4章9節

 この偶然としか言えぬ出会いで、アイラシェールはウェンロック王の目に留まり、楽士として高い評価を受けることになったのだが、それに対しての周囲の反応は、彼女の予想を大きく裏切った。

「大変に名誉なことです。陛下のご期待を裏切らぬよう、日々精進なさい」

 女官長シャノンの励ましの言葉は、予想の範囲内だった。入城してまだ間のない同僚たちには羨望の眼差しを向けられたり、嫌味を言われたりもした。

 だが、王宮に仕えて年数がたっている先輩女官たちは、一様にアイラシェールに同情をあらわにした。

「可哀想に」

「いきなり陛下の目に留まってしまうなんて、不幸だわ」

「陛下は激しい方だからね、気をつけるのよ」

「間違っても後宮に引きずり込まれないようにね。深入りしないのよ。あそこに放り込まれたら、人生終わりだからね」

「あ、あの……」

 何が何だかわけのわからないアイラシェールであったが、先輩たちの言葉から一つだけ判ったことがある。

 ウェンロック王は、嫌われている――。

 ただ、とアイラシェールは考えてしまう。人間として王が嫌われることはあるだろう。けれども王の目に留まることを、ここまで恐れられるのはなぜだろう。それこそが女官が成り上がっていく最上の方法であろうに。

 宮廷女官は大抵中流・下級貴族の娘か、豪農・豪商の娘である。王宮に上がらなければこれらの娘は、同程度の身分の者と結婚したり、少し上の階級の人間に見初められ妾に、運がよければ正妻になったりする。だが、それ以上は決して望めない。望んだところで、上流階級の人間と出会う機会など、ありはしない。

 だが宮廷女官になれれば、話が違う。大貴族の子弟や王族、まかり間違えば王にだって目通りかなう。目にさえ留まれば、女として気に入ってもらえる可能性だって零ではない。

 むしろ宮廷女官の大望は、そこにこそあると言っても過言ではない。

 宮廷女官から大貴族の夫人になった者もいるし、妾ならば数えきれぬほどいるだろう。そして王の『お手つき』となった者も。

 確かに宮廷女官だった者は、正妃になれる可能性はゼロに等しい。たとえ後宮に入れても、立場は決して強くないだろう。けれども、もし王の子ども――取り分け男子を産めれば、将来の国母になれる可能性が出てくる。我が子が即位できれば、どんな身分や立場の者とて母后だ。

 そのいい例が、カティス王の母、アンナ・リヴィアだ。彼女は地方の豪商の娘であったのだが、宮廷女官としてレオニダス王の王妃に仕え、彼との間にカティス王を身籠もった。彼女が宮廷を去った理由は伝えられていないが、カティス王の即位と共に入城、母后の地位を得ることとなる。

 ウェンロック王には一人の子どももいない。ここで彼の目に留まり、彼の子を産めればそれだけで将来の母后だ。どんなに王が嫌な人物であったとしても、野心のために彼に取り入り、彼の『お手つき』になろうという気にはならないのだろうか?

 同僚たちがアイラシェールに嫌味を言ったり意地悪をするのは、このためだろう。だが、先輩たちは決してそれを考えない。

 それはすなわち、長く宮廷に仕えていると、何かが判ってくるのだろう。おそらく、対外的に隠されている、何かが。

「アレックス、黒真珠の間の方々がお茶をご所望ですって。あなたなら作法は判るわね?」

 先輩女官から声をかけられて、アイラシェールははっと我に返る。今日のアイラシェールは厨房に詰めて、宮廷内の昼の会合の応接をしている。部屋への案内や給仕、茶のもてなしから、所望があれば楽器を演奏したり詩の朗読・暗唱をしたりもする。

 礼儀作法に精通し、楽器も巧みなアイラシェールはこういう仕事にうってつけであり、新人でありながら重宝されていた。

「今日の黒真珠の間というと、フェルナンダルル男爵様のサロンでしたね。どんなお茶がお好みなのでしたっけ……」

 この頃東方からもたらされた紅茶は、コーヒー、ココアと共に宮廷を中心に流行の兆しを見せていた。だが宮廷に導入されて間もないこの新しい飲み物をうまく淹れることのできる者は少なく、茶葉の質や産地などを見分け、使い分けられる者はもっと少ない。

 アイラシェールは料理こそできなかったが、茶の淹れ方やその作法、葉の見分け方などはコーネリアから教わった。それは大陸暦1200年代の上流の女性では、当たり前のたしなみだ。

