4章8節

 翌日から始まった女官としての研修は、実に多岐に渡り、アイラシェールは目まぐるしい毎日を送ることとなった。

 無論、作法や礼法、立ち居振る舞いといったことは今さら習うに及ばなかった。コーネリアから厳しくしつけられたそれがこの時代でも通用することは、侯爵夫人リフランヌの教育課程で確かめられた――というより、この時代の作法はアイラシェールの時代より粗野で、アイラシェールが普通に暮らせばそれで事足りた。

 けれども宮廷内の組織構造や人間関係など、知らないこと、頭の中に入れなくてはならないことは実に多様にあり、毎日が勉強――暗記の連続だった。

 その中でも最も重要かつアイラシェールを悩ませたのが、アルベルティーヌ城の構造把握であった。

「……もしかして、また迷った?」

 王城に上がって一週間。アイラシェールは毎日のように道を間違えては迷い、知らないところに出ては、通りかかった人に助けられていた。

 生まれてから十七年、外を歩いたことがろくにないアイラシェールには、方向感覚というものがまるでない。下手をすれば小さな街よりも大きく複雑であるこの城は、迷宮に等しく思えた。

「この青い柱は見覚えがあるけれども……こっちだったかな」

 独り言を呟いて角を曲がると、アイラシェールには見覚えのない場所に出た。

「わぁ……」

 感嘆に、思わず声を上げる。

 そこは広い回廊だった。壁には絵が並び、回廊の中央には磁器や宝飾品、工芸品といった美術品が陳列され、ガラスの覆いがかけられている。

 天井は一際高く円を描き、四方は落ち着いた青に統一されている。誰もいない回廊は静寂に包まれ、音を立てたらどこまでも響いていきそうだ。

 水底とはこんなところなのかしら、とアイラシェールはぽつりと思う。

 それほどまでに静かで、美しい部屋だった。

 のんびりしていってもいいだろうか、とアイラシェールは自らの予定を確かめる。今日の課題は全てこなしたし、夕食の時間まではまだ余裕がある。

 ゆっくりとした足取りで陳列品を眺めていたアイラシェールは、その一つの前で立ち止まった。それは、アイラシェールにはとても馴染みの深いもの。

「ああっ」

 思わず声を上げて、見入ってしまう。見れば見るほど、それは素晴らしい品だった。

「ヴァイオリンだ……」

 それはアイラシェールが最も好きだった楽器。

 琥珀のような色。飴のような艶やかで均一な光沢。それはかつて、アイラシェールが持っていた物より遥かに上等だ。

 宝石や磁器と並べられ、飾られるだけある。

「懐かしい……こんなところで見られるなんて」

「お前はそれが何なのか、知っているのか?」

 突然声をかけられて、アイラシェールは驚く。慌てて顔を上げると、少し離れたところに一人の男性が立っていた。

「ここに人が来るとは珍しい」

 くすんだ金髪に、濃い緑の瞳。五十くらいと思われる風情の男性は、いささか自嘲をにじませてそう呟く。

「見ない顔だな。新入りの女官か?」

 男性はアイラシェールに歩み寄ってくると、飾らぬ口調で問いかけた。その身なりは上等で、一目で貴族以上と知れた。

 アイラシェールは慌てて跪礼をする。

「無礼をお許しください。まだ城に上がって間もないもので、道に迷いました」

「気にするな。ここは別段立ち入りが禁じられている場所ではない。私がよく姿を現すせいか、誰も近寄ろうとしないがな」

 顔を見なくても、男性が苦笑いを浮かべているのがアイラシェールには何となく判った。

「面を上げよ」

 告げられて顔を上げると、視線が合った。

「目の色は赤か。白と赤。面白い取り合わせだ」

「お褒めの言葉と受け取ってよろしゅうございますか?」

「お前にはよく似合っている」

 さらりと言ってみせる男性に、アイラシェールは微かに顔を赤らめた。

「……恐縮にございます」

「ところでだ。お前は、あれが何なのか判るのか?」

 男性は、目の前のケースの中身を差して問いかける。

「楽器なのは判っている。弦が張ってあるからな。ところがこの宮廷のどんな楽人の手でも、ろくな音が出ん。奴らは、どうも根本的に構造が違うんじゃないかと言うのだが」

「恐れながら、これはオフィシナリスから来たものでは?」

「その通りだ。奴ら、この国を田舎だと馬鹿にして、これを扱える楽人も扱い方の説明もなしに、献上だとただ送りつけてきおった。おそらくは、楽器一つまともに弾けん田舎者と笑い物にするためであろうよ」

