9章15節

 魔女の親衛隊、と後に罵られることになる緋焔騎士団。彼らが後の世でいかに悪しざまに言われたとしても、少なくとも主君であるアレックス侯妃に対して忠義に篤かったことは、残るかもしれない。そうアイラシェールは、ぼんやりと思った。

 己の破滅である選択を下した彼女を、ほとんどの団員が見捨てはしなかった。さすがに皆無とはいかなかったが、団長、副長以下、主だった者たちは皆城に残り、アイラシェールを二つの意味で泣かせることになる。

 自分のために残ってくれたことを喜びながらも、その彼らがここに残ったために6月13日にことごとく死ぬのだと思えば、それもまた心の痛まぬことではあり得ない。

 そしてそれは、騎士団員だけではない。

「どうして逃げなかったの?」

 問いかけに、マリーは一言だけ答えた。

「当然です」

 庭から切ってきた花を活けながらの言葉に、アイラシェールは切なげに目を細めた。

 それでも、残った者の誰もが、未来を信じているわけではなかった。誰もが決して平静でいられはしなかった。表面上は平静を装いながらも、不意にたがが外れ、恐怖を隠しきれなくなる者、刹那的に、享楽的になる者、それぞれが様々な思いを抱え、そして。

 一つの覚悟を決めた者もいた。

「侯妃にお願いしたいことがありまして、参上しました」

 リワードは跪き、アイラシェールは見上げながら言った。

「どうしたのです? 改まって」

「私の、養家からの離籍をお許し願いたく存じます」

 それは、かたわらに控えていたマリーに、軽い悲鳴を上げさせた。

「リワード、そんな……」

「おそらく養父は、我らと袂を分かつ選択を下すでしょう。この縁組は、もはやどちらにも益となりません」

 本当はリワードは、これ以上養父に迷惑をかけたくない、と言いたいのだと、アイラシェールは悟った。けれどもそれは口にできない――自ら負けを認める言葉を、副長である彼が口にすることは、決して許されない。

 そんな彼の内心を慮り、アイラシェールは告げる。

「許します。そして、貴方の生家の再興もまた」

「侯妃……」

「現状では、領地も爵位も返してあげることはできません。ですが、貴方が己の生家を誇りにし、その名にかけて戦いたいというのならば、今この時から、旧姓を名乗りなさい」

「ありがとう、ございます……」

 感極まったように声を詰まらせ、リワードは謝意を口にする。

「必ず侯妃のご厚情に報いられますよう……イントリーグの名にかけて」

 その一言は、アイラシェールを凍りつかせて余りあった。

「え」

 礼儀も体面もかなぐり捨てて呟いてしまった一言が、彼女の内心をよく表していた。

「……侯妃?」

 突然態度を激変させた主君に、マリーが訝しんで問いかける。と、その腕を、細い指が掴んだ。

 その目は、ひどく切迫していた。

「……マリー、貴方、もしかしたら私に、一度も正しく本名を名乗っていないのではなくて?」

「……そうでしたでしょうか?」

「そりゃあ、私だって正式な名は長いから、ほとんど名乗ったことはないけれども……お願い。一字も略せず、貴方の名前を私に教えてちょうだい」

 鬼気せまる勢いで問うアイラシェールが、はっと気づいて手を放すと、事の展開が読めないマリーはそれでも裾を捌き、礼を取ると告げた。

「今まで大変な失礼をしていたことに気づかず、申し訳ございませんでした。私はマリアンデール・マリネット・フランチェスカと申します。お見知り置きくだされば幸いです」

 予想していた答えは、予想以上にアイラシェールを叩きのめした。手にしていた扇を落とし、それを拾おうともせず、アイラシェールはひたすら目の前のマリー――否、マリアンデールとリワードを凝視する。

 それは、あまりの運命の皮肉だった。

 この子なんだ――脳裏にこだました言葉は、ただ一つ。

 脳裏に甦るのは、城下に翻った青い薔薇の旗。魔女の呪いを楯に民を煽動し、城を攻め滅ぼし、彼女の大切な人たちをことごとく殺した者たち。その彼らが掲げたもの――その思想の根幹。それを作った者が、今目の前にいる。

 マリアンデール・イントリーグ――人の自由と平等を説き、王政に異を唱え、その結果カティス王やマリーシア王妃、ステフィ王の施政とぶつかりながらも、その思想を闇に葬られることなく後の世に残した、早すぎた思想家。その突出した思想と、行動と気性の激しさから、敬意と揶揄を持って『炎のマリア』と呼ばれる女性。