「そんなの、あなたが判らなければここの誰にも判らなくってよ、アレックス」

 先輩たちの苦笑にアイラシェールも困ったように微笑むと、棚から二種の茶壺を取り出して、茶道具と共に盆に乗せると厨房を出る。お茶請けは杏の砂糖漬け。

 昼下がりの宮廷は、今日もけだるい気配に包まれている。

「失礼します」

 扉をノックして部屋に入ると、黒真珠の間に居合わせた人々の視線が集まる。

 フェルナンダルル男爵は、先代の急逝により若くして爵位を継いだ人物で、今日のサロンは友人を集めてのものらしい。貴族の子弟と及ぼしき若い男性たちが十人ばかり、何をか語らっているようだ。

「今日の給仕は噂の君か」

 フェルナンダルル男爵の言葉とアイラシェールの姿に、ざわざわと子弟たちが色めき立つ。

「本当に白絹のような髪だ」

「真紅の瞳と聞いてまさかと思いましたが、本当に美しい赤色ですね」

「白雪の君と呼ばれるのも頷ける」

「王ご寵愛の楽の腕を、ぜひ披露していただきたいものだ」

 一気にまくし立てられて、アイラシェールは一瞬反応に惑った。

「あ、あの、男爵様。今日のお茶はいかがいたしましょう? オドラータ産の二番茶とヘルモーサ産の秋摘みをお持ちしましたけれども」

 取りあえず職務の遂行を選択したアイラシェールに、男爵は笑って答える。

「ヘルモーサのにしよう」

「かしこまりました」

 男爵の言葉で、アイラシェールは茶汲みという自分の仕事にようやく専念できた。ポットとカップを温め、茶葉を落とし、勢いよく湯を注ぐ。ティーコージーをかぶせて砂時計を返したところで、アイラシェールは自分に向けられている視線に気づいて振り返った。

 男爵たちを中心として、子弟たちはまた論議に戻っているというのに、ただ一人その輪に加わらず、窓辺に寄り添って一心に彼女を見つめている人物がいた。

 歳の頃は二十代、王宮内にあっても佩剣を許されているのだから相当に身分は高く、また腕に覚えがあるのだろう。髪は燃えるような緋色で、瞳は銀と見紛う明るい灰色。その不思議な取り合わせは、鼻梁が整った彼の容姿を際立たせている。

 王宮に上がって以来沢山の人間を見てきたが、その中でも際立った容姿の持ち主だった。

 貴公子、という単語が厭味なほど当てはまってしまうほどの。

 彼に並び立つ容姿の持ち主といえば、あともう一人。

 その人物の記憶は、胸の奥を小さな針のように刺す。

 砂時計から砂が落ちきったのを見て取って、アイラシェールは暖まったカップに茶を注いでいく。背後ではいよいよ論議が熱を帯びていた。

「エスター、君の考えに僕は賛同できない。税収は国家の基だ。作柄によって税収が変動するのでは、国家の財源が博打同然になる。この博打は、勝った時はいいが負けた時、国家の破産という運命が待っているんだぞ」

「だがリワード、納税額を一定にすれば凶作の時農民はどうする。彼らの食い扶持から税を巻き上げればいいのか。農民たちから食物を取り上げて、飢えて死ねと宣告すればいいのか」

「税収が上がらなければ、そんな貧民を救済する予算すらないぞ」

 子弟たちの論議は狭い室内に共にいるのだから、嫌でも耳に入ってくる。聞き流すこともできず、ただ黙々と紅茶椀と砂糖漬けの皿を配るアイラシェールに、件の赤毛の青年が不意に声をかけた。

「何か言いたそうだね、君は」

「え?」

「そう顔に書いてある」

 赤毛の青年の言葉に、アイラシェールは顔を赤らめた。そんなに自分の感情は顔に表れるのか。それはあまりに恥ずかしいことで。

「失礼を」

「言いたいことがあるのなら、言ってごらん。君には君なりの意見があるのだろう。私もそれを聞いてみたい」

 青年の言葉に、一同の注視が集まる。その好奇に満ちた視線に観念し、アイラシェールは口を開いた。

「恐れながら、税をかける対象を収穫高に定めても、土地に定めても、どちらにも一長一短あってどちらが優れていると一概に決めかねましょう。だとしたら、その論議は不毛です。どちらを選択しても問題が生じるならば、その問題にどう対処すべきかこそが議論されるべきではないですか? そうでなければ議論は、ただの言葉遊びにすぎません」

 アイラシェールの厳しい言葉に、子弟たちは顔色をなくした。

「もし税を収穫高にかけるのならば、問題は不作の年の財源をどうするか、ということになりましょう。しかしこの利点は、豊作の年により多くの税収が見込めるというところにあります。その余剰税収をどう運用するか――豊作に浮かれて浪費せず、いかに不作に備えるか、というのが鍵になってくるでしょう」

