考えると言う訳ですよ。記憶がないのは致し方ないからね。君の事をなんて呼んだら良いか分からないから」

「なんで……そんなの悪いよ」

「ううん、名前がないのは可哀想だよ! だから私に任せて」

 静は笑顔で言った。僕はその笑顔を見て「うん」っと、頷いてしまった。

「分かったよ、無理に根詰めないでね」

「うん、任せて」

 っと言って、白衣のポケットから紙とペンを取り出した。

「おっ、お待たせしました。お冷やです。後……これがメニューになります」

彼女に気を取られて気付かなかった。突然と現れたウエイトレスがお盆にお冷やを載せて立っていた。そして、お冷やをテーブルに置き、メニューを僕に手渡した。

「どうも、ありがとうございます」

「っふふ。では決まりましたら、お呼び下さい」

 と言って、ウエイトレスは下がって行った。

「さっきのって、笑われたのかな……?」

「ふっふふ!」

 静はふと笑った。

「なんで……笑うの?」

「ごめんなさい。余りにも可笑しかったから。だって、メニューを貰うのに、『ありがとう』と言うから。あはは、可笑しい!」

「あっ、そう言う事。だからか……普通は言わないのか。そうか、はは。恥ずかしい」

 僕は照れながら頭を掻いた。

「別に、普通じゃ……ないと思うよ。うん、さっきのは珍しいが、正しいかな。滅多に居ないと思うよ」

 静は優しい解説をしてくれた。顔を赤くしながら、笑っていた。とても、可愛いと思った。記憶がないおかげで、不安が増えたみたいだ。

 窓の向こうは流石に真っ暗だ。

 僕は思う。

 この娘は見知らぬ者に危機感とか恐怖感などはないのかと言いたい。

「なんでも頼んでも良いよ。私は珈琲を飲むから」

 珈琲って、大人だな。

「あぁ、僕も……それにするよ」

「それで、良いの? 結構苦いよ。私は砂糖を入れて飲む派だから……」

「うん、僕は砂糖は良いよ」

「分かったわ、じゃ呼ぶね」

静は立ち上がり、ウエイトレスを呼んだ。

 そして、一分もせずにウエイトレスが来た。

「お待たせしました。ご注文は?」

「珈琲を二つ、お願いします。私は砂糖を、彼は無しで」

「畏まりました。直ぐにお持ちします」

 ウエイトレスは注文を聞いて、早速に行ってしまった。

「そそっかしい人だね」

 ふと周りを見渡す。さっきのウエイトレス一人以外、接客をしている者は居ない。何故かは知らないが、この娘なら分かるかもしれない。

「……あの、気になる事があるのだけど。なんで、ウエイトレスは一人しか居ないのかな?」

「なんでって……うん~考えた事なかったな。夜は余り客は来ないからだと思うよ。店長さんはもっと増やしたいと言っているけどね。……後、常連さんはちゃんといるよ」

 静は答えてくれた。微笑みながらも、止めていた手を動かした。

 聞いていて思った。この喫茶店は大丈夫なのかと。店長とウエイトレス一人ずつだけで。

「おっ、お待たせしました! 珈琲です。二つで宜しかったですか?」

 ウエイトレスが珈琲をお盆に載せ、僕達の所に来た。

「はい」

 僕が言うと、ウエイトレスは笑顔のまま珈琲カップをテーブルに置いた。

「では、ごゆっくりと」

 ウエイトレスは御辞儀をして行ってしまった。

「ねぇ、時森さん……」

「……うん~っと、ねぇ」

 時森さんは真剣に何かを書いている。

 邪魔しちゃ悪いし、書き終わるのを待つか。


「出来た!」


「あちっ!」

 時森さんが突然と声を上げ、僕はビックリした。その拍子でコップを揺らし珈琲が手に零れた。

「大丈夫……ほらっ、フキン」

「ありがとう。あちち。いきなりどうしたの……声を上げて」

「ごめんね。それは……内緒。さて、次は君の名前だね」

「あはは、そうなんだ……」

 さっきまで名前を考えていたのではなかったのかと言いたい。

 僕は思った事を訊いてみる事にした。

「怖くないの?」

「何が?」

「知らない人に、そんな事を……して? まさかと思うけど、他の人にもしているのではないかと」

「そんな事はしないよ。君は別だよ。だって悪い人には見えないもの。心からそう言えるよ。いきなり……空から落ちて来た時はビックリしたけど」

 無邪気な笑顔で言った。彼女の言葉で少年は振動した。なんも疑いもなく出た言葉が「分かった、お願いする」と言った。

「任せて! 良いのを導き出すから」

 こうして二人は向き合いながら話をした。時間に身を任せるように珈琲を飲んだ。


 少年は考えていた。

 僕は誰だろうと。

窓から空を見上げると、少しは気が休めるのだろうか。はぁ~不安に駆られるのは……何故だろう。

 ふと空を見上げたら、星が良く見えていた。この季節の空は澄んでいるのか、凄く綺麗だ。

 すると静が腕を伸ばし、少年の肩をトントンと叩いた。

「あの……聞いている?」

 少年が気付き戸惑った。

 少年は静の方を向き、赤面している静は少年を見た。

「はいっ、何かな?」

「さっきから窓の方ばかり見ているから。つまんないのかな~って」

「ごめん……そんな事はない。だが……起きてからずっと考えていた。……実は、覚えている事が一つあるんだ」

 そう記憶を探った時に少しだけ思い出した。

「それは。旅人と言う事。それ以外は何も覚えてない。自分が誰なのかも……」

 静は首を傾げていた。

 何を言っているのと思っている顔だ。

「あの……」

 静は何かを思い付いたかのように、てのひらにポンっと、拳を載せた。

「そうだ! 旅介(りょうすけ)! 旅介って言うのはどうでしょう!」

 右肘を曲げて、人差し指を立てていた。僕は呆気に取られてしまった。

 なんか、まんまだなぁ~時森さんのネーミングセンスで大丈夫なのか不安になって来た。

「ちなみに、旅と言う字は旅行の旅って呼ぶでしょう。それでは呼び難いでしょう。だから、最後に『う』を付け足して、旅介。どうかな?」

 やはりか……

「良いんじゃないのかな、はは。時森さんが考えてくれたから……その名前を使うよ。凄く、嬉しいよ!」

 それを聞いた静は不機嫌になった。そして、怒った。

「余り、嬉しそうにないよー! もーう! 懸命に悩んだのにー!」

 突然と立ち上がってテーブルをバーンっと叩いた。

 その音でウエイトレスが駆け着けた。

「……どっ、どうか、しましたか。お客様!」

「あっ、ウエイトレスさん。はは、なんでもありませんから……仕事に戻って下さい」

「…………そうですか、賑やかなのは良いですけど、店内はお静かに願います。他の人も居ますし……ご迷惑になるので」

「はい……すいません……」

 ウエイトレスは「では、ごゆっくり」と笑顔で言い、御辞儀をし、仕事に戻った。

「もう……時森さんが大声を出すから、ウエイトレスさんに迷惑を掛けてしまったよ。時森さん、名前なら本当に嬉しいから。だから、機嫌直してよ。そして、出来れば座って欲しいなぁ、こんなに……顔を近付かれると、恥ずかしいよ」

