タナバタノソラ - 04
☆★☆
そよ風に踊る木々の音と、夜を歌う虫の音と。小さな森の静寂を、二人分の足音が掻き分けていく。
なだらかな斜面を登るにつれて頭上を覆う緑葉は面積を減らしてゆき、次第に空が開けてくる。こうなると、丘の頂上はもうすぐそこだ。
今日は、実に晴れ渡った夜空だ。ここへ来ると空の機嫌がよく分かる。訪れた目的を忘れたわけじゃないが、オレの心はほんの少しの平穏を得た。
町の雑多な明かりから距離を置いて、この場所にはただ緑と空がある。ここに流れる穏やかな時間が、オレは気に入っていた。だからここへは、こうして時折足を運ぶ。今みたいに人を連れて来るなんて初めてのことだけれど。
朽ちかけの電灯がおぼろげに灯る他に道中には光源が無く、懐中電灯の用意がなければ進むこともままならない。それでも今日くらい月の明るい夜は、頂上付近ならば月明かり一つでおおよそ周囲が把握できるようになる。
「そろそろ着くぞ」
実っこがちゃんとついてきていることを確認して、用の済んだ懐中電灯のスイッチを切る。すると視界の星々が途端に意識され、光の粒がいっそうに眩しく、頼もしげに映った。なにより今日の月は殊更に明るいことが実感できた。
「なんかここ、夏休みの自由研究みたいだな」
口を開けばオレへの文句ばかりだった実っこも、大自然を目の当たりにして思うところがあったみたいだ。小学生らしい喩えを交えた感想を、おとなしいトーンで述べた。
残り50メートルもない坂道を登りきったところにある開けた平地が、小さな丘の頂である。きっとこの先で待つ木浦木のことを、オレは道すがらずっと考えていた。
待ち合わせにこの丘が指定された理由は、一つしかない。ここにはオレが短冊を吊るしたあの笹の木があるのだ。頂上平地の隅っこに、人目を避けるようにして。そこに吊るされた願いの短冊のことを、恐らく木浦木は知っている。
なぜ木浦木が? オレの短冊、覗いたわけじゃないだろうな……。
あるいは――この奇妙なタイムスリップ現象が、オレだけに起こったものではないとしたら。その憶測は現実となり、満天の星空の下、待ち合わせの場所には木浦木と、もう一人の木浦木がいた。
その懐かしい姿を見た瞬間、自分でも変だと思うが、胸の高鳴りを感じた。
丘の上を少し強めの風が吹きぬけると、一回り背の小さな木浦木の髪だけは、長く闇夜になびいた。木浦木の髪がなびくところなんて、いつぶりに見ただろう……揺れ動く髪の隙間から背後の星がちらりちらりと覗いて、まるで散りばめられた宝石のようで。
目が離せないのは、その光景があまりに幻想的だからだろうか。いつもは星を見上げに来るこの場所で、今は夜空が背景になってしまっている。昔の姿だろうと所詮は同じ木浦木なのに、まるで別人のように映ってしまうのはなぜなのか。
気持ちの正体が分からないでいると、
「お、おい……なんでお前もこんなとこにいるんだよ」
隣で実っこが唖然としている。まあ、それもそうだろう。オレも立場が同じならこんな間抜け顔を晒していたはずだ。
子供時代の自分が現れる現象は木浦木の身にも起こっていた。心積もりをしていなかったわけではないが、こうしてみるとなんと異様な空間だろう。境遇を同じくしたオレたちが、事の発端であろう曰くの地に勢揃いとは。
「実くん……ほんとのほんとに、実くんだ! 実くんがいる!」
「あっ姫ちゃん、待って――」
木浦木が制す声も届かないのか、小浦木――姫ちゃんなどと呼べるものか――は一目散に駆け出して、実っこのだらしなくぶら下がった手を掴んだ。そうして実くん実くん、と嬉しそうに声をあげるのだった。その声一つ取っても、思い出の中の木浦木そのものだ。
「うれしい!」
「はあー!? バカ、くっついてくんなぁぁ!」
「どうして? ひめ、一人だけだと思ってずっと寂しかったもん」
「ボクは寂しくなんかねーの! ああっ離れろって。暑い! 暑いなあもう!」
二人にとっての未来の世界で、まさかの邂逅を果たす見知った者同士。
小浦木の曇りのない好意に喚くことしかできない姿は、紛れもなく昔の自分そのもので。Tシャツの首元を乱暴に掴んで、わざとらしく暑さを演出する仕草や、耳が真っ赤になるところも、照れると、昔からああなんだ。
もう見てられない。そう思うのに、なぜだか二人のやりとりに割って入る気にはなれなかった。
