第12式 死を忘れた獣へ捧ぐ儚き死

 不安定に崩れかけている足場を踏むことなく、一気に地上へと降り立つ。勢いを殺さないその反動は膝を緩衝材としても中々に大きく、痛みこそないが骨や腱が軋む音が体内から響いている。でも、それを気にしている暇はない。私に痛みも苦しみも無い。だから、今は彼の加勢に――――。

「わっ!?」

 突如弾け飛び散る家屋の壁、窓ガラス、家具。それと同時に僅かな残像を残して私の横を掠める黒い影。それはそのまま背後の家々の壁を貫通していく。目の前には、先程カイネさんを相手取っていた白いホムンクルス。ゆらりと立ち上がるその姿は私を悠々と見下ろしている。よく観察すると、ホムンクルスの体表面には再生し始めている深い切り傷がいくつもあるのがわかり、この僅かな時間にあの屋内で激しい戦闘が行われていたのが察せられる。

 ロザリオの柄を握り直す。慣れた感触は良く手に馴染み、緊張する肉体に僅かな弛緩をもたらしてくれる。数多の者を屠ったこれがあれば、私は決して負ける事は無い。武を以て武を制す。そうやって今まで生きてきた。

「……カイネさんが戻ってくるまで足止め――――なんて可笑しな言葉は言いません。今ここで! その核たる賢者の石を露にしてあげましょう!!」

 私の言葉にただ反射的な反応をするホムンクルス。その眼球と思しき部分に、大声を上げ意識を逸らしたタイミングで足元の掌大の石をロザリオで拾い上げ弾く。キンと高い音を響かせ飛翔する石を、ホムンクルスは容易く弾き落とした。転々と転がっていく。

 しかし、そんなものは想定済み。石に僅かにでも攻撃の手を割かせることこそが目的のそれは見事に成功し、辺りを包んでいた警戒の膜に微かな穴が生まれた。それを私は見逃さない。地面に胴が着かないギリギリまで体勢を低くし、這うように走り接近。死角である背後へと体を滑り込ませる。未だホムンクルスは小石を弾いた姿勢のまま。ぽっかりと空いた隙を捉え、私はロザリオの先端を向け刺突の姿勢に入る。そして素早く前方へ突き出した。

「シッ!」

 白色の十字架は吸い込まれるように、同じく白色の滑らかな表皮を持つホムンクルスの背を穿った。その瞬間零れ溢れる鮮血、のように見えるが違う液体。まるで人の温かみが感じられない冷えたそれが、ロザリオを伝い私の手へと落ちていく。予想していなかった温度に驚き、体の力がほんのわずかに緩んでしまったその時だった。

「ッ!?」

 ぐいとロザリオが押し返される感覚。ホムンクルスは正面を向いた状態からまるで関節が無いかのような柔軟さで背中に刺さるロザリオを掴み、私の方へ力を籠める。咄嗟に押し込もうとしたけれど、少しの差で遅かった。抜き取られたロザリオ諸共体から重力が一瞬消える。それが大地から足が離れ、空中に浮いているからだと理解するのに少しの時間がかかった。そしてそうなった理由が、私を体ごとホムンクルスが持ち上げ、回転し、理外の遠心力によるものだとわかったのは、ホムンクルスが私を壁に叩き付けられてからだった。

「カハッ……!」

 放り叩きつけるのではない、最後まで加速がかかっていた状態からの叩きつけ。痛みが無くとも肉体への外的影響は何ら変化なく起こる故に、肺から空気を叩き出された私の口からは音の抜けたような声が絞り出される。視界は歪み、姿勢を保つだけの力を出せない。地面に落下し、無様にもホムンクルスに対して蹲う様に崩れ落ちてしまった。

(呼吸が……肺の周囲の筋肉が痙攣している、まず、い――――ッ!)