 ふと静は気付き、素早く座った。顔を赤くし俯いた。

「ふう~そうか……」

 記憶がない僕に名前か……なんか不思議だ。

「時森さん……あの」

「……なんですか?」

 いきなり敬語に……

「いや、話でもしようと思って」

「……そうね、あの……さっきはごめんね。怒鳴ってしまって……名前だけは自信があったの……」

 静は落ち込みながら謝る。

 僕は思った、この娘は繊細だと。

「良いよ! 僕の方こそ、逆に記憶がないのに……申し訳ないと思っているんだ。だから……名前を考えてくれてありがとう」

「ふふ! うん、やはり君は悪い人ではないよ! でっ、なんの話をするの?」

 と嬉しそうに言った。

 こっちから話を振るのは良いが、記憶がない僕にとっては難問だ。

「ごめん、時森さんを元気付けようと思ったが……思い付かない。じゃ、逆に時森さんはなんかないの?」

「わたし! うん~っとね。いきなり言われても困るよ」

 ですよね。

 しかし、今の季節の話をしてもなぁ……

「あっ、そうだ! じゃ、西暦は? 今、何日?」

 今の僕はそれも知らないのだ。

「はい? 西暦……1890年、十月十日、金曜日だよ。まさか、その事も記憶になかったの……なんか変だね」

「うん……申し訳ない……はは、僕は一体なんだろうね。本当に」

 そう僕自身の事も、何処で生まれたのかさえも覚えてないのだ。

「はっははは! おっかしい」

静はお腹痛い、って言いながら笑っていた。

「そんなに……笑わなくても良いじゃないか、僕だって、不安何だよ」

「ごめん、ごめん。縁ちゃんが居たらこう言うのかな。『大丈夫だよ、記憶がなくてもなんとかなる』と」

 なんて……前向きな考え方。

「はは、そう……かな」

「でも難儀だね。記憶がないのは……逆に羨ましいぐらいだよ。私には」

「えっ? それって、どう言う意味なの?」

「べ、別に深い意味はないよ……気にしないで、今のは忘れて。あっ、そうだ! 旅介、少し……昔の話をしても良いかな。旅介の記憶とは関係ないけど」

 早速、呼び捨てですか。

「後、私の事は静、って呼んでね」

 そして、静は恥ずかしげに物語るのだった。


 時は1880年、夏頃の事。

 勿論、直に戦争が起き、三国の同盟関係が崩れる事は、この時期の人々は知らない。

 この頃の私は白衣も着ず、薄着のドレスを着て、家か商店街にある物貨屋ぶっかやに入り浸る日が私の日課。

「おとうさま! どこー!」

 私は今、商店街で迷子みたいな事になっていた。


「ちょっと待って、一体何を語っているの?」

「だから、私の小さい頃の話だよ。旅介は黙って聞いていて」

 そして、静は語り続ける。


あの頃は大泣きをしていたから、人達に見られていたな。その時なの、お姉さんに会ったのは。

「どうしたの。お嬢ちゃん?」

「……?」


 いや、当時は参ったよ。余り家から出た事がなかったから、知り合いもいなかったし、友達も居なかったし。

 それは、淋しい……

 その時、話し掛けて来たのがお姉さんだったんだよ~

 随分と嬉しそうに語るね。


「わーっ! かっ、かわ、可愛い!」

「ふえ!」

 突如、エプロンを着けた女性が少女に抱き付く形。

 端から見たら、危ない性犯罪をしている絵図らだ。

「……あの、なんです、か……」

「ごめん、ごめん。別に怪しい者ではないよ。そうだね……近くに店を出している、店長をしている者だよ。名前はリエ、宜しくね」

「…………?」

 水色の髪をポニーテールに結び、腰に着けるエプロンを揺らしながら笑った。

