5章4節

 あのエルマラに叱責され、カイルワーンが自分のことを語った夜以来、カティスは真面目に考えざるを得なくなった。

 これから一体、カイルワーンとどうつきあっていくのか、ということを。

 エルマラの言ったとおり、もはや自分が世話を焼く必要はないのだろう。レーゲンスベルグの街中に彼を慕い、助ける人間はあふれている。もう右も左も判らぬ迷い子ではない。

 もはや自分が偉ぶる拠り所は存在しない。

 だからといってそれに悲観したり、苛立ち荒れていても何も始まらないこともまた、彼女の告げたとおりだ。

 だが、それならば自分は何をしたらいいのだろう。何ができるのだろう。

 自分はカイルワーンのそばにいたいのか、否か。

 彼の心が、知りたいのか、否か。

 そんなことを考えていた十一月半ばのある日のことだった。いつものように朝目覚めて、隣家の扉を叩くと、カティスはひどく切迫した表情に迎えられた。

 カイルワーンの身なりは、明かに旅装だ。

「アルベルティーヌへ行く」

 カイルワーンの言葉と表情に、カティスはただ事ではない気配を感じた。

 だから、努めて冷静に、ことさら気負わない口調で告げた。

「道中、何が起こるか判らない。どうだ、傭兵を雇わないか?」

 カティスの言葉に、カイルワーンの厳しい表情がふと緩んだ。唇の端を歪めて笑い、そして答える。

「三食付路銀こっち持ち――それ以上出ないぞ」

「上等上等」

 かくして二人は、連れ立ってアルベルティーヌへと出立した。

 アルベルティーヌとレーゲンスベルグを結ぶ交通手段は二つ。水運のセミプレナ運河と、陸運のセミプレナ街道である。水運は大量の荷を運ぶのに適しているが、河口近くの緩やかな流れでは船足は遅く、特にレーゲンスベルグからでは川の流れに逆行する。カティスとカイルワーンは陸路を選択した。

 陸路を選択すれば、この二都市の間は健脚の者で徒歩一日。だがカイルワーンは辻馬車を拾う。他に客のいない荷台の中で揺られ、しばらくたった後、とうとうカティスが切り出した。

「何があった? そろそろ話してくれてもいいんじゃないか?」

 カティスの問いかけに、カイルワーンは少し迷った後、答えた。

「昨日、フロリックさんのところに行ったんだよ。ちょうどアルベルティーヌから戻ってきたというから、月一の約束を果たしに」

 フロリックは商用で、頻繁にアルベルティーヌとレーゲンスベルグを往復している。だから彼がアルベルティーヌから戻ってくるという事態はさして珍しいことではないのだが、問題となるのは、帰ってくるなり呼びつけられたということだ。

「あんまり急だったから、そんなにアルベルティーヌの飯がまずかったのだろうかと思ったんだけど、そうじゃなかった。あの人は、僕が頼んでいた情報を入手してくれていたんだ」

「アイラシェールのことか?」

 カティスの当然の問いかけに、カイルワーンはただ頷く。

「アルベルティーヌの上流階級で、最近――九月初旬に宮廷に上がった女官のことが、噂になっていたそうだ。楽才が認められ、瞬く間に王の側近くに仕えるようになったそうなんだが、その女官が、白い髪と赤い目をしていると……」

 言葉尻がどんどん震えていくのを感じて、カティスはカイルワーンの顔を見た。ただでさえ白い顔は血の気を失い、膝の上で握りしめられた拳が小刻みに震えている。

「アイラシェールに、間違いないのか?」

「……判らない。だけど、アイラの楽器の腕前も、相当のものだった。僕たちの養母が音楽が得意で、アイラも彼女の手ほどきを受けてかなり沢山の楽器をこなせた」

 目を閉じれば、あの音色がまざまざと耳に甦ってくる。自分はアイラシェールのヴァイオリンを聞くのが、本当に好きだった。そして楽器を演奏している彼女の、心から楽しそうな、幸せそうな顔を見ているのが、本当に本当に好きだった。