 過呼吸に似た症状。人外な膂力による衝撃による不自然な筋肉の弛緩と収縮の連続が呼吸を乱し、私の意識を間欠的なものにする。呼吸を整えようと歯ぎしりをするけれど、それですぐに整うほど体は良く作られていないようだった。不自然に明確な意識とは裏腹に、勝手の利かない体はホムンクルスの前で地に着いたまま。動かないと、すぐに体勢を立て直さないと、死ぬ。

「ぐ……ゥううううウアアアッッ!!」

 擦れた咆哮をあげながら、私は手をついて立ち上がる。その時見えたのは、口から絶え間なく零れ滴り落ちる血。どうやら内臓をやられたらしく、舌には鉄の味が蔓延していた。気持ち悪さもあるが、それを無視できるほどに命の危機は目前に迫っていた。

 ホムンクルスは当然私が体勢の立て直しを図るまで待ったりしない。無慈悲に擡げられた刃の形状に変化している腕を、今正に振り下ろしてきている。ゆっくりと、スローモーションな動きに見えるのは、私の感覚が極限まで鋭敏化しているからなのか。何時かの日に養父の一人から聞いた、人間はある特定の脳内物質が過剰に分泌された時、体感する時間や感覚が延長するという話。それを今ここで実感しているのを場違いな意識で理解する。そして、迫る刃が私の前髪に微かに触れ毛髪を一本切った瞬間、身を半身に捩る。紙一重――――否、髪一重。あと僅かに動きが遅ければ縦に体を両断されていただろう一太刀を避け、右足を一歩前に出す。ホムンクルスの股の間に刺し込まれた足に力を籠め、右斜め後ろに向けたロザリオを持つ手を握り直す。呼吸は未だロクにできず、体の挙動もどこかおかしい。それでも、今は死ぬ気で動くしかない。カイネさんが戻ってくるまで、時間を稼がなければこの街も、人々も、もっと最悪な結末に進むことになる。

「はぁああああああ!!」

 果たして、振り抜いたロザリオは正しくホムンクルスを捉えた。今度こそ、即時回復が出来ない程のダメージ、胸部と腹部の前面を弾き飛ばし、肉と思しき破片と血よりも赤黒い液体が飛散する。ロザリオの先端はホムンクルスの胴体を捉えて、勢いを殺すことなく振り抜いた結果は常人なら致命傷となる状況。振り抜き、一回転した私は再びホムンクルスの姿を捉えてから、ジャンプし目の前の白い肉を踏み台に後方へ跳び退る。ホムンクルスはバランスを崩し後方へ倒れ込み、私はふらつく脚を必死に踏ん張って着地する。

(まだ、頭が揺れる……)

 攻撃には成功し、僅かな時間ではあるが行動の制限も果たした。しかし、私の呼吸の乱れと体への蓄積ダメージが消えた訳ではない。脳内物質の分泌がさっきよりも落ち着いたのか、鋭敏であり緩慢になっていた感覚は体の状態異常を私に訴えかけてきた。ぐるぐると目が回っているような気持ち悪さに眉が歪んでいるのがわかる。

 まだカイネさんは来ない。もしかして気絶しているのだろうか。そうだとすると、先手でダメージを与えられた今の状態ではいつまで持ち堪えられるかわからない。あの叩きつけによるダメージが無ければ、まだ拮抗できる程度の存在であるはずのホムンクルスに、微かな油断でここまで追い詰められてしまった自分がなんとも情けない。これでは養父養母達や本部のお偉い方に報告するのに気が滅入る。

「なんて……言えればいいんですけれど、ね」

 段々と落ち着きを取り戻してきた呼吸を確かめ目の前を見れば、弾け飛んだはずの肉が再生し完治まであと少しとなっているホムンクルスの姿。その様子に苦笑してしまう。あまりにも現実のルールを逸脱した存在。聖人の中でも最も気高く強い、選ばれた存在である『天鐘聖代八柱ディバインエッジ』でも、あそこまで再生能力の高い者は居ない。そんな自分よりも強い存在と比較しても、一点で特化している、賢者の石のその特異性と異常性をまざまざと見せられている。これで文句の一つも言わない人間はほぼ居ないだろう。

 ゆっくりと、石畳の床を踏みしめながら体を起こす。鉄の味がする唾液を吐き出し、ロザリオを杖に体を支え、段々と肉体が再生していくホムンクルスに再び意識を戻した。そうして手に持つ、血痕と泥汚れに塗れたロザリオを一瞥して、眼前の敵へと向けた。

