5章3節

 独り歩きは嫌いだ。カティスは家路を辿りながら、そう思った。

 歩くこと以外にすることがないと、どうしても考えが暗い方へと沈んでいく。

 思い出したくないことも思い出す。

『あいつ私生児なんだって』

『シセージってなに?』

『よくわかんないけど、母さんが言ってた』

『お父さんがいないんだよね』

『お母さんがよくないことをしたから、だからいないんでしょ』

『知ってる。結婚しないで、よその男の人と作った子どもなんでしょ』

 今さら傷つくこともない。そう思っていたけれども、脳裏に甦ってくる言葉はやはり小さな針の痛みを伴っている。

 ぶつけられた石の痛みも、小さな子どもたちの嘲笑も、今もって鮮やかだ。

 そう、自分は自分で思い込もうとしているほどに、強くはない。

 狭い路地を辿り、我が家に帰り着くと、隣家はまだ明かりが灯っていた。カイルワーンが一人で暮らす家は、土間続きの厨房と書斎、寝室があり、明かりは奥の書斎の方から漏れている。

 先刻のエルマラの言葉が脳裏をよぎり、ためらわないでもなかった。だがそれでもカティスは思い切って、扉を叩いた。

 やがて鍵が外され、のぞいた顔は彼を見て微かに笑った。

「やっぱりカティスか」

「まだ起きていたんだな」

「荷物整理が終わらなくってね。薬やら何やら、色々いい物が仕入れられた」

 上がるか? という問いかけに応じて家に入ると、カイルワーンは棚から茶が入った壺を取り出してきた。

「飲むか?」

「お前は本当に酒飲まないな」

「ないことはないけど。飲む?」

「……ああ」

 カティスの言葉に、カイルワーンはカップに赤ワインを注いだ。そして自分には紅茶を淹れてくる。

 それぞれ一杯の飲み物を挟んでしばし沈黙が流れ、やがてカティスが口火を切った。

「あのさ、お前、エルマラのところに行ったんだって?」

「エルマラさん? ああ。あの人も君の馴染みなの?」

「その『も』って何だよ」

「花街歩けばカティスの女に当たるって、ここらじゃ有名だよ」

 その内実はといえば、とカティスは先ほどのエルマラの言葉を省みる。さてそれならば、自分の女なんて果たしているものか。

 確かに彼女の言うとおり、取り立てて好んでいる娼婦がいるわけではない。誰でもいいんだろう、と詰られたら、否定できないのは事実だ。

「具合はよさそうだった? 水飴はまだ残ってたか?」

「ああ。馳走になってきたよ」

「あんな細い体で、肉体労働は大変だ」

「肉体労働って……そりゃまあ、そうだけどさ」

 熱い紅茶をすするカイルワーンに、カティスは不意に問いかける。

「なあ、お前って、性欲ってものはないのか?」

 カティスの突然の言葉に、カイルワーンは口に含んでいた紅茶を吹き出しかけた。

「何を突然言い出すんだ、カティス!」

「エルマラに聞いた。ただで遊ばせてくれるって言うのを、断ってきたんだって?」

 カイルワーンはその言葉に、途端に渋い表情をした。ごまかしたり言い逃れできないと感じたのか、しばらく黙りこくり……やがて、観念したように白状する。

「そりゃあ僕にだって、性欲はあるよ。でも、だからって、それといざ行為に及ぼうということは、また別物だろう?」

 憮然としてカイルワーンは言い募り、ふと不安げに問いかけた。

「僕の言うことは、そんなにおかしいか?」

「いや、それも一つの考え方だとは思うけれども、欲は欲として存在するわけだろう? 辛くないのかとは聞きたくなる」

 カティスの言葉に、カイルワーンは考え込む仕草を見せた。それは心の琴線に触れたらしく、彼はカティスにとって思いもかけない言葉を紡いだ。

「そう……結局のところ、根本的な問題はやっぱりそこにあったんだろう。僕が男で、アイラが女だった。ただそのことに」

 小さくため息をついて、カイルワーンは言った。

