第10式 ボンバストゥス=アルス・マグナ

「退けッ! まずは非戦闘員を退避させろ!!」

「誘導は信徒に任せろ、使徒は各員祝福であの魔獣を抑え込め! いいか! 必ず複数人で囲め!!」


 怒号と悲鳴、それに合わせて崩れる家々と揺れる焔。逃げ惑う人々の足は何度も交差し、混乱は惑いを拡散していく。


 レストニア中央部。普段は田舎街ながら程々の賑わいを見せる道々は瓦礫と血痕の山に一変し、何処からか放たれた火の手は延々と広がっていく。フィアルド教信徒達が主導となって街の人々を非難させ、その時間を稼ぐべく祝福の力を使い応戦する使徒達が数人単位で街を走る。それらすべての視線を集めるのは、数週間前にレストニア周辺でフィアルド使徒四名を殺害し一名に重傷を負わせた不死生体である狼に似た獣だった。不許和音に似た唸り声と共に市民へと襲い掛かるのを、使徒の面々が必死に食い止める。

「うわぁぁぁああああ!!」

「やめっ……あがあぁあああ!?」

 誰かが死に、誰かの亡骸が転がる。最早個人の識別なぞ困難な入り乱れた状況に、二つの影が混ざり込んだ。

「……っ酷い」

「予想以上の火の手の速さだな……これは人為的と見るのが賢明か」

「悠長に考えるのは後です、二手に分かれてまずは撃退を! カイネさんは可能な限り不死生体を死滅させてください!!」

「了解」

 燃え盛る建物の間から大通りへと飛び出してきたのは、獲物を携えたカイネとリーゼ。眼前に広がる惨状に顔を歪めるリーゼは、状況から敵性存在を推測しようとするカイネへ指示を出すと弾かれるように前方へと走る。そして、目の前で今正に獣に牙を剥かれ食われようとしている市民の方へと駆ける。

「はぁああ!!」

 叫び、身の丈を超えるロザリオを上向きに獣の胴へと振り抜いた。ず、と肉に突き刺さる感触を確かめ、リーゼはロザリオと獣の接触点を支点に、後ろ跳び回し蹴りを放ち獣を建物の壁に弾いた。

「無事ですか!?」

「ぁ……あぁ……聖女様、ありがとうございます……!」

「感謝は要りません、今は教会の方へ避難を」

「は、はい!」

 尻もちをつき怯えきった表情の少女が礼を述べ教会の方へと駆けていくのをリーゼは見届ける。自分の来た方向と逆には獣の姿は無かったことを確認し、リーゼは再び走り出す。火の粉や熱を意にも介さず、襲い来る獣を一体、また一体と薙ぎ倒しながら逃げ遅れた市民を救っていく。

 薙ぎ払い、突き上げ、叩き落とし、弾く。巨大な十字架を振るう少女は、減る事の無い無尽蔵の様な生命力と体力を持つ無数の獣を、ただの一体も討ち漏らさんと戦場を踊る。骨を砕き、肉を断ち、息絶えたかのように見えた獣が無傷で再び向かってくる。以前に相対した獣達は核となる不完全な賢者の石の破壊で消滅したが、明らかに向上した戦略的行動の練度と狡猾さの向上に、核を破壊する間を作ることができずにいるリーゼ。何度か不死生体を相手にした経験のあるリーゼだが、ここまで統率の取れた獣数十体を同時に相手にした経験はない。次第に増える獣から受けた傷は、確かな実力を持つリーゼの心に焦りを生み出し始める。

(はぁ……はぁ……数が多い。住民の避難は粗方終わったのでしょうが、流石に疲労は誤魔化しきれませんね……!)

 救出と撃退を繰り返したリーゼ。痛覚を代償としているため外傷からの行動不能状態は起こる事は無いが、それでも蓄積する疲労に汗が滲む。少女の脳裏に過ぎるのは一人の男の姿。この惨事において現状決定打を持っているであろう、錬金術師を名乗り不死生体を殺す手段があると述べていたカイネの助けを何処かで待っている事に、リーゼは自分自身で嗤った。

 彼の男と共に過ごし始めて数週間。人柄については最早何も言う事の無い物であると理解しているが、前の街周辺での不死生体との交戦時で見た止めを刺せる力が、果たしてその時よりも強化されたと思える強さの獣にも通用するのかと疑念が湧く。疑ってしまえばそれまでなのだが、この生命の危機が真隣りにある状況でリーゼは僅かな懸念を増大させていた。