これが、オレと木浦木のやりとり……とても考えられないが、どうしてか不自然なものとは思えない。なんだかとても、懐かしい。
熱いものが体中を駆け巡るのと同時に、頭のどこかに追いやられていた思い出が溢れるような感覚。オレにもあったのだ。木浦木との仲が悪くなかった時期が。
けれど、懐かしめば懐かしむほどに、心に巣食った虚しさはそれを上塗っていく。
確かに正しくあったのだろう、オレたちの間にもあんな関係が。だけどそれは遠い昔の、今は失われたもので。目の前の二人と同じ人間でありながら、きっともう別人になってしまっているんだ。木浦木も、そしてこのオレも。
だからいまさら、思い出したって意味なんかありはしない。
オレが木浦木のことを、好きだったことなど。
子供たちを眺める木浦木の表情は、俯き気味で月明かりを反射していないせいだろうか、どことなく暗い。その瞳は虚ろにすら見える。
オレはそんな木浦木に声をかけた。
「木浦木、お前」
「――うん。私も書いたから、短冊。七部も同じなんでしょ」
一呼吸置いて、木浦木から返答がある。しかし、顔色一つ変えず、顔を向けられもしないことに、オレは現実に引き戻される思いがした。
過去がこうして現れてなにを見せようが、今のオレたちの、この関係性こそが全てだ。木浦木の態度こそが答えだ。
そうだよ、期待なんかするだけ無駄だって、知っていたはずだろう。失った過去は取り戻せない。どれだけ星に願おうともだ。
オレはここで都合のいい夢を見せられているだけに過ぎない。神様がいるとしたら、そいつはなんと性根の腐りきっていることだろう。悪態を吐きたくなる気持ちを抑えて、オレは言葉を返す。
「短冊ならまあ、書いたけど」
「ふうん」
このとき初めて木浦木がオレと目を合わせるが、オレは見られない方がまだマシだったと心底思った。その瞳が負の感情に淀んでいたからだ。
「兄妹なんかいらない、って言ってなかったっけ」
突然なにを言い出すんだろう。その声色は不機嫌を隠そうともしていなかった。
身に覚えがない。なにか木浦木は、オレが願った内容を勘違いしているんじゃないだろうか。オレは兄弟を欲したんじゃない、ただオレ自身をやり直したかっただけだ。
ただ仮に俺の願いが木浦木の思う通りだったとして、こうしてオレが責められなくちゃならない理由が分からない。だってなにを書こうが願おうがオレの勝手で、どうこう言われる筋合いは無いはずだ。木浦木の態度は、実に不愉快だ。
「いつそんなこと、お前の前で言ったんだよ」
だから吐き捨てるように言い返してやると――その瞳に、怒りが宿った。
「最低」
そして一言、それだけを言い放った。目を背ける。もうオレに用は無いとばかりに。
おいおいそれは……あんまりだろうが。
「はあ!? ふざけんな、なんだよ兄弟って。オレは短冊にそんなこと書いてねーぞ! どうしてすぐそうやって――」
「この超スーパーウルトラちんちくりん野郎め! すぐそうやって喧嘩すんなよ!」
オレに負けず劣らずの大声によって横やりが入った。なにかと思えば、実っこのダッシュからの勢い任せなタックル攻撃が眼前まで迫っているじゃないか。急なそれをよろけながらもなんとか受け止めて、そのバカな頭にチョップをお見舞いしてやった。
「いっってぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
「こっちの台詞だクソガキが! 危なっかしいマネすんじゃねえ!」
受け止め方を完全に間違えた。わき腹に大ダメージを負ったオレは、加減など頭にも無く放ったチョップによって右手も大いに痛めてしまい、そうそう人など殴るもんじゃないなと思い知った。
またしても実っこの強引さにやられてしまった。今回ばかりは木浦木にガツンと言ってやりたかったのに、不完全燃焼もいいところだ。
そもそもこいつは小浦木の相手で忙しかったはずじゃないのか。やけに気が回る。そう思って小浦木のいる方向を眺める。
「実くん……」
小浦木の小さな腕が、じゃれる相手を失って虚しく空を切っている。
実っこはというと、せいぜい数メートルのダッシュにしてはずいぶん息が上がっていた。それに耳が赤いままだ。必死さが見て取れる。
