慰み
狸汁ぺろり
祝言の夜
銀次郎が祝言を上げた。
祝宴はかなり派手にやったそうだ。それはそうだろう。音羽で三指に入る分限屋、椿屋の若旦那と、羽子板にも描かれた小町娘おふくの婚礼となれば、その祝福の派手な事はまったく当然であろう。今頃は宴も引けて、最初の夫婦水入らず、嬉しいひと時が始まっているに違いない。桶屋の二階で兄哥のイビキを聞きながら独り布団にくるまっている俺とは、大違いだ。しかし、俺とアイツは、かつて同じ立場にいたのだ。
寺子屋の典見先生。あの先生はいい人だった。意欲的に学びに来る子ならば、家が金持ちであろうと、貧乏だろうと、等しく丁寧に扱ってくれた。だから俺と銀次郎も互いに分け隔てなく、同い年の友達として接していられた。
寺子屋には大勢の子どもがいて、遊ぶ友達も多かったが、その中でも俺と銀次郎は大の仲良しだった。相撲でも、川遊びでも、俺たちは兄弟のようにくっついて遊んでいた。俺は同年の子どもたちと比べると少しばかり体格が良くて、興奮するとすぐ顔が真っ赤になる性質だった。銀次郎はそんな俺をタコみたいだと笑った。すると俺の方もお返しに、銀次郎の生っ白い肌を指してイカだと呼んだ。俺たちはタコとイカだと、二人でゲラゲラ笑ったものだ。
そんな二匹を引き裂いたのは、一冊の春本だった。
年長の誰かが悪戯に仕掛けたのだろう。朝早く、何人かの友達――その時、銀次郎はたまたま一緒じゃなかった――と連れ合って寺子屋に行くと、俺たちが使う机の上に、見開きの春本が置いてあった。それを見つけた俺たちは雷に打たれたように緊張した。長屋の兄ぃの家で春本を盗み見るなんてのは、男の子として嗜みの一つみたいなもんだったが、あんなに堂々と、むざむざと見せつけるように置いてあるのは衝撃だった。
俺たちは互いに顔を見合わせて、言葉を発する代わりにゴクリと唾を呑んで、その春本に飛びついた。そこに描かれていた男女秘儀図の数々。今にして思えば、その本は春本の中でも、特にエゲつない部類のものだった。そこに描かれていたのは男女の肉体というものをひたすらに茶化し、弄び、嘲笑う、悪趣味の極りみたいなものだった。
――逆さ吊りにして――犬のように――尻の方まで――ああ、いま思い出してもゾッとする。ゾッとすると同時に、しかし興奮もする。俺の嗜好のいくらかはあの本のために曲がってしまったようなものだ。
初心な俺たちは、吐き気のするような嫌悪と、初めて目の当たりにする様々なやり方に対する興奮で、頭の中がくらくらと茹で上がっていた。貢をめくる指先までべっとりと汗に塗れていた。同い年の誰も知らない秘密を自分たちだけが先回りして知っているという思いあがった気持ちに悶えていた。おお、銀次郎にもこれを見せてやりたい。そう思った矢先、
「何をしている!」
典見先生の一喝だった。驚いた俺たちがを振り向くと、戸口に怒り顔の典見先生が仁王立ちしていて、その背後に銀次郎が控えていた。銀次郎は憐みのこもった目で、俺の真っ赤な顔と、机の上のエゲつない絵図を見比べていた。
俺の青春はそこで終わった。典見先生は学び熱心な子どもには優しい人だったが、寺にいかがわしい本を持ち込む不埒者には厳しかったからだ。俺と、一緒に見ていた友達は境内の木に縛り付けられ、一日中見せしめにされた。心無い連中が俺たちを取り囲んでさかんに囃し立てたし、女の子たちは軽蔑の目で俺たちの前を通り過ぎて行った。銀次郎は一言もなく、俺の目を避けるように、別の友達とそそくさと逃げ帰って行った。それ以来、銀次郎とは会っていない。
恥をかかされた俺は往来で人に会うことすら恥ずかしくなり、ほとんど家に籠りきりになった。寺子屋に通うのもやめ、昔の自分を知っている人ほど会い辛くなり、日陰者のまま大人になった。
そんなものだから、嫁の貰い手もない。時折、あの日目の当たりにした春本の図画を思い出して、自分で自分を慰めたりしている。風呂へ行くためにちょいと道を歩くことさえ勇気を要する俺にとって、女を買うだの、新しい本を手に入れるだのといった、独り身の男なら当たり前のことさえ億劫で、記憶の底にこびりついた奇怪な体位と、恍惚とした女の表情だけが慰みものだった。
一方、銀次郎は大成していた。風の噂に聞くところによると、若旦那の銀次郎は商売の覚えも目覚ましく、手代番頭への気遣いも気前よく、風流芸事も人並み以上に嗜み、なにより肌の白い役者のような色男だとの評判だ。そいつが寺子屋時代から馴染みの小町娘と長年の恋を実らせたというのだから、万事も万事、大平天満な果報者と言うしかない。かつてのタコとイカは、今や月とスッポンだ。