「けほっ……魔性ですらない歪んだ存在にかける言葉は、ありませんが、あえて言いましょう。この身が今、正に朽ち果ててしまう寸前だとしても……あなたをこの先に通すことは、決してさせません……かふっ……」

 口を開き音を発するたびに血が噴き出るけれど、それでも構わずホムンクルスへ意思を示す。人々を、主神が庇護するべきと定めた存在を守るために居るのが私達使徒。信徒たちで結成されている治安維持などを行う実動部隊では捌ききれない活動を秘密裏に行うのが、私達十三機関。聖人を核にし、天使と天吏が表向きに活動する中、私が属する天譴は決してその存在を明るみにしてはならない。ただの使徒であり聖人として、穢れた姿を隠しながら人々を守る者。その前線に立つ私が、ここで膝を降り死に果てる訳にも、ましてや何の成果ももたらさない訳にもいかない。獲物を持つ手に力が戻る。まだ戦える。私はまだ、この痛みを失わされた命を燃やすことができる。そう確信し、強くホムンクルスに視線を向けた。

「――――え」

 移動速度も攻撃速度も、先程の交戦で可能な限り把握していた。どれほど速く、どれほど正確にこちらへ殺意を向けてくるのか、わかっていた、はずだった。

 なのに何故か、ホムンクルスは瞬きの間に間合いを詰めていて、私の目の前でさっきの様に刃を振りかざしていた。全く無傷のその体で。

 死を覚悟はしていない。そもそも死ぬつもりは初めから無く、どんな手を使ってでもカイネさんが戻るまで持ち堪えるつもりだった。けれど、これは駄目だとわかる。致命的に、回避行動が間に合わない。再び自分を襲う時間の延長、事態を理解した私は、せめてもの抵抗に空いていた腕を頭上に持ち上げ、目を瞑った。







 時間は止まっていない、はず。迫り来ていたホムンクルスを止めるものは何もないし、自分は無様にも情けない防御姿勢に似た何かをするしかなかった。なのに、刻々と時が進んでいる世界で私に衝撃は訪れなかった。ゆっくりと目を開くと――――そこには、黒い外套を脱ぎ捨て、傷だらけの体でホムンクルスの刃を防いでいた、カイネさんの姿があった。

「カイネ……さん」

「悪い、リーゼ。少し気絶していた。もう、大丈夫だからな」

 そう言って、交錯していた刃をカイネさんは圧し返し、ホムンクルスの体を後退させていく。何処にそんな膂力があるのかわからないのに、確かに彼は圧し勝っていた。そして不意にホムンクルスの足を払い体勢を崩す。突然の重心の変化に呆気なく姿勢を崩された白い巨体は、体を捻り発条を縮めた反動で放たれたカイネさんの足刀蹴りによって向かいにあった家屋に弾き飛ばされた。壁を破砕して飛んでいったそれはまもなく見えなくなり、崩れ落ちてきた瓦礫の下敷きになった。

「……ふ――――ぅ」

「カイネ、さん。大丈夫ですか?」

「ん、大丈夫だ。外傷諸々は錬金術で応急処置を施した。途中までは良かったんだが、土煙で一瞬奴を見失った隙に弾き飛ばされた衝撃で気絶していた……すまない。リーゼがそこまで重症になっていたのに、復帰するのに遅れて」

「いえ……」

 応急処置をしたと言っていたが、カイネさんの体には至る所に打撲痕や細かい切り傷がある。それに加え無理に皮膚を縫合したのか内出血もあり、古傷なのか肩や脇腹からも出血していた。それを見ていた私の体、所々千切れているローブの上からカイネさんの手が触れる。不意の人肌に思わず体を震わせると、カイネさんが不思議そうな目でこちらを見てきたのでなんでもないと首を振った。それを見て頷いた彼は、手から電気を発し、そこから何か流体のような物が流れ込んでくる感覚が感じられた。そうして暫くした後に電気が止むと、私の体にあった節々の動作の違和感が少し消えていた。