双方の様子から状況を察したオレは、ただ怒鳴るよりも仕返しになりそうだ、と口元を釣り上げて実っこの顔を覗き込んだ。
「さてはお前、木浦木のガキから、照れ隠しで逃げてきたな?」
「はあーー!? そんなんじゃねーし! そんなわけねーし!」
「バーカ。オレの過去がお前なわけで、要するに全部お見通しなんだよ」
「うるっせー! ちげーし! ちげーし!」
「もう一度遊んできてやれよ、ほら」
そう茶化すオレの口が固まった。小浦木の様子が、度を越しておかしいことに気付いたからだ。
「行っちゃやだよ実くん……お姉ちゃんも……ねえ、どうして怒ってるの? 仲良くお話ししないの?」
小浦木は今にも泣き出しそうだった。目に涙を溜めて、元々か細い声はいっそう弱々しい。気付くのが遅れたオレは、自分の気の回らなさに心底嫌気が差した。
様子がおかしいって、そんな風になるのが当然じゃないか。実っこは自分のことで手一杯だし、大人のオレたちはいがみ合っている、最悪の空気。実っこはバカだからさて置いて、この世界で寄り縋れる人間がいないのだ、幼い小浦木には。
保護者とも言える木浦木は完全にふて腐れてしまって、小浦木を気遣う余裕は見られない。小浦木は想像もしなかったのだろう、未来のオレたちの、拗れきった関係性を。
この状況はオレが悪いのか? 思い返しても納得がいかない。始めから喧嘩腰で、知らない話を強引に進めて、勝手に納得して見離して。全部向こうのせいじゃないか。オレになにを期待しているのかも、なにも言わないで。
木浦木が機嫌を悪くするのは決まってオレの前でだけなんだ。普段学校内で見かける木浦木は、至って自然な顔をして笑う。友達付き合いは円滑に運んでいるように見える。性格の悪いようなやつじゃないんだ。
オレはとうとう悲しくなってしまった。
なあ、どうしてオレにばかりきつく当たるんだ。そんな風に情緒不安定になるんだ。お前が友達に見せる顔と今の顔、どっちが本当のお前なんだよ。
罪のない小浦木の悲痛な面持ちが、ただ心に刺さる。
「なあ、おい……」
見ていられなくなったオレは小浦木に声をかけようとして、その試みは別の声によってかき消された。
「ああー! 見てらんねえ!」
実っこだ。小浦木を見るその表情はオレの方向からでは窺い知れないが、肩を震わせている。
実っこが怒りの感情を膨らませているらしいことはなんとなく察していた。ただしそれを、茶化したオレに対するものだと勘違いしていたが……。
淀んだ空気に一喝するような声に、そっぽを向いていた木浦木さえも目を奪われている。
この場の全員からの視線を浴びながら、そんなことは意に介さずに実っこは続ける。
「いつも言ってんだろ! そうやってすぐめそめそすんな!」
そういえばこんなことを、この頃は毎日のように言っていたっけ。
今でこそ明るくなったが、以前の木浦木は人付き合いに臆病で、そのくせ人一倍の寂しがりやで、いつもみんなの輪から外れておどおどしていた。木浦木の家は母子家庭の一人っ子で、他人との関わり方を学んでこられなかったのだ。オレはそんな木浦木に、イライラさせられてばかりだったのを覚えている。
「だって……」
「だってじゃねーの!! 心配しなくてもボクは逃げねえよ」
ちょっと自意識過剰なくらいに言い切る。それに対して小浦木はきょとんとした顔つきになった。
「ううん、今逃げたもん」
「そーだそーだウソつけ」
「うるせー! そういうんじゃなくて、どこにもいなくなんないってことだろ!? 分かれよ!」
そしてオレだけ殴られる。まあ発言の意図を理解した上で便乗したことは認める。聞いてて恥ずかしかったもんだから、ついな。
オレを殴り終えた実っこはそして、決まり悪そうに頬を掻いて。
「それで、き、きぅ…………お前、どうせ明日も暇なんだろうし、しょうがねーからボクが遊んでやるよ。それで文句ねえだろ!」
実っこの方から、小浦木を誘ったのだった。
正直、驚いた。過去のオレにこんな度胸があったなんて。こうして目の当たりにしても信じられない。
だってそうだろ。今の今まで、小浦木の相手なんかまともに出来てなかったじゃねえかよ。今だって分かりやすいくらい耳を赤くしてるくせに。小浦木のこと、苗字ですら呼べないくせに。
そんなになってまで木浦木を救う勇気が、今のオレにはあるのか?