 もし幸福というものがこの世にあるのならば、紛れもなくあの一瞬のことをいうのだろうと、そう思えてしまえるほどの。

「アルベルティーヌだけは――王城だけは、あってほしくないと思っていたのに……」

 カイルワーンはかすれた声で呟く。ここまで動揺し、悄然としている彼を見たのはカティスであっても初めてで、それは驚きを隠せない。

 だが彼の言葉に、その過剰な反応に、カティスは引っかかりを覚えた。それは、この半年間に感じていた疑問に合致していて。

「前からお前は、アルベルティーヌにこだわっていたな」

 カティスの問いかけに、カイルワーンは顔を上げる。言葉の意味が呑み込めないとばかりに自分の顔を見つめるカイルワーンに、カティスは続けた。

「この半年間、お前はしょっちゅうアルベルティーヌに行っていたな。まあ確かにアルベルティーヌは首都で、この国で最も人が集まるところだ。可能性は高いけれども、それでもアイラシェールがアルベルティーヌに来るという保証はどこにもない」

「カティス、君は何が言いたいんだ?」

「お前はアイラシェールが、アルベルティーヌに現れるという心当たりが、あったんじゃないか?」

 カティスの言葉はまさに図星で、カイルワーンは顔に手を当て、うなだれた。しばらく苦悶するように、顔をしかめて考え込み――どう答えるか逡巡し、やがて口を開く。

「確かに僕は、アイラシェールがアルベルティーヌに現れるんじゃないかと思っていた。でも、僕はそれを認めたくなかった。外れてほしかった。今でも、噂の女官がアイラじゃなければいいと、心の底から願っている。だけど、多分そうじゃない……どれほど僕が現実を拒んだとしても、何も変わりはしないんだろう」

 カイルワーンは、本当は判っていたのだ。現実から目をそむけず、逃げ出さず、自分はアルベルティーヌで彼女を待っているべきだったと。

 けれども自分は、認めることが恐かった。直視することから逃げた。

「このまま僕が考えている通りに事態が推移していけば、この後待っているのは、悲劇だ。それが判っていたから――」

「……それが判っているのなら、どうして逃げた」

 厳しい声音で叱責するカティスに、カイルワーンは目を細めた。

 一体何をどう言って、どう伝えれば判ってもらえるのか。

 いや、そもそも、自分が判ってもらいたいのか。それすら判らないけれども。

「判っているのなら、どうしてそれを未然に防ごうとしない」

 荒く自分を責める声に、カイルワーンはそっと触れる。

「なあ、カティス。君は運命を信じるか?」

「カイルワーン」

「はぐらかしているわけじゃない。できれば怒らずに聞いてほしい。僕はここに来て、君に出会って以来、ずっとそのことを考えていた」

 切なそうな、苦しそうな声が、カイルワーンが認めたくなかったただ一つの絶望の言葉を紡ぐ。

「もしかしたら、人間の一生は――運命は、全て決まっているんじゃないだろうか」

 冷たく重い沈黙が、荷馬車の中に満ちた。真っ直ぐに自分を見て、そう言ったカイルワーンに、カティスはやがて暗い目をして問いかける。

 それはカイルワーンにだけはかいま見せる、あのカティスの本性だ。

「嫌な、言葉だ」

「うん。僕だって、心の底からそう思っている。だけど同時に思うんだ。『未来には無限の可能性がある』って、よく言うだろう? あれは本当なのか?」

 本当に、人間は白紙で生まれてくるのか。

 本当に、人間は自由なのか。

「僕たちの目の前に、本当に無限の選択肢は広がっているのか? そんなの嘘だ。人間には――僕たちの目の前には、本当に限られた道しか存在していない。無限に選べるように見えて、実はそれはまやかしだ。選べやしないんだよ。選べたのならば、君は傭兵になんかなってなかった」