「僕らがお互いを異性だと意識せずにすんだのなら、どんなにか楽だったろう。もしそれができていたら、こんなことにはならなかったんだろうか」

 苦渋と共に吐き出される言葉は、カティスにとってはあまりに意外だった。

「お前とアイラシェールは……恋人同士じゃなかったのか?」

「違うよ。僕はアイラの侍従だ。それ以上の何物でもない」

 カイルワーンの答えは苦痛に満ちていたが、それでも迷いがなかった。

 己の甘さをきっぱりと否定することに、かけらの迷いも存在しない。

「それじゃああんなにもお前がアイラシェールを探すのは、職務だからなのか? アイラシェールはお前の愛しい女じゃないのか」

「愛しいと思ってるさ。だからこそ……ある意味、事態はこじれたのかもしれない」

 今度は大仰なため息をつき、カイルワーンは言った。

「僕とアイラは、お互い以外の異性を知らない。いや、僕らの育ての親たちはいたけれども、意識できる異性としては、お互いしか存在していなかった。結局はそれこそが、問題だったのかな――選択の余地もないということが」

「それは、一体……」

「アイラは王宮の外れに立っていた塔に幽閉されていた。一生そこから出られず、他の人間の目に決して触れることは許されない定めだったから、彼女が孤独にならないよう陛下が僕をそこに送り込んだ――彼女に仕える侍従として」

 初めてカイルワーンが明かした身の上は、カティスを驚かせるに十分だった。

 宮仕えだったことは、確かに彼は話していた。けれどその内容は、カティスの華やかな想像とあまりにかけ離れていて。

「何で、そんな幽閉なんて……」

「予想がつかないか? アイラの外見はあまりにも異彩だ。僕の国では、白い髪と赤い目の女性は忌むべきものという偏見がはびこっていた。そのために、彼女は死産だったことにされた。彼女の存在は、隠されなければならなかった――だから、彼女は産まれてすぐ幽閉された。そうしなければ、恐れに駆られた誰かに殺されていたろう」

 殺されるほどの忌避。それを生む偏見。それは想像するに余りあり、カティスは背筋が寒くなる。

 そんなものにさらされたアイラシェールは、一体どんな思いをしたのだろう。どんな苦しみを味わったのだろう。

 偏見というものがどういうものなのか、カティスは誰よりも判っている。

「形は幽閉だったけれども、塔での生活そのものは平穏だったよ。食べるものも着るものも不自由しなかったし、何より僕たちを育ててくれた人がいい人だった。コーネリアは僕とアイラを区別も差別もしなかった。おかげで僕たちは、五歳と三歳の頃から兄妹のように育って――でも、兄妹のままではいられなかった。お互いを異性として自覚し始めれば、昔通り仲よしこよしというわけにはいかないよ」

 頭痛でも感じた時のように手のひらで頭を支え、カイルワーンはうなだれた。

 その横顔は、明かに悩み疲れていた。

「僕はアイラに何でもしてあげたかったし、そのためなら何をも――自分だって、犠牲にできると思った。でもその一方で、僕の中に欲望と呼ばれるものが存在したのも現実だ。彼女が欲しい――彼女の体が欲しいと思う気持ち。そんな僕の目の前で、アイラはどんどん女性の体になっていく。衝動が突き上げてきて、押し倒したい、無理矢理でもいいから抱いてしまおうかと思ったことは、一度や二度じゃない。はっきり言って……辛かった」

「……我慢しないで、押し倒しちまった方がよかったんじゃないのか」

 少しばかりの呆れを込めて言ったカティスに、カイルワーンは怒らなかった。

「そうかもしれない。今となっては、どうすることが最善だったやらと思うよ。けれどもその時の僕は、恐かった。現状を壊すのが、恐かったんだ。彼女に拒まれることが、恐かった――受け入れられる自信なんて、これっぽっちもなかったから」