「どうしたのかな、迷子? 仕方がない。捜して上げよう」

「おいっ! その娘が誰なのか知らないのか?」

 ふと、商店街を歩いていた人が声を掛けて来た。

「知る訳ないでしょう。初めて会った娘、なんだから」

「……かっ、どうなっても、知らねぇーぞ!」

 その人は捨て台詞を吐き、逃げるように去って行く。

「なんだろうね? えっと、お嬢ちゃん、お名前は?」

勿論、当時の私は人の接し方なんかは知らなかったから、どうすれば良いのか分からなかった。

 そして、お姉さんは私の手を取り、そのまま店に連れて行かれた。


「そのお姉さんって、一体何者だったの?」

「私も知らなかったの。色んな物を売っている店だったの。それが物貨屋」

「へぇ~」

 そして、お姉さんは店に連れて行く時、こう言ったらしい。


「『お持ち帰り』なんて思ってないよ。私は一人暮らしだしね。私は、純粋に話がしたかったの」

「……そう。うん……信じる」

「良かった! でっ、信じてくれるのなら、御嬢ちゃんの名前、教えてくれる」

「うん、わたしは、ときもり、しずか、四さいです」

 それが、私とお姉さんとの付き合いが始まったの。

 そして、現在に至る。


「私ね、人見知りだったから、知らない人には極力話が出来なかった。だから、お姉さんのおかげで、すっかり街の人とは仲良し。それだけではないよ、大切な友達も出来たんだよ。それと引き替えに大切な……御父様が居なくなった」

 いきなり、重い話になっているんですけど。

「じゅ、十年前に……」

 静は珈琲を飲んだ。

「あの……大丈夫、顔色が悪いけど」

「ごめん、なさい……、昔の事を思い出してたら……なんだか」

 静は泣き出した。

「うっ、うぇ~御父様!」

「と、時森さん、泣かないで……ほら」

 僕は彼女の頭を撫でた。

「くすん、ごめん……ね」

 静は目を手で擦り、泣き止む。

 これからどうしよう。

 時森さんにそんな過去があったとは、取り敢えず、明るい話をしなくちゃな。

「えっと、ウエイトレスさん」

「……ウエイトレスがどうかしたの?」

 静は泣き止み、訊いて来た。

「いや、さっきも言ったけど、この店にウエイトレスさんが一人しか居ないじゃない。なら、時森さんがウエイトレスをやれば良いんじゃないかな……」

「えっ!? ちょっと……待って。旅介が何を言っているのか分からない。……なんか勘違いをしているよ」

 静は焦りながら解説した。

「この喫茶店にいるウエイトレスさんは一人でなんでもこなすの。素早くね。それに……私には向いてないから」

 と、静は顔を赤くした。

「そう、なのか。はは、一度見てみたかったな、時森さんのウエイトレス姿」

「うひゃ! 止めて、止めて! からかうのは……」

 静は慌てた。

 僕は珈琲を飲み終えた。

「はは、そろそろ出ない。また、大声を出すと……ウエイトレスさんに迷惑を掛けるし」

 僕がそう言うと、時森さんは「そうね」と言った。

静が伝票を手にし、会計を済ます為にカウンターの方に向かった。

 この世界のお金は硬貨だ。それは、ゴールドと呼ばれている。

「……恥ずかしい」

 静は呟きながら、珈琲代金を払う。

 珈琲二つで二ゴールドだ。静は財布から二ゴールドを出し、会計を済ませた。

「ありがとうございました!」

 ウエイトレスさんはお礼の言葉を言ってくれた。

 僕も御礼を言う。

「此方こそ、迷惑を掛けてすいません」

 こうして喫茶店内での話は終わりを告げた。

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