 忌ま忌ましげに呟くと、男性はアイラシェールに問いかける。

「さっきから熱心にこれを見ていたな。お前にはこれがどういう楽器か判るか?」

 判るも何も――アイラシェールは、踊る気持ちをぐっと押さえる。

 自分はコーネリアに様々な楽器を習った。だが、最も得意だったのが、これなのだ。

「これはオフィシナリスで最近発明された楽器で、ヴァイオリンと申します」

「ほう」

「宮廷の楽士の方々が、お弾きになれなかったのは道理と存じます。弓がありませんもの」

「弓……?」

 怪訝そうに問い返した男性に、アイラシェールは答える。

「細長い棒で、馬の尾の毛が張ってあります。リュートやマンドリンは弦を指で弾きますが、ヴァイオリンはその『弓』で弦をこすって音を鳴らします。私が思いますに、楽器本体と共に、別の箱で弓も送られてきたのではないでしょうか。それが何かの手違いか――それが何に使われる物か判らなかったため、楽器本体と離されてどこかへ紛れてしまったのではないかと」

「なるほどな。あり得る話だ」

 男性は納得して頷き、そして問う。

「弓が見つかれば、お前はこれが弾けるか?」

「はい!」

 思わず力を込めて答えてしまったアイラシェールに、男性は微笑んだ。

「いかにも嬉しそうだな。そんなにこの楽器が好きか?」

「……はい、あの」

 失礼を、と呟いて顔を伏せるアイラシェールに、快く男性は笑う。

「面白い奴だな。この宮廷で、今時珍しい気性だ」

 これは褒められているのだろうか、けなされているのだろうか。一瞬悩んだアイラシェールに、楽しげな男性の声が降る。

「明日また同じ時間に来い。それまで、弓とやらを探してきてやろう」

「……はい」

「名は?」

「アレックスと申します」

 いまだ慣れぬ仮名を口にするアイラシェールに、男性は笑った。

「それでは明日。楽しみにしているぞ」

 それだけを言い残すと、男性は身を翻して去っていく。その背中を見送りながら、アイラシェールは一つの予感を感じていた。

 男性は名乗らなかった。その理由と、そして。

 彼が、何者なのか。

 もはやそれは、考えるまでもなく明白なのではないだろうか。

 何とか女官寮に戻り、夕食をとるとアイラシェールは自室の寝台に早々にもぐり込む。ホールでは今日もまた夜会が開かれているらしく、先輩女官たちの多くが出払っているのだろう。人の話し声はおろか、気配すら感じられない。

 独りいる部屋は、明りを消したというのに驚くほど明るい。ホールやサロンからこぼれる明りは女官寮のアイラシェールの部屋まで照り返して闇を払う。きっとアルベルティーヌの街から見れば、城全体が光輝を放っているように見えるのだろう。

『明日また来い』

 男性はそうアイラシェールに言った。命ずることに慣れた、人の都合も気持ちも考えないその口調。他人が意のままにならぬということを知らぬ――認めぬ、その有り様。

 魔女――アイラシェールはその名を口にした。自らの目標、捜し求める人物。

 名も素性も知らぬ、自分と同じ異彩を持つ人物。

 彼女がいつ後宮に現れたのか、正式な歴史書は語らない。リメンブランス博士が膨大な古記録を漁ったが、ついにそれを特定することはできなかった。

『はなはだ不敬なことであるが、真実はおそらくロクサーヌ朝が滅亡するまで明らかになることはあるまい。成立過程において深く魔女と関わるロクサーヌ朝が政権である限り、これ以上の新しい資料の開示を望むのは不可能だろう』

 博士はアイラシェールとカイルワーンの二人にそう語った。歴史学の授業においてのことである。アイラシェールが十二、三歳、カイルワーンが十四、五歳の頃だ。

『どうしてですか? 博士』

『歴史書というものは真実を語らない。史書に全ての歴史の真実が偽ることなく記されているのならば、それを鵜呑みにすればいいことで、歴史学者などという存在は必要ない。全ての真実が正しく伝わらないから、真実を探究しようとする者が現れる。……私のように』

 苦笑した博士に、アイラシェールはふくれっ面で聞き返した。

『じゃあ博士は、英雄王様や賢者様が自分の都合のいいように歴史書を作らせたって言うんですか!』

『『ブロードランズ列王記』も他の史書も、カティス王や賢者カイルワーンの立場から歴史を見たものだ。歴史書は勝者の立場からしか記されない。敗者の弁はただ消え去るのみだよ、アイラ』

 冷静に――取り澄まして答えるカイルワーンに、アイラシェールは無性に腹が立った。偉大な先祖を二人がかりでけなされているようでたまらなかった。

『じゃあカイルは、英雄王様や賢者様が嘘つきだって言うの! 魔女の方が正しくて、英雄王様たちの方が悪者だったって言うの! そんなこと言うカイルなんてきらい!』

 あの頃は――アイラシェールは過去を振り返って苦笑をする。あの頃は今にもまして世間知らずで、独善で、視野狭窄だった。自分の正義のみを信じ、他人の意見に耳を貸さなかった。

 あの後泣いてクッションでカイルワーンを殴り、ずいぶん彼と博士を困らせたのだっけ。

 今ならすんなりと、リメンブランス博士の言葉に頷ける。

 歴史は――現実というものは、視点によって全く違う側面をあらわにする。そして歴史書を記す者が真実を問えるのは、生き残った者たちだけだ。敗者は大抵死し、真実を語ることなく闇の向こうに消えていく。

