終章3節

「俺はあの時、カイルワーンがどんな気持ちでアイラシェールを見送ったのか、よく判った。あいつはどんなにあの子を逝かせたくなかっただろう。死なないでほしい、一緒に逃げようとどれほど言いたかったんだろう。だがそれでも、言えないんだ。行かせてやるしかなかったんだ。その気持ちが、あの時になって、やっと判った……」

 悔恨と自嘲をない交ぜにし、語るカティスに、ベリンダは胸が詰まった。

 痛い。胸が、痛い。

 それは同情ではない。共感だ。

 たった一人の大切な人を同じように見送るしかなかった彼への――たった一人の人を同じように喪った彼への、深い深い共感。

 それが不遜なのだということは判っている。最低の娼婦である自分と、王である彼とはあまりにも隔たっている。

 それでも判る。自分には、痛いほどに判るのだ。

 アイラシェールの指輪――おそらくはカイルワーンが持っていたものを、最期のその時預かったのだろう。彼の形見とも言うべきそれを自分に譲ってくれたその優しさを、自分を探し続けてくれたその思いのわけを、ベリンダは考える。

 アイラシェールの指輪を、鎖に通してまで肌身離さず身につけていた彼。

 アイラシェールのことを――自分の滅ぼした、親友の恋人のことを、こんなにもいとおしそうに語る彼。

 その心の底にあるものを、ベリンダは悟った。

 彼は、独りだ。

 彼は孤独なのだ。

 人を羨む栄華を手に入れた英雄王は、本当はこんなにも孤独なのだ。

 運命を知った。そしてそれを分け合った友を見送った。独り残された彼はその重みを背負い、誰にその弱音を吐くこともできず、この王宮で戦い続けている。

 陛下万歳――。

 英雄に栄えあれ――。

 罪のない、そして無責任な声が耳に木霊した。その全てをベリンダは呪った。くそ食らえと思った。

 何も知らないくせに。

 何も知らないくせに、と――。

「今日はとにかく、ゆっくりしていくといい。城にはいたいだけいてもいいし、欲しいものがあれば何でも持っていけばいい」

 立ちあがり、促すカティスに従って立ち上がると、ベリンダは素直に礼を取った。

「ありがとうございます」

「今日はとても楽しかった。こんな風に、罵るでも蔑むでもなく、本当のアイラシェールのことを思い出して語れる相手と会えて、こんな風にカイルワーンのことを思い出せる相手と話せて、とても嬉しかった。……本当に、嬉しかった」

 心から嬉しそうに語るカティスに、ベリンダはその心の底の寒さを思った。

 寒い、なんてここは、寒い。

 彼は親友と、その恋人のことを、懐かしむことさえできないのだ。

 ただ一人の人間としての親友とその恋人のことを、心を開いて対等に懐かしむ相手すら、いないのだ。

 それはどれほど辛いだろう。それはどれほど寂しいだろう。

 だから彼女は、心から――己の痛みの全てを込めて、告げた。

「私は今日いただけたものだけで――この思いだけで、十分です。私はあなたからいただいたこの思いだけで、この先も生きていけます。それだけの思いを、あなたは私に下さいました」

「ベリンダ……」

「だから、その感謝の全てを込めて、お祈りいたします。あなたのその心が、どうか慰められますことを。この冷たいところで、たった独りで運命を背負って戦い続けるあなたの心に、どうぞ安らぎがもたらされますことを」