ええい、畜生。夜具の中が蒸し蒸しする。目が冴えて寝付くに寝付けない。俺は兄哥のイビキを妨げぬよう、そっと夜具から這い出して、ついでにふらふらと家からも抜け出した。
夜の町は風もなく、音も光も眠っているみたいだった。俺の足は自然に歩き出していた。実をいうと、どこへ行こうとしているのか? 俺にもわかっていなかった。銀次郎の祝言の噂を知り、昔のことを思い出して腹が煮えくり返っているだけで、外に出てどうしようという肚つもりは一切なかった。
こんなところを夜回り組に見つかったら面倒な事になる。そうわかっていながら、俺の足はある方角へ向かっていた。俺は俺の行先をぼんやりと理解した。
音羽へ。椿屋へ。あいつの家へ。
その立派なお屋敷を訪れるのは、あいつと疎遠になって以来、もう十四年ぶりになるだろう。相変わらず広い家だ。誰にも見咎められずそこへたどり着けたのは、何かのご加護でも働いたのかもしれない。祝宴の客もとっくに出払ったようで、屋敷の中はすっかり灯が消えたように見えた。
俺はあたりを見渡し、かつて遊んだように、裏手から庭へと潜り込んだ。昔のことなのに俺の目星は異様に冴えていた。夫婦になったばかりの若旦那は、庭の離れ座敷にお住まいだろうと、思ったところにだけ灯りがついていた。この蒸し暑さのために雨戸も閉めず、燈の色が障子を透かして燃えていた。
「ああ……」
女の呻く声がして、俺は固くなった。最中だったのだ!
「おふく……おふく……」
銀次郎の声だ! 時がたち、大人の声になっていても、あいつの声は間違えようがなかった。俺はいっそう足音に注意して、離れへ忍び寄った。俺は、俺の人生の中で、一番卑しい行為をしていると自覚していた。かつて、つまらぬ性のことで道を誤った俺は、あいつの睦言を盗み聞き、あいつが一匹の雄になって性に夢中になっている様を、存分に見届けようとしていたのだ。それが何の得にもならぬ、己の魂を無暗に堕落させる振る舞いだと知りながら、そのドス黒い欲求を押しとどめることは出来なかった。
「銀次郎様、そんな……」
「おふく、次はこうだ。このような姿勢で……」
二人の声は燃えきっていた。きっとこの夜の間に、何度も、何度も、繰り返しある事をやった後なのだろう。あの銀次郎が――。他の事なら俺たちと一緒に悪ふざけをして遊んでいたのに、女の事となると一番腰が引けていた銀次郎が。
「あれ! そのような」
おふくが辺り憚らぬ高音をあげて、俺は一瞬自分のことが悟られたのかと緊張した。しかし、すぐにそうではないことがわかった。銀次郎の、汗に濡れた声がおふくを窘め、何やら小声でささやいている。
「頼む。どうしても、この格好でしてみたいのだ」
「そんな、そんな、はしたない真似を……」
「後生だ、おふく。一度きりでいい、頼む。」
「けれど、あまりに恥ずかしゅうございます。こんな……逆さで……犬のように……」
あの絵だ! 銀次郎は、あの春本の真似をさせようとしているのだ。
俺は愕然とした。銀次郎はあの絵を見ていたのだ。無論、当時の銀次郎があんな本を持っているわけはないから、あの本を寺子屋に置いたのは年長生の誰かだろう。しかし、銀次郎はそれを見た。典見先生と共にあいつが現れた時、あいつは俺に憐みの目をくれながら、同時に机の上の本も見ていた。あの時だ。銀次郎はあの一瞬、俺と同じものを見て、俺と同じ後ろ暗い情欲を抱いたのだ。あれから十四年の間。俺が忘れ難かったように、銀次郎の中にも、あの絵が焼き付いて離れていなかったのだ。
「おふく。おふく。頼む。この通りだ。一度でもそうしてくれたら、俺は生涯お前の言う通りにするから……」
俺は音もなくそこを離れた。もう十分だった。
だから銀次郎の願いが聞き届けられたかどうか、それは知らない。
帰り道には少し風が出ていた。足元に転がる涼やかな風だった。家への夜道を急ぎながら、とことんまで堕ちるつもりだった俺の心は、どこか救われていた。
――俺と銀次郎は、やっぱり一緒だったのだ。
その一事が何よりの慰みで、満たされていた。
「銀次郎。愛い奴」
二階の布団へ潜り込みながら、俺はようやく、あいつのことを心から祝福してやれるような気がした。そして、明日からの我が身の事も、ちょっとばかし真剣に考えながら、とろとろと眠りについたものだった。
慰み 狸汁ぺろり @tanukijiru
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