「うむ……」

「そして税を土地に対してかけるのならば、不作の年、民の生活は過酷になります。それでも税を取り立てるというのならば、その分の救済を考えなければ、それこそ国が破綻します。民が飢えれば国は終わりです。次の年蒔く種籾まで食い尽くせば、もう二度と収穫は――税収は上がりません。とすれば長期展望で計画的に予算が立てられるのですから、そこに不作の備えを組み込むことが必須となりましょう。それは少ない収穫を徴収していく者の責任ではありませんか」

 声を落とし、努めて平板に語るアイラシェールの言葉は、かえって子弟たちの心をえぐった。ぐうの音も出ない彼らに、アイラシェールはなおも続ける。

「そもそも民は、なぜ国家に税を払う義務を負うのでしょう。それは民が国や王、貴族の持ち物だからではないでしょう。税というものは、民から貴族・王族に預けられた信託金ではありませんか。個々の財力や権力ではなしえない大事業を展開するために、他国の侵略から己の身と財産を守るために託されたお金ではないのですか。そのことを忘れれば、税の意味をはき違えれば、統治者は国民の全てから恨まることになるでしょう」

 それは自らの王朝とともに家族を全てを失った、アイラシェールの実感だった。そしてそれははからずも、イントリーグの主張だ。

 過去に来て、歴史を変えようと願うほどに己の運命を呪った。けれども自分は、革命の基盤を造ったイントリーグの理念自体には、それでも嫌悪を感じない。むしろ傾倒していると言ってもいいだろう。

 ロクサーヌ朝が限界に達していたことは、自分にも判っていた。国家は税の意味をはき違え、王家や貴族の奢侈に国民生活は圧迫を受けた。ロクサーヌ朝以降、国家の生産力は上がり、国民の生活は向上した。だからこそ、国民は自分たちの労働力の大きさを、そのうち税として搾取されている割合がどれほど大きいのかを自覚した。

 統治者と被統治者の間は、一方通行ではない。納税と還元が正しく行われなければ、そのバランスが適性に保たれなければ、必ず王朝は破綻する。

 イントリーグは自著でこう述べた。

『統治者と被支配者との間には一種の信頼関係が存在する。被支配者は統治者が税を正しく使い、被支配者のために正しく権力を行使すると信頼し、税を納め、統治者の権力を保証し支える。統治者は、その信頼に応える。王制であろうと共和制であろうと、小数の代表者を統治者として推戴する以上、この前提は存在する。そしてこの両者間に存在するのは、純然に契約である』

 彼女の考えは、アイラシェールには至極もっともに思えるのだ。その思いは過去に来て以来より膨らんでいくばかりで。

 イントリーグの思想は、憎むべきロクサーヌ朝の仇なのに。

 ここまで考えて、アイラシェールははっとした。再び起こした過ちに、己の迂闊さをしみじみと呪う。

 どうしてこう私はでしゃばりなのだろう。ウェンロック王の時もそうだったというのに。

「……差し出がましいことを申しました。どうぞ浅はかな女の言葉とお思いになって、お聞き流しくださいませ」

 唖然とした顔をして自分を見つめている子弟たちに頭を下げて、慌てて茶道具をまとめて退出しようとするアイラシェールを、意外な音が叩く。

 それは緩やかな、拍手の音。

「この宮廷で、久しぶりに芯の通った真摯な考えの持ち主に巡り合えたようだね」

 とても楽しそうに、嬉しそうに笑って拍手を贈るのは、あの赤毛の青年。

 彼はアイラシェールに歩み寄ると、不意に手のひらを取って口づけた。

「聡明なご婦人に、敬意を表します」

 それはあまりにも突然で、アイラシェールはただ呆然と立ちつくすことしかできない。

「あ、あの……仕事がありますから」

「またいずれ。今度はゆっくりとお話ししましょう」

 銀色の目が穏やかに笑い、逃げようとするアイラシェールを解き放つ。何かを言いかけた他の子弟たちを穏やかな微笑みだけで黙らせるその様子から、アイラシェールはこの人物の格を知った。

 今日のこのサロンは、フェルナンダルル男爵の主催だ。だがこの顔ぶれの中で、真にリーダー足る人物は、この赤毛の青年なのだと。

「失礼します!」

 逃げるように――実際逃げて、サロンから飛び出し、仕事場に早足で戻る。駆けたせいか鼓動が早い。いや、それは駆けたためばかりではないのは明白で。

 何なんだろう、あの人――一体何を考えて。

 色々な思いが脳裏を巡るが、一番脳裏に明滅するのは、当然の問い。

 あの人は、一体誰だったんだろう?

 その疑問は、数週間の後明かされることとなる。

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