3章4節

 店はすでに陽気なざわめきに包まれていた。入口には女性が使う、粉白粉とパフの絵を刻んだ看板。

「粉粧楼」

「そう」

「変わった名前だね」

「先代も、今の主も変わりもんだからな」

 その店はカティスの家から、さほど遠くないところにあった。建物自体は古びていたが店構えは大きく、手入れが行き届いて、貧民街にあるにしてはこざっぱりとした印象を与える。それがカイルワーンには、少し意外だった。

 扉を押し開けると、すぐに中にいた若者たちが声をかけてきた。

「おおっ、カティス! 帰ってきたな」

「フェレンベルグでの仕事はどうだった?」

「ああだこうだ言う前に、まずはこっち来て飲め!」

 察するに、カティスの傭兵仲間であろう。二十代の若者たちが十二、三人ほど集まっていた。彼らの囲む大きな丸テーブルには、様々なつまみとワインが並べられている。

「彼が噂の御仁か? カティス」

 声をかけてきたのは、灰色の髪をした青年だった。明らかに店の若者たちとは雰囲気が違う、とこの時カイルワーンは思った。

「噂って?」

「俺の耳は早いんだ。シーガルの野菜屋の話は聞いたぞ」

 そう言って、青年はカイルワーンに向き、右手を差し出した。

「レーゲンスベルグにようこそ。俺はセプタード・アイル。この店の主人だ」

「カイルワーンです。初めまして」

 素直に右手を差し出し、握手をする。するとセプタードは、穏やかに笑った。

「噂は聞いたよ。身近に医者がいてくれると、安心できる。何といってもここに来る連中は、危なっかしい奴らばかりだからな」

「そう言うなよ、セプタード。傭兵稼業は、そういうモンだぜ」

「そうだそうだ」

 上がる声に、セプタードは苦笑した。

「俺はお前らのことを、心配して言ってやってるんだがな」

 やれやれ、とばかりに呟くと、セプタードはカイルワーンの肩を軽く叩く。

「それじゃ、楽しんでいってくれな」

 それだけ言い残し、セプタードが厨房に消えると、当然の如く一同の注目がカイルワーンに集まる。

 その視線が奇異なものや、胡散臭いものを見る目でなく、好意とからかいに満ちたものであったから、カイルワーンは逆に戸惑う。

「カイルワーンといったな。俺はブレイリーだ。よろしくな」

「俺はウィミィ。何かあった時は、安く診てくれよ」

「イルゼだ。よろしく」

「あ、あの……」

「まあいいから、まず飲め飲め」

 強引にワインが入ったグラスを握らされたカイルワーンは、あっという間に座の中に引きずり込まれる。

「いきなりまた好かれたな」

 料理の皿を持って再び現れたセプタードは、騒ぎを独り離れて見ていたカティスに言い、彼はそれに苦笑で答えた。

「可愛いだろ? あれは小リスみたいに庇護欲をかき立てるところがあるからな。男にはもてるだろうと思った」

「女にだってもてるだろうさ。あの若さで、腕のいい医者ときた。で、あの容姿で女どもが放っておくか」

「違いない」

 ワインを干して、カティスは笑う。そんな彼に、セプタードはぽつりと言った。

「カティス、あいつは何者だ」

「何者、なんだろうな。俺もそう思う」

 至極真面目に、カティスは答えた。カティスにはセプタードの言いたいことがよく判る。

 カイルワーンは、間違いなく自分たちとは違う世界で――社会で、生まれ育ってきた人間だ。それがなぜ、今こんなところにいるのだろう。

「多分、俺は山の中でとんでもないものを拾っちまったんだろう。それだけは判ってる」

 カティスもセプタードも、未来は知らない。けれどもすでにこの時、予感は感じていた。

 おそらく、カイルワーンがここに現れたことで、この日常の何かが変わる。

「でもな、あの親リスとはぐれた小リスみたいな奴を見てるとな、放っとけないんだな」

「俺らはそうやって、あいつに起こす波に巻き込まれていくんだろうな……」

 どこか観念したようなセプタードの呟きは、まさしく真実だった。



 ひどい喉の渇きを覚えて、カイルワーンは目を覚ました。

 意識が茫洋として、まるで霞がかかったようだ。

 粉粧楼に行ってからの記憶が、判然としなかった。

「弱いって何度も言ったのに、したたか飲ませやがって……」

 カイルワーンは軽い吐き気を覚えて、そう毒づく。

 夜会に出ることも、外に遊びに出かけることもなかったカイルワーンは、身内の食事での軽い飲酒しか経験したことがない。よって、上手な酒の飲み方も、酒の断り方も知らず、結果寄ってたかって酔い潰されたのである。

「水……」

 おぼつかない足取りで立ち上がり、水瓶を探して、ふと人の気配を感じた。

 裏庭に続く扉が開いていて、月の光が差し込んできている。

 風を切るような、鋭い音が聞こえてきた。

 足音を潜め、近づき、カイルワーンは息を呑んだ。

 そこには、自分よりも遥かに大量の酒を飲んだはずの、カティスがいた。

 剣を抜き、構え、振り下ろす。白刃は月の光を受けてきらめき、その鋭い軌跡が見えるような気すらした。

 カティスは気を張りつめ、集中しているようだった。険しい眼差しで虚空を睨み、素振りに没頭している。

 その姿は、昼間の彼とは、どうも一つに重ならない。そう、今の彼は、ひどく『らしく』ないのだ。

 おそらく僕は。内心でカイルワーンは呟く。

 出会って三日。まだたったそれだけしかたっていない。

 おそらく僕は、まだカティスのことを何も知らないのだ。

 カティスが、自分のことを、何も知らないのと同じように。

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