「これは……治療をしてくれたのですか?」

「お前の神力の力で回復力が底上げしているのは知っているが、その怪我の具合だと内臓の損傷や骨へのダメージが大きいはずだ。素人に毛が生えた程度だが、一応医学に関してはリゼのお陰で多少造詣がある。取り敢えず、出血部分の止血と、骨のヒビがある部分の応急接合をしておいた。あとはここで待っていてくれ」

「ありがとう、ございます――――って、ちょっと待って下さい! まさか一人で戦う気ですか!?」

「もう遅れは取らない。奴の賢者の石の破壊までのプロセスは凡そ構築できた。だからリーゼには、これを渡しておく」

 そう言って渡されたのは、掌に納まるほどの鉄球。持った瞬間、大きさに見合わない重さに驚いてしまった。

「奴が再び起き上がりあの建物から出てきた時、俺は即座に間合いを詰め、奴の腕を斬り落とす。万が一失敗した場合でも行動の制限を必ずする。だからリーゼは、俺がどちらかを完遂したと思ったタイミングでその鉄球をホムンクルス目がけて投げて欲しい。勿論、聖人としての腕力を目一杯使ってくれていい」

「それだけ、ですか?」

「それだけ、が一番重要なんだ。恐らく俺が近接でそれを用いても、俺に意識を集中させたホムンクルスはそれを上回る速度で避ける。重要なのは、過集中した存在の意識外からの超速での奇襲。頼めるか?」

「……いいでしょう。貴方のその信頼、受け取りました」

「ありがとう、それじゃあ――――」

 そう言って視線を移すカイネさんに倣って、私も視線を動かす。その先には、暗い家屋の奥からゆっくりと通りに戻ってきているホムンクルスの姿。あと少しで、瓦礫を乗り越え屋外に体を出すだろう。

「手筈は言った通り、頼んだ」

「簡潔な説明だったので問題ありません。貴方の無鉄砲さを信じます」

「お前が言うことか……任せたぞ」

 お互い小さく笑みを含み、そして前方に向く。

 ああ、私はずっと彼をどこかで疑っていた。彼は同じ人間で、同じトルネコリスと言う国に生きる存在。でも、この国の歴史に迫害された錬金術師だと、私は聞いた。だから、きっと彼は私達の本質的な仲間ではないと、警戒心と猜疑心を通して考えていた。

 けれど、それは少し歪んだ考え方だった。絶対的な仲間とは言い切れない、綻ばない関係だと断言できない。それでも、今互いに命を預け、自分の決死の作戦の要に、例え他に選択肢が無かったからだとしても私を選んでくれた彼は、エルシアの問いに、向いている方向は違くとも守る剣であると答えた彼は、信頼を置いてもいい関係を築けると。そう私は思い至った。あまり複雑に物事を考える事はしない私でも、今まで縁も何もなかったこの街をここまで命を賭して守ろうとする姿が、例え彼の目的のためにしている意図的な行動だとしても、信用しても大丈夫だと私の背を押してくれる材料になった。だったら、今一度彼との関係を構築し直す一環に、あのホムンクルスを倒す行為は絶好の機会だ。

 私がタイミングを間違えれば、最悪彼が命を落としかねない。絶対ないとは言い切れない以上、任された責任は重い。だからこそ、絶好なのだろう。

 鉄球を握り直す。煩わしい体の緩慢な感覚は残っているけれど、知った事ではない。養父養母に恥じない姿を見せるために、そして彼から向けられた信頼に報いるために、全神経を鉄球とホムンクルスに向ける。

 そして、ホムンクルスの体が僅かに通りに出た瞬間、カイネさんの姿が消えた。





 ゆるりと体を纏う浮遊感に、俺は包まれていた。覚束ない意識はつい今まで自分が置かれていた状況を理解していながら、その前に佇む一つのささやかな問題に俺を釘づけにしていた。

 信頼関係は時間と行動が互いに作用して初めてできるものだ。突然前触れも無くそれを築ける者は存在しないし、例外的に出来たとすれば、まるで御伽噺の様だが前世の繋がりや見えない糸で繋がれた運命の関係を持つ存在だろう。それほどまでに、信頼は複雑で作り辛い。ましてやファーストコンタクトが考えうる限り悪手な状況でそれを構築するには、余程劇的で濃厚な出来事でもなければ厳しい。