 かたかた、と手が震えた。あどけない眼差しで、自分を見上げてくる彼女に対して猛然と浮かび上がってくるのは、殺意。

 もし、ここでこの子を殺してしまえば――誘惑が、鎌首をもたげた。

 ここでこの子を殺してしまえば、歴史は変えられる。イントリーグ党が民を煽動することはなく、ロクサーヌ朝が滅ぶこともなく、父王も誰も死ぬことはない――。

 この子がいなければ、この子がいなくなってしまえば、それで――。

 どくん、どくんと、高鳴る鼓動が耳の奥で響く。

 無意識のうちに、手が腰の方に動く。膨らんだ裾、護身用の懐剣が忍ばせてある場所。

 それを握り、目の前にいるこの子を突き刺したら、どうなるだろう。

 目の前に、血潮の赤い色が広がる。一突きに喉を貫けば、それだけで全てが終わる。

 それだけで、何もかもが終わる――。

「侯妃……侯妃!」

 切迫した声に、アイラシェールははっと我に返った。すると目には、気づかわしげにたたずむリワードが見える。

「どうかなさいましたか……? ひどい顔色をしておられます」

「ああ……ああ、何でもないの。ごめんなさい」

 無理に平静を装うにも、限度があった。無理に笑みの形を作ると、アイラシェールは告げた。

 今、自分は、何を考えていた?

「少し気分が悪くなったみたい……独りにしてもらえないかしら」

 釈然としない気分を抱えつつも、その言葉にリワードとマリーは連れ立って辞去する。部屋に独り残されたアイラシェールは、やがて荒い息を吐き出すと、椅子にずるずるともたれかかった。

「はは……あははっ」

 少しずつ少しずつこみ上げてきたものが、ついに堰を切る。上がった己の声に、堪えきれずにアイラシェールは嗤い出した。

 嗤わずにはいられなかった。

「あははははははっ! あーははははっ!」

 この期に及んで、自分は何を考えていたのだろう? 何を身勝手なことを考えていたのだというのだろう。

 死によって歴史を変えようというのならば、自分が死ねばいいのだ。それなのに、それさえもできなかった自分が、他人を殺して歴史を変えようだなんて、なんて身勝手なことを考えたのだろう。

「馬鹿みたい……なんて馬鹿みたい」

 呼吸さえもままならないほど嗤い続けたアイラシェールは、やがて酸欠に霞む意識の中で、ぼんやりと思った。

 卵が先か鶏が先か――運命のことを考える時に、いつもアイラシェールの脳裏に閃く言葉。因果のどちらが先だったのだろうか、と、いつも皮肉に思うことが、また彼女の脳裏を明滅する。

 自分とマリー。その思想を紡いだのは、一体どっちだったのだ。統一歴1200年代に、彼女の記した『自由論』に感銘を受けた自分と、そんな自分に薫陶を受けた彼女と。果たしてどっちが師で、どっちが弟子だったのか。先に生まれたのは、卵だったのか鶏だったのだろうか。

 それは決して、答えの出ない問いかけ。

 そんなこと、本当はどうだっていい――深いため息と共に、アイラシェールは投げやりに思った。自分がここにいて、そして彼女もまたここにいる。ただ意味があるのはそのことだけで、それを変えることも、お互いの運命をどうすることもまたできはしないのだ。

 そう、誰しもに変えられない運命がある。アイラシェールは思った。自分に変えられないこの運命があるように、マリーには思想家マリアンデールとしての、リワードにはおそらく彼女を支える者としての、そしてフィリスには緋焔騎士団長としてカティス王に破れる者としての運命が、そして役割がある。

 ここにいる全ての者に運命があり、誰もが歴史に操られる駒なのだ。

 そしてそれは、ここにいる者だけではない。おそらくこの世に存在する全ての人間、誰しもがそうなのだ。

 だが、そうだとしたら――アイラシェールは、己の犯した罪を思いめぐらせる。

 そうだとしたら、何の罪もなく焼き殺された、サンブレストの村人たちの運命とは、一体なんだったのか。この飢饉で飢えて死んでいった者たちの運命は、育つこともできずに死んでいった赤子たちの運命は、親に売られ、春をひさぎながらわずかな糧を得て命をつないでいる娘たちの運命は。

 その人生の意味は、その人生の価値は、一体なんだ。

 不意にたどり着いた疑念は、アイラシェールに戦慄を感じさせた。

 自分の人生が、運命が辛かった。もう沢山だと思った。こんな人生など、もう終わりにしてしまえと――だけど。

 だけど、自分だけが辛いのか。自分だけが苦しいのか。自分の運命だけが呪わしく、不幸に満ちているのか。

 自分の運命だけが、変えられないという悲劇を背負っているのか。

「馬鹿みたい……本当に、馬鹿みたい」

 先程と同じ言葉を、違う感慨を持ってアイラシェールは呟いた。椅子に全身を預け、天井を見上げながら、不思議に落ち着いた気持ちになった。

 こんな簡単なことに、今の今まで気づかなかったなんて、本当に馬鹿だ。

 確かに生きていくことが辛かった。それは偽りのないこと。

 だが、自分は特別ではない。自分は決して、特別ではないのだ。

 誰もが変えられない運命の中で生きている。誰もが自分ではどうにもならない制限の中で、本当は何一つ選ぶこともできずに生きている。

 それは誰だって辛いのだ。

 誰にとっても、生きるということは、こんなにも辛いのだ――。

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