 カティスは、目を見張ってベリンダを見つめていた。跪いて己の孤独を思う女性を、瞠目して見つめ続け、やがて。

 立ち上がった彼女を、その腕の中に捕らえた。

「カティス……陛下……何を」

 抱きしめられて、その腕が、体が震えているのが判った。広い胸に閉じ込められ、息も詰まりそうになりながら、ベリンダはやがてかすれた声を聞く。

「お前の名は、なんだ?」

 問いかけの意味を、ベリンダは掴みかねた。

「ですから、ベリンダと……」

「そうじゃない。お前の真実の名だ」

 その言葉に、ベリンダは一瞬息ができなかった。貧民出の傭兵であった彼が、その意味を知らないはずがないのに。

 彼は王だというのに、何を言うのだ。

「あなたは娼婦に真実の名を尋ねることが、何を意味するのか、判っておられないのですか!」

「判ってるさ。だから問うたんだ」

 腕の力をゆるめて、カティスはベリンダを見た。その緑の瞳に浮かぶのが本気なのだと悟って、ベリンダはわななく唇で問いかける。

「それでは私を、本気で側妾にされるおつもりですか? 見るからに混血だと判る、娼婦の私を!」

「妾にするのならば、真実の名なんていらない。仮名かりなのままで十分だ。真実の名を問うということは、そういうことだろう?」

 真実の名を問うことは、身請けの印。仮の名を与えられ、人としての道を外した者を正道に、日の当たる場所に連れ戻すということ。それだけの地位を与えるということ。

 それを王であるカティスがやるということは、意味することは一つ。

「私に王妃の位を与えると……本気で、仰っておられる?」

「傭兵だって、最低の生業だ。価値のない、使い捨てられるだけの駒だ。俺はそこから王になった。だったら王妃が娼婦から現れてもいいだろう? ちょうどいい。釣り合いもとれているというものじゃないのか?」

 皮肉げに語り、だが視線と声を落として、カティスは言った。

「我が儘だってことは判っているんだ。そうすれば、お前にも多大な負担をかけることも――苦しい思いをさせることも。だがそれでも、俺の我が儘を聞いてくれないか?」

 すぐ近くにある顔が、愁いと疲れを混ぜて、切なげに歪んだ。それを見て取って、ベリンダの胸は軋んだ。

「正妻と愛人がいれば、どんなに綺麗な建前があったとしても、必ずどちらも傷つく。俺にはその傷を、痛みを負えない。国益のために、義務のためにと大層な身分の女性をこんな俺に嫁がせるのも嫌だったし、分かり合えない女性と一生を過ごしていく自信もなかった。だからここまでずるずると来て……だけど、確信した。カイルが言い残した俺の妻は、お前に違いないと。そう思うのは、俺の思い上がりだろうか?」

 真摯に語るカティスに、ベリンダは揺らぐ。その惑う瞳に、カティスは力を込めて伝えた。

「全力で守る。だから、そばにいてくれないか。そばにいて、俺を支えてくれないか。お願いだ」

 暖かい腕の中で、ベリンダは小さな吐息をもらした。

 彼女はこの時、自分の運命を知った。

 何のために自分がアイラシェールと出会ったのか。

 なぜ運命の存在を知り、変えられないことに苦しみ、彼女を見送らなければならなかったのか。

 その全ては、この目の前の人のためだ。

 自分は、この目の前の人とその苦痛を分け合うために、彼と分かり合うために、生まれてきたのだ。

 それは愛とは呼ばないのかもしれない。それはただお互いの傷を舐め合うだけかもしれない。だが、それでもいいと思った。

 彼の妻となり、彼の子を産む。そしてその子はやがて王となり、アイラシェールにつながっていく。その皮肉――その必然。

 それもまた運命なのだ。

 受け入れることしか、できないのだろう。

 だから彼女は、静かにカティスの腕を解くと、跪いた。

 それは定められた儀式――決して自分にあるなどとは思っていなかった、誓願の言葉。

「私の、父母から与えられた真実の名をお預けいたします」

 琥珀の瞳が、愛しい人を見上げた。

「マリーシア・グレイスランドと申します。私を地の底から掬い上げてくださる方、あなたはどなたでいらっしゃいますか。よろしければ、あなたの御名を私にお預けください」

「カティス・ロクサーヌ。どこの誰の子かも判らない、私生児の……ただの、カティスだ」

 緑の瞳が、慈愛を込めて、救いを求めて、見下ろされた。

 ベリンダ――否、マリーシアは立ち上がると、その身をカティスに委ねた。長くしなやかな腕は首に絡みつき、カティスの腕もまたそれに応えた。

 ひどく臆病な、だが真摯な口づけに、マリーシアは目を閉じた。

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