 そして記録者が、勝者に仕える者であるのならば、視点が限定されるのはなおさらだ。

 魔女――王の妃。王権の簒奪者。民を虐げ、王を殺した妖女。でもそれは、彼女を討った者たちの見方だ。全てが偽りだと、英雄王たちが史実を全てねじ曲げ隠蔽したとは思わない。だが英雄王側には知りようがなかった、残せなかった真実も存在しているのだろう。

 では、真実とは。魔女とは。そして自分とは。

 歴史とは、過去とは。

 一体、何なんだろう――。

『明日また来い』

 男性の言葉が再び脳裏に甦る。その声は――男性の正体は、恐ろしい可能性を彼女に突きつける。

 選択肢は二つだ。明日行くか、全てを捨てて王宮から逃げ出すか。この二つに一つ。

 また巡ってきた運命の選択。二つに分かれた道を前に、アイラシェールは瞑目して呟く。

 逃げては駄目だ。

 道を切り開こうと願うのならば。

 そして夜が明け、一日が始まる。

 今度はちゃんと道を尋ねて回廊に辿り着くと、やがて昨日の男性が現れた。手に革張りの細長い箱を持っている。

 今日も、彼ただ一人だけ。

「弓とはこれのことだろう、アレックス。宝物庫の片隅に転がっていた」

 手渡された箱を開けると、収められていたのは間違いなくバイオリンの弓だった。

「間違いありません」

「今陳列棚の鍵を開けてやる」

 棚を開けると、男性はヴァイオリンを取り出してアイラシェールに差し出す。棹を掴んで顎に挟み、指で弾き、弓で弾いては調律していく。

「調律に時間をいただけますか。長いこと放置してあったので、狂いが大きくて」

「それは構わん。だがそれは、そうやって構えるものなのだな。考えもしなかった」

 肩に乗せ顎で挟むというヴァイオリンの意外な構え方に男性は驚く。一方アイラシェールは、丹念に音を拾っては音程を合わせていく。

「どのような曲がお好みでしょう? 軽快なもの、落ち着いたもの、派手なもの、悲しげなもの……色々ありますけれども」

「そうだな。それならば、お前が一番得意な曲を聞かせてもらおうか」

 男性の要望に、アイラシェールはしばし考え込むと弦を乗せた。流れ出すのは緩やかな旋律。

 アイラシェールが選んだのは、この時代に生まれた大作曲家の残した、最も有名なアリアだった。ヴァイオリンを手にする者が、必ず一度は練習するほどの名曲。

 男性は立ったまま、アイラシェールの奏でるヴァイオリンの音に聞き入っていた。何も口を挟むこともなく、ただ真っ直ぐ彼女を見て。

 やがて演奏を終え、顎からヴァイオリンを放したアイラシェールに、男性は軽やかな拍手を送る。

「素晴らしい音だな。この楽器は、こんな音がするのか」

「長い間楽器から離れていたので、腕が落ちております。お恥ずかしい限りです」

 謙遜でもなく、紛れもなく悔しそうな表情をして答えるアイラシェールに、男性は微笑ましいとばかりの表情を浮かべた。

「私は十分に満足したが、お前自身は納得がいかぬのだな――もっと素晴らしい演奏ができると」

「……貴方様にお聞かせしてよいような出来ではありませんでした。お許しを――陛下」

 アイラシェールの言葉に、男性は苦笑した。

「気づいていたか、アレックス。……気づかぬわけがないか」

 アルバ国現国王・ウェンロックはそう言って、アイラシェールの言葉を肯定した。

「アレックス、そのヴァイオリンはお前にやろう。お前が自らの演奏が気に入らぬというのなら、練習に励めばよい。そしてまた、余に聞かせろ」

「……御意にこざいます」

 口調――一人称が変わったのにアイラシェールは気づいた。となればやはりウェンロック王は、自らの地位を隠したかったのか。

 その気持ちをアイラシェールはうかがうことはできないけれども。

 出会ってしまった。目に留まってしまった。宮廷には女官など五万もいて、王のお目見えが叶う者など、その中のほんの一握りしかいないというのに。

 過去を、歴史を、運命を変える。そのために魔女を取り除く。そのために自分はカイルワーンの手を振りきって過去へ来た。自分によくしてくれた娼婦たちの下を離れて王城へ来た。

 その捨ててきた、沢山のもの。何よりも大切だったのに、捨ててきたもの。

 変えるんだ。必ず、歴史を変えるんだ。何か方法があるはずだ。呪文のように呟いて、アイラシェールは震えてくる体をなだめた。

 カイルワーンのために、何としても歴史は変えるんだ。そのために、この身が滅びることに、なったとしても――。

 必死に己を鼓舞しても、奮い立たせても、それでも世界は回る。

 彼女を呑み込まんばかりに。

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