 ――――リーゼロッテと言う少女と俺は、どうにも足並みが揃わなかった。正確には、揃えようと意識をすればするほどもつれるような感覚。その根底にあるのは、きっとリーゼの中でわだかまりとなっている俺とリゼの存在に対する不信感だろうと思う。

 当然と言えば当然であり、不当と言えば不当ともなる問題。同じ国に属する存在であり、しかし国の存在を不確かな存在として捉え、その国からかつて迫害され滅亡の一手前まで追いやられた末裔。そんな存在と、国を守り人を守る役目を持つリーゼのような存在は、字面だけ言ってしまえば敵対していても不思議ではないと自分でも感じている。俺達は国に憎しみと報復を、リーゼ達は治安維持と禍根の消滅を。あっても不思議ではないその関係に、少なくとも俺とリゼはなるつもりはなかった。確かに過去の行いは決して許せるものではないと、もう長い年月を経て曖昧に風化しかけている記憶の継承で強い憎しみを抱くには、俺達は知ることのできる歴史が薄すぎた。

 村の長である大婆様でさえも、かつて国から俺達錬金術師の祖先が受けた仕打ちを細かに伝え聞いてはいない。漠然と、迫害され追いやられたという事が伝えられている理由は単純。その仕打ちを最も激しく受けた者達は全て死んだからだ。俺達の村は奇跡的に、その被害から遠い場所で生きていた故に、大まかな話だけを伝え聞き、それを歴史として伝えているだけだ。だから、俺もリゼも未だ憎むだけの材料がない。それを調べる気が無いと言えば嘘になるが、今はどんな協力を得てでも使命を果たす必要がある。そんな時に、肝心の行動エリア全体に不信感を抱くだけになる情報を仕入れることは得策ではないとわかっていた。だからこそ、俺はどうにかしてリーゼやエルシアさん達の助力を求めた。それは大体が成功していた。

 話を戻そう。リーゼは俺達の出自的に全幅の信頼を置くには不安要素が多すぎる。そしてリゼはともかく俺は上手く関係の改善を図れるスキルが乏しい。こういう時に自分の至らなさに腹が立つが、それでも少しづつリーゼとは打ち解け、いくらか柔らかな関係性にはなっていた。それでも彼女の眼は何処か警戒心が残っていたが。

 そんな彼女と相対する、俺達錬金術師の業の一つであるホムンクルス。俺一人での対処も可能だと踏んでいたが、賢者の石の力は想像をはるかに上回るものだった。だから不覚を取った。

 だが、そんな俺を前にしても、彼女は俺を気遣い、共に立ってくれていた。それが存外に嬉しかった。例え棘のある言葉を言われようと、今はそれでいいと。

 ああ、そうだ。今彼女は恐らく、一人であの倒すことが不可能とわかっている存在と戦っている。俺の意識と肉体がまだ残っているから、見捨てられたとは考えにくい。そして俺は気絶している。弾き飛ばされた勢いで。

 起きなければ。起きなければ。起きて、武器を握り直し、自身らが抱える負の遺産を滅さねば。

 ごぽぽ、と口から溢れ出す血液を吐き出し、特殊な素材と縫製で作られた外套を脱ぐとそれを放る。今は少しでも移動速度を上げるために、空気抵抗を生む物は極力排除したかった。放る間際に外套から抜き取った鉄球はホムンクルスを倒すための切り札であり、リーゼに託す命綱。手に感じる重みをポケットの中に仕舞い込み、側に転がっていた己の獲物である刀を手に取る。少しの間だが手を離したせいか、形状形成に若干のほころびがある。