「お、おいっ、聞いてんのかよ!」
照れ隠しに怒鳴るその声で、止まっていた小浦木の時間が動き出したようだった。ぽかんと開けていたその口が、みるみる横に広がって。
「うんっ、約束!」
小浦木に笑顔が咲いた。
たぶん、オレが声をかけてたんじゃ見ることの叶わなかった笑顔だ。
「……」
子供たちだけで事情が片付いてしまった。それはそれでよかったといえるだろうか。しかしオレと木浦木とを隔てる深い溝はそのままだ。
今なにを思っているんだろう。まだ浮かない顔つきでいる木浦木を想う。
それも束の間、木浦木は脈絡も無く小浦木に呼びかけた。
「ごめんね、姫ちゃん。帰ろっか」
「お、お姉ちゃんっ」
腕を掴まれ急に歩き出されるものだから、小浦木が蹴躓いている。
帰ると宣言した木浦木は、しかし帰路とは異なる方角へと歩いていく。オレが帰りの一本道を塞いでいるから、迂回しているのだろうか。様子を窺うにそういうわけでもなさそうであった。というか、薄々目標地点が分かってきた。
「おい木浦木、そっちは帰り道じゃねえぞ」
「ほっといて。七部になんか、もう短冊にしか興味ない」
「お前……人の短冊盗み見る気かよ!?」
やっぱりか、冗談じゃない!
そりゃあ、小浦木の存在を明かすためだけにわざわざこの場所を指定したわけじゃないだろうとは思っていたけれど。
「どうせ聞いても答えてなんかくれないでしょ」
「そりゃ、そんなことなんでお前に……」
死んでも言いたくなかった。
バカ正直に名前なんか書いちゃいないが、それでも木浦木の目に入る事態はなんとしても避けたいと思った。
どうせ書いたのはくだらない戯言だ。取るに足らない陳腐な文句と切り捨てられておしまいだろう。そうに決まっているのに、心の内を洗いざらい暴かれるんじゃないかという、根拠の無い予感がオレを焦らせる。これ以上誰にも、惨めな自分を晒したくなかった。
木浦木は「どうせ期待なんてしてないし」と余計そっぽを向いて、短冊のある茂みの方へとずんずん歩いていく。
「調べなきゃ。姫ちゃんがここにいる理由も曖昧なままなんて、そんなの怖くて耐えられない」
オレはなりふり構っていられなくなって、駆け出した。そのまま急いで木浦木の行く手に回り込み、腕を広げて必死の妨害に出る。
「七部、どいて」
「ああもう!」
今日はなんて一日だ! そう叫びたいくらいだった。
守る価値も無いプライドのために、どうしてオレはこう、実っこのように上手くいかないのか。オレも大概バカなんだろう。そうなんだろうが……とにかくこれ以上、散々な目に遭ってたまるか!
「また、きてくれたの」
抑揚の無い声が聞こえたのはそのときだった。
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