 自分と彼女の関係とは一体何なのか――何だったのか。カイルワーンは昔も今も、そのことをよく考える。

 王女と侍従だったのか。兄と妹だったのか。それとも幼なじみとか、異性の親友とか、色々な候補が浮かんでくるけれども、いま一つぴたりと当てはまる回答はない。

 ただ、あの時、自分たちが『愛し合う男女』ではなかったことだけは、確かだ。

「結局、僕には愛されてもいない相手を抱けるほどの度胸はないんだろう」

 くつくつと洩れる自嘲に満ちた苦笑と言葉は、娼館の誘いを断った心理を雄弁に表していた。

「だけど、限界だった。あれ以上、二人であの狭い空間に閉じこもっているのは無理だった。だから、なけなしの勇気を振り絞って求婚した」

「ほう」

 意外な言葉にカティスが声を上げると、カイルワーンは天井を仰ぐ。

「でも二度求婚して、二度とも振られた。二回目には、見事なまでに手を振りきって逃げられた」

「それはつまり……」

「僕とアイラがはぐれたのは、アイラが僕から逃げ出したからなんだよ。だから見失った――前にも言ったとおり、その直後から、山の中で君に拾われるまでの時間の空白に、何があったのかは全然判ってないんだけど」

 天を仰ぐカイルワーンは、うなだれているのではないのに、ひどく悄然としているように見えて、カティスは見ているだけで切ない。

「アイラが言うには、僕の思いは誤解なんだそうだ。子どもの頃から一緒にいて、お互いの他の誰も知らず、他の誰も選ぶことはできなかったから、好きだと思い込んでいるだけなんだと。もう目を覚まして現実を見ろと――さすがにこたえた。僕は彼女にとって、そういう存在だったらしい。塔に送り込まれたのが僕だったから、ただ共に暮らすよう定められたから、十四年、一緒にいただけだったらしい」

「そ、んな……」

「だから僕は言うんだ。僕たちは恋人同士なんかじゃない。僕はアイラの侍従だ。それ以上の、何物でも、ない」

 繰り返した言葉は、明らかなほどに自嘲に満ちていた。

「そもそもの間違いは、僕が身の程知らずな願いを抱いたことだったのかもしれない。侍従風情が、王族に恋情を抱くなんて、思い上がりもはなはだしい。……もし、僕が求婚なんてことはせずに、ただ彼女にこのまま仕えさせてくれと言ったのなら、彼女は僕を側に置き続けてくれただろうか……」

 カイルワーンの言葉はあまりにも卑屈で、それはカティスの知る彼とはあまりにも違う。

 自信満々で、できないことなど何もないと言わんばかりに見える彼にも、こんな卑屈が存在する。

 そう。エルマラが告げたとおり、自分はカイルワーンの外側の鎧しか見ていなかった。そのことを、カティスは痛いほど実感させられた。

「それでも、アイラシェールを探しつづけるのか……?」

「醜い男の未練なんだってことは、判っているんだ。会って、それでどうするんだって言われたら、返す言葉がないよ。それでも、僕はもう一度アイラに会いたい。会って、確かめなければならないことがある」

「それは」

「ごめん、カティス。それはまだ今は、言えない。確かめる前に口にすれば、君の負担にもなる。確かめるまでは――待って」

 逃げることもごまかすこともなく、カイルワーンは謝った。そう言われればそれ以上追及はできない。これ以上カイルワーンを追いつめることは、カティスとてできない。

 自分もまた、胸のうちの全てを彼に明かせぬのと同じように。

 だが。

「その代わり、一つ聞いていいか? カイルワーン」

「なんだ?」

「どうして、お前はそれほどまでにアイラシェールが愛しいと思うんだ。どうしてそこまで言われても、アイラシェールでなければならないんだ? 彼女が言ったとおり、それは誤解ではないのか?」

 カティスの問いかけは、カイルワーンの心の奥底に封じたものに触れるものだった。だからこそしばらく黙り、やがてぽつりと呟いた。

「アイラがいなければ、僕は今頃、生きてはいなかった」

 切なげな、寂しげな目が、カティスと遠い過去を見た。

「アイラに出会わなかったら、僕は生きることに絶望してとうに首をくくってたろう」

 あまりにも衝撃的な言葉に、一瞬カティスは息を呑み、そしてようよう問いかけた。

「……どう、して」

 鎧の下から一瞬のぞいた心は、深淵の暗闇を映す。

 そこにはただ深い、絶望がある。

「僕は誰かに、生きていてもいいんだと、そう言ってほしかったんだ」

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