「……まだ、この形状を常に維持するのは厳しいか」

 俺が常に背負うこの鉄の塊。俺が自身の研究の末に作り出した一つの成果であり、折れず曲がらず綻ばない、そして超大質量の特殊合金を限界まで圧縮し無理矢理あの鉄塊の大きさに留めさせることに成功した、俺だけが扱える武器。それをさらに圧縮し、母の故郷で作られていたという形状と製法を模倣し鍛えた刀と呼ばれるもの。母の知識を借りこの鉄塊そのものに付けた銘は『あらがね』。そして唯一、刀の形状にのみ付けた銘は『彼岸』。この世ならざる死後の世界を指すその名を背負う刀を今一度錬磨する。エーテルを流し、俺が身に付けた鍛刀技術の情報をエーテルに乗せ、全体に錬磨の工程を再現させる。そうして綻びは消え、その刀身は何時もの鋼一色ではなく、白銀に紅く流麗な流線形の波紋が浮かび上がったものに変化した。まるで鮮血に染まる華の様に。その銘が指す、彼岸へと導く凍てついた導だ。

「――――行こう」

 ドン、と激しく大きな音が体内に響く。それが何かを俺は分かっている。それと同時に全身を巡る血管は不自然なほど脈動し、心臓は激痛が走るほど伸縮と膨張を繰り返す。恐ろしい程の速度で。

 子供の頃から自分だけができる、心臓の鼓動と供給する血液の自在な操作。何故できるのか、その理由は分からない。母に一番に教えた時、それは他人には言わないようにと厳しく教えられ、リゼにすらそれは知られていない。そんな激しい鼓動を起こす理由は一つ。鼓動が激しく鳴れば鳴る分だけ、その間だけ、自分の体から外界に干渉できるほどの電流と電圧を誇る雷電を放出すること、そして身体機能及び生体電気伝播速度を上昇させることができるからだ。そのおかげで、俺は今まで村に仇成さんと近づいてきた人間達にただの一度も後れを取ることなく塵殺してきた。俺の強さの根幹を司るものの一つ。村を襲った合成種を倒した時やこの街に来てからもこの力を使っていたが、それはあくまで一瞬、高速で接近し両断するための瞬発力を求めて使っただけ。だが今は違う。鼓動を延々と激しく強くさせ、前方に居るリーゼの背を、そしてそのリーゼに刃の形をした腕を振り下ろそうとしているホムンクルスを捉える。

 ゆっくりと緩慢に認識できるほど先鋭化した視覚と、数メートルの距離を瞬きをする間の内に移動できる筋活性化が成されているのを確認し、駆けた。






「――――……速い」

 リーゼの眼にカイネが移動したことを捉えてられていたのは、移動する直前に体を僅かに弛ませた時と、ホムンクルスの眼前に移動し終えていた時だった。神力で強化されている動体視力が残像を捉えていたため視線自体は移動させることができたが、それを正確に追っていた訳ではない。その視線の先にはやや前傾姿勢の天の構えのカイネ。禍々しい色に染まる刀身は暗闇を無遠慮に照らす炎によってより朱に染まり、そして寸分の違いも無く、刃はホムンクルスの腕に沈み斬り落としていた。

 それを確認したリーゼの双眼は何時の間にか鮮やかな色合いの金眼に変化し、右腕には細さに不釣り合いな程浮かび上がる血管。握られている鉄球が軋む程の握力のまま腕を振りかぶる。

「…………行ってッ!」

 カイネの指示通りに鉄球をホムンクルスへと投擲。空気を切り裂く音をあげながら白い巨躯とそれと交戦する背へ接近する。が、生物としては異常な程、凡そ異常ともいえるくらい発達している本能的な反射を駆使し、こちらの攻撃に対応、あるいは即時反撃を行っていたホムンクルスが、リーゼの動きにも、接近する鉄球にも意識がいっている様子はなかった。

 それはまだ成熟しきっていない論理思考のせいであり、そして最もホムンクルス自身の生存――――あるいは起動状態を停止させる術を持っていると本能的に理解しているホムンクルスの、最大限の防御意識が全てカイネに向いているため。

 そうして交戦するカイネ達の傍まで鉄球が接近した時、彼岸を振り下ろしていたカイネはクルリと持ち手を反転させ、柄の先端をホムンクルス側へ向ける形の姿勢になる。刀身と鉄球の位置がそっくり入れ替わったかと思うと、紫電を柄を中心に纏わせ、その先端で鉄球を押し出すように弾いた。