 違うか? そう問いかけたカイルワーンに、カティスは返す言葉がない。

 自分に違う人生があったのではないか――戦場で、自ら殺した敵の死骸を見下ろす時、心をよぎること。

 人殺しなんかしなくても、生きていく道があったのではないかと。

 もし、もう少し自分が裕福な家に生まれついていたのなら。

 もし、母が実家の援助を拒まなければ。

 もし、自分に父親がいてくれたら――。

 そしてその仮定は、考えれば考えるほどに、詮のない夢想だ。

 どれほど足掻いても、どれほど努力しようとも、決して変えることなどできない現実。

「人間は――僕たちは、親を、生まれつく環境を、選ぶことなんてできない。僕があの両親から生まれてきたことは――ルオーシュとグレンドーラの子供として生まれてきたことは、僕が選んだことでも望んだことでもない。だけどそれは、変えられないことだ。どんなに否定しても、たとえ忘れることができたとしても、変えることはできない」

 吐くように、カイルワーンは両親の名を口にした。そしてその声音から、口調から、カティスは薄々察していたことの確信を得る。

 カイルワーンは、己の両親を、疎んじている。

「僕はあの父について、医学を学んだ。それはアイラただ一人を診れればいい、ただそれだけの気持ちだった。だけど僕はレーゲンスベルグに来て、多くの患者を診察する羽目になった。生きていくのには金がいる――稼がなければ食っていけない。選択肢は、ない。アイラを探すには権力が必要だった。だからフロリックさんと誼を通じたいと思った。目の前では、世話になったセプタードが窮地に陥っている。自分の考える方法で、切り抜けられ一挙両得で事態を解決できそうだ。この事態の前に、僕の前に選択肢はあるのか? セプタードを見捨てればよかったのか? そんなこと、できるわけないだろう」

「カイルワーン……?」

「僕の目の前に、選択肢はあったのか? 僕は何かを選ぶことはできたのか? もしかしたら人間の一生に、選択肢なんてものはないのかもしれない。選べるものは、選んだものたった一つで、それはもう最初から、決まっていたのかもしれない……」

 冬に向かう暗い空を見上げ、カイルワーンは疲れの見える口調で言った。

 過去に来てから――カティスと出会った瞬間からずっと、考えていたことがあった。

 過去を――歴史を変えようという自分たちの願い、行動すらも、定められた歴史の通りだったのではないかと。

 アイラシェールはあの時思ったはずだ。時間を越えるという行為は、もしかしたら歴史を変えることになるのかもしれないと。時間を越えれば、もしかしたら歴史が変えられるのかもしれないと。だから彼女は時間を越えた。

 だが、もし彼女が『魔女』であるのならば、彼女が過去に来ることこそが正しい歴史の流れだった。

 『魔女』は預言者だった。未来を見通してみせた。それは『魔女』がアイラシェールであるのならば、当たり前のことだ。彼女にはこれから起こることが、全て判っているのだから。

 そして、『賢者』もまた同様だ。

 賢者はアルバ史上最高の軍師だ。彼の指揮した軍隊は無敗を誇り、彼の下した作戦や軍隊運用が誤ったことは一度もなかった。

 当たり前だ、とカイルワーンは思う。間違いようがないのだ。なぜなら賢者は――自分は、敵がどれくらいの戦力で、どのように布陣し、どの経路を選ぶのか、いつどんな行動に及ぶのか、何から何まで知っていたのだから。

 賢者は革命と、その後の三国戦争に関わる多くの事柄の記録を、実に詳細に残している。自分がどのように軍隊を運用し、どのように戦闘を進めていったか、どのように戦略拠点を攻略していったのか。それらの戦記は戦略・戦術書として、後のアルバ国軍の将官たちの教科書として用いられるようになったほどだ。

 カイルワーン自身もそれらを諳じられるほどに読み込んできたが、今となってはそのことがあまりにも皮肉と忌ま忌ましい必然に彩られていると思う。

『賢者は、宰相で軍師で医者で発明家で歴史家で料理家だけれども、もう一つだけ僕は肩書を加えたいと思う』

 そうアイラシェールに言ったのは、他ならぬ自分だった。

『賢者は、史上最高の博打打ちだ』

 彼の作戦は、実は凄まじく無鉄砲なのだ。敵軍に裏をかかれる可能性も省みず、戦力を集中させる。敵の布陣に最も適合した陣形を取り、敵が別の布陣を敷く可能性を考慮しない。