 弾いて、爆ぜた。

 ボ、と音が鳴ったようで無音のまま、鉄球は柄が触れた瞬間に、ホムンクルス側に向かって無数の鋭利な棘となって襲い掛かった。

「磁性流体、そしてスパイク現象。本来適切な環境じゃないと再現は難しいが、生憎俺は金属性質の物体に造詣が深い錬金術師アルケミストだ。能の無いお前には……関係ない話だろうけどな」

 磁性流体。それは液体であるにも関わらず磁石に引き寄せられる性質を持つ、鉄の性質を有したものだ。強磁性超微粒子、界面活性剤、水又は油の三つの液体から成るそれの底面と仮定する部分から磁石を近づけた時に起こる、液体の針状への変化をスパイク現象と呼ぶ。それら二つは本来容器に入れられるなど整えられた状況で、概して危険性の低いスパイク状になるものであり、それを空間上で攻撃に用いることは極めて難しいといえる。

 しかし、カイネはそれを奇襲・不意打ち用の武器として研究し、研鑽し、そして完成した。万が一同程度の知識や卓越した観察眼から液体の素性を看破される可能性を、鉄球と言う自身が、そして場合によっては敵が、内容物を悟られずに分解し奇襲へと転じられるように作り上げた。底面を限定しない球体であることで、どの状況下でも任意の方向にスパイクを発生させられるように作り上げた。今回はより正確性を上げるため、そして余裕ある距離だったために接触によるエーテルの放出だったが、強くカイネのエーテルに浸された鉄球と磁性流体は、遠隔による操作も可能になるほど親和性を高めている。

 そうしてカイネ自身から強力な磁力を発生させ、宛ら人間磁石になることで、本来攻撃性も危険性も低い棘程度のスパイクは、固く柔らかくしなやかなままに、爆発的な瞬発力を以て敵を襲う恐ろしい暗器へと変化した。

 ここで重要なのは、警戒されにくい事。平時は当然、戦闘時であっても、これは傍から見ればただの鉄球。投擲されたとして、叩き落とすなり弾くなり、はたまた最小限に避ける程度で害の無くなるものだ。それは、内容物にこそ真価を持つこの暗器には、最高の条件になる。故に、カイネはその奇襲成功率をさらに上げるため、マークが外れるリーゼに投擲を頼んだ。そして、見事に成功した。

 夥しい数のスパイクは大小様々に容赦なく伸び進み、ホムンクルスの巨躯の尽くを穿つ。上方斜めから下方斜めへ伸びる液体の鉄。それは容易く抜け出す事が叶わないほど深く、返しまで作られた先端は大地に深々と突き刺さった。痙攣するホムンクルス。体の至る所から溢れ出す赤黒い液体。賢者の石の成分が混じった液体は石畳の道に染み込み、溝に沿っておどろおどろしい模様を浮かび上がらせた。

「――――なんとか、なったか」

「カイネさん!」

 完全に動きを封じ、更に保険の為カイネはホムンクルスの体に電撃を、運動などを行う上での電気信号の働きを阻害するために流し込む。そうして息を一つ吐いた時、背後でその様子を見守っていたリーゼが駆け寄ってきた。未だ十全ではない体の動きをものともせず駆け寄ってくるそのタフさに、僅かにカイネは笑みをこぼした。

「……どうかしましたか?」

「いや、なんでもない。それより、最高のタイミングだった。信頼して、任せて正解だった。ありがとう」

「いえ……こちらこそ。貴方のお陰で何度も愚行に走る直前に止めて頂いて、そして私を信じてくれた事。嬉しかったです」

「……そうか」

 若干気恥ずかしそうに目を逸らすカイネとリーゼ。ほんの僅かな時間の間の後、カイネは咳払いを一つすると、ホムンクルスへと向き直った。

「さあ、止めを刺すか。非常に癪ではあるが奴の言う通りこれが今ここで存在する唯一の個体なら、ひとまず全ての敵生命体――――否、超弦人形とホムンクルスを撃破したことになる」

「……お願いします。この悲劇に、どうか終止符を」

 カイネはその言葉に、無言で首肯した。

 そして右手に手刀を作り、彼よりも大きな丈のホムンクルスの、その胸元へと突き刺す。ずぶり、と音が鳴る様な感触をものともせず、カイネは深々と突き刺し、何かを探る様に動かして、そして抜き取った。てらてらと炎の揺らめきと共に輝きを反射する、美しさとは程遠い紅い液体。それに塗れた、拳より少し小さい赤色の石。リーゼは実物を改めて、目の前で観察し絶句した。これほどまでに煌めく禍々しさがあるのか、と。