 つまり、敵が自分の予想を覆した行動に出た時のための保険を、一切かけない。ありとあらゆる状況に臨機応変に対応するための準備、ということをとことんしない。作戦は極端なもの一つだけで、それが全て見事なほどに当たるのだ。

 それはもう、博打と形容するほかないだろう。

 だがそれさえも、当たり前のことだと今のカイルワーンは思う。賽が一の目を出すのが判っているのに、六に金を賭ける馬鹿がどこの世界にいるだろう。

 賢者の真価は――その果たした役割の真価は、未来の知識や技術を持ってきたことではない。これから起こることを全て知っているということにあるのだ。

 歴史はすでに『未来人として過去を知る者』である『魔女』と『賢者』の存在を前提として、成り立っていたのだ。

 それを自覚すれば、決して認められない一つの恐ろしい仮定が、カイルワーンの心に浮かび上がる。

 それはすなわち。

 これから自分たちが『歴史を変えよう』と願い、そのために取る行動がそもそも、歴史に定められた通りなのではないか、ということ――。

 だとしたら、決して歴史は変えられない。

 だとしたら、自分たちの一生は――運命は、すでに、全て決まっている。

 歴史が定めたとおりに。

「僕はそのことを――自分の運命が全て決まっていることを、認めたくなかった。アイラが王城に現れるということは、事態が運命の通りに流れていくことを信じ、認めることだ。だから……できなかった。僕は信じたくなかった。認めたくなかった。運命なんてものが、この世に存在することを」

 手のひらに爪が刺さりそうなほど拳を握りしめ、カイルワーンはカティスに向かって、最初の悲鳴を上げた。

「僕は……歴史を定め通りに進めていくための、り人形なんだろうか……」

 カティスはカイルワーンの泣き出しそうな顔を見つめながら、ひどく困惑していた。

 カイルワーンの言うことは、実のところさっぱり判らなかった。それはおそらく、カイルワーンが根本的な事情を語っていないからに違いない。

 そう。カイルワーンの語る言葉を信じれば、当然一つの仮定が湧き上がってくる。だがそれは、あまりにも非現実で、カティスはそれを内心で一笑に伏すしかない。

 到底口にできるものではない。

 ――お前は、自分の運命がもう全部、判っているのか、なんて。

 そうして半日馬車に揺られ、アルベルティーヌに辿り着いたのが夕暮れ前。大門を潜り、そこで馬車を降りた二人は、何とはなしにざわめく街に違和感を覚える。

「祭か?」

「一体何の。収穫祭も終わって、新年まで祭なんてあるはずないのに」

 街は清められ、趣向を凝らした飾りつけが施され、さながら祭のように浮かれさざめいている。訝しんだ二人は、露店の主人に声をかけた。

「一体何の騒ぎだ」

「知らないのか?」

「今着いたばかりなんだ。何かの祝いでもあるのか?」

 問いかける二人に、露店の主人は笑って言った。

「つい昨日かね、王様が新しいお妃を迎えるというお触れを出されてね。何かと明るくないご時世だろう? 女官出の幸運なお妃にあやかろうと、祝祭としゃれこんでいるわけさ」

 カティスはその時とっさに、カイルワーンの顔を見た。案の定カイルワーンは蒼白になっていた。

 震える唇が、それでも問いかける。

「まさかその新しい妃というのは……王付きの楽士の」

「よく知ってるねえ」

 皆まで聞かず、ふらりと影が動いた。おぼつかない足取りでそこから離れたカイルワーンを追い、カティスが肩を掴む。

「カイルワーン、しっかりしろ、おい!」

 両肩を掴んで自分の方を向かせると、血の気を失った顔が、頼りなく歪む。

「僕は……どうしたらいい……」

「カイルワーン!」

「どうしたら運命は変えられるんだ。どうしたら、アイラを救えるんだ。どうしたら、僕は……アイラを……」

 震える体を押さえつけ、カティスは耳もとでカイルワーンの微かなうわ言を聞く。

 その声は本当に微かで、だからカティスは最後の言葉を、聞き違えたと思った。

 聞き違いだと、思うことにした。

 けれどもカイルワーンは、そう言ったように思えた。



 ――どうしたら、僕は、アイラを、殺しにいかずにすむんだ――と……。

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