「これが賢者の石――――と言っても、不完全とまでは言わないが劣化品。不老不死性は無く、疑似的に不死性を現す驚異的な再生能力で紛い物の化物を生み出した核がこれだ」

「……なるほど、これは――――いえ、私はこれを言ってはいけませんね」

「俺自身、ここまでの大きさと完成度の賢者の石を見るのは初めてだが……果たして俺が独自に研究した成果は通用するのか」

 カイネの手に紫電が奔る。腕に血管が浮き出るほど握られた賢者の石は次第に軋む音を上げ、次いで石の中心に亀裂が入る。そのまま割れるものだと観察していたリーゼは、ひび割れた賢者の石が砂の様に細かな粒となって吹き去っていった光景に、僅かに目を見開いた。

「それ……そうやって壊れるんですね」

「賢者の石は石であって石じゃない。と言うか、どんな物体も極論は微細な粒の集合体だ。本来はそれを結同させているものが強固だから有り得ないが、賢者の石を凝固させている最たるものは人間の生き血とそこに含まれる生命エネルギーだ。それは目にも見えない概念。凝固剤としての役割は本来見込めないものを、無理矢理当てはめて固めていれば、それが失われた時は全て粒子になってもおかしくない」

「小難しい話ですね」

「まぁ原理はどうでもいい。とにかく、これでこの街の脅威は全て消えた」

「はい。戻りましょう、皆の居る教会へ」

「ああ」

 周囲含め敵性存在の一切が居なくなったのを確認したカイネとリーゼ。お互いに目を合わせ歩みを進める。未だ炎の上がる街。どうやってこれを鎮火させるのかとカイネは思案に耽る中、その視界の端に見覚えのある建物が映り足が止まる。

「……カイネさん?」

「悪い、先に行っていてくれ」

「わかりました」

 若干訝しげな顔をしながらも教会へと足を進めていったリーゼを確認し、カイネは焼け焦げ倒れている看板がある路地裏の道へと進む。人気は無い。元々なかったのに加えてこの惨事だ。生きている人間は教会に逃げている以上、これ以上ここに留まる理由はない。それでもカイネは進み、そして奥にある、崩壊した一つの建物の前に立つ。

 壊れた全体像を上から眺め、ゆっくりと視線を下に降ろしながら膝を折る。崩れ落ちた木材が複雑に絡む最下層まで目を動かし、木材の隙間から覗く血の気の無くなった枯れた腕と、それが握る煤けた写真入りの額。

「……すみません、でした」

 沈痛な面持ちで、息苦しそうにカイネはそういった。その表情は目を瞑り、何かに耐える様な、そんな様子。力も熱も無い手を取り、傷だらけになりながらも額だけは決して話さなかったと見えるそれの傍の地面に手を置く。紫電が奔る。大地は丁寧にゆっくりと瓦礫を持ち上げていき、中で圧し潰されていた一人の老人の体が露出する。ヒビ割れたモノクルはそれでも主の顔に寄り添い、その主の顔は痛みに耐えながらもどこか満足気なものだった。

「……生憎、俺は神や死後を語ることは身分として決してありませんが」

 老人の体を、躯を救い出し、そして倒壊した建物の木材を集め棺を錬成する。

「それでも」

 彼が住み、彼が愛する者と過ごし、彼が愛したその家の名残で作られた棺に、その躯を納める。

「それでも、貴方がまた、貴方の愛した二人と再会できている事を、願わずにはいられません」

 そして、戦闘直後で細身の刀から鉄塊に戻した武器を担ぎ疲弊していた体に、更に棺を肩に乗せると通りに戻った。

「どうか安らかに。貴方に、何時かの温もりを」

 棺を乗せた錬金術師は、信じても居ない死後に想いを馳せながら、教会へと向かった。












 その背後に、炎を御する凍てつく風が吹いている事を、彼はまだ気が付いていない。

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