 思考が悪い方向へと流れていくのをどうにか律し、リーゼは変わらずロザリオを振るう。繰り返す迎撃で集中が一瞬、それこそコンマの間ではあるが揺れた。それを勘付いた獣が隙を突いて背後からリーゼの首元へ飛びかかる。

「しまっ――――」

 視覚では捉えていた、認識に狂いはない。だが、体を防御に回すには、時間がほんの僅かに足りない。獣の牙はそのまま少女の首に――――。

「悪い、来るのが遅れた!」

 喉へと襲い掛かってきた獣は、その首を絶ち切られリーゼの横を過ぎ地面に転がった。眼を動かせば、返り血で顔が汚れたカイネが、獲物である鉄塊の剣を勢いよく振り払い、付着していた血を払いながら歩み近寄ってきていた。よくよく見てみれば、大剣の先端には掌に包まる程度の賢者の石が貫通していた。ヒビが広がり、やがて粉々に砕けたと同時に首の無い獣は崩れるように消えていった。

「……助かりました」

「西側に居た不死生体は確認できる限り殲滅した。だが状況は芳しくない」

「教えてください」

「交戦した使徒の内凡そ7割が負傷し戦闘続行は不可能、そいつらは一カ所に集めリゼとシスター達が治療にあたっている。市民も負傷していたりショックでまともに行動が出来ない状態だ。獣はいくらか減らせはしても、肝心の保護対象が枷になる」

「エルシアは?」

「今後この獣達の大本であろう奴が出る可能性を考え、教会の聖堂で天端通しのために待機している。現状戦闘可能でありかつ持続的な交戦ができるのは俺達だけと言っていい」

 大剣をくるりと回し、地面に突き立てるカイネ。周囲へ視線を巡らせつつ警戒を行う彼からの報告に、リーゼは苦い顔を浮かべる。フィアルド教会レストニア支部における使徒の人数は決して少なくない。平均年齢こそ他支部より低くはあるが、魔獣討伐も複数人で可能であり、獣を相手にした場合の技術も決して低い訳ではない。

 しかし、今回相手にした獣は従来の魔獣とは一線を画し、リーゼ自身も以前相対した不死生体を彷彿とさせる印象を否応なく感じさせられた。生半な膂力技術では獣の皮に傷を入れる事すら適わない。殺したと思っても死なない、どれほど嬲り貫いても何事も無かったかのように立ち上がる光景は、肉体に疲労を蓄積させ、精神にダメージをもたらす。終わらない戦いをさせられているように感じれば、戦意も体力も消えて当然だ。使徒の大半が戦闘続行不可になった原因もそれだろうと、リーゼは結論付けた。

 だが、だからと言って止まれる訳ではない。現状カイネとリーゼのみが有効打を望める以上、ここで二の足を踏んでいる場合ではないと、リーゼはロザリオを握り直し、髪を一度振る。

「……今は獣を殺しましょう。いずれ全部殺しきれます」

「慌てるな。取り敢えず体勢を立て直すために教会へと戻る。道中獣を殺していきなるべく人の集まっている教会周辺に獣の脅威を無くすぞ」

「貴方の西側殲滅は信じていいんですね?」

「俺の確認できる範囲では確実だ。信じられないのなら自分の目で確認しに行くといい」

「……いえ、大丈夫です」

 リーゼは心の中で自分自身に小さく舌打ちをした。いくら疑念を抱く相手とは言え、カイネがこの行き詰った状況を打破する光明を示してくれたのは事実。故にこそ獣は確実に数が減っていき、恐らく以前では考えられない程に死傷者は少ない。意地の悪い問いで余計な時間をかけたその行いに、少女は自己嫌悪する。普段であればしないその行為に、本人が最も嫌悪していた。

 だが当のカイネと言えば、一切気にする素振りも無く大剣を地面から引き抜く。それと同時に紫電が走る。バチンと甲高い音が鳴ったかと思えば、身の丈を大きく越し分厚く重厚だった剣は鍔や柄ごとその大きさも形状も変化していき、やがて緩く弧を描いた、細く薄く、一見すれば実践運用などできない飾り物の様にも見える細身の剣になった。

「それは……?」

「俺が本来得手としてる武器の形状だ。この形状を維持させるのにバカにならないリソースを割くから普段使いはしないが、今は緊急だ。出し惜しみはしない」

「なるほど……」

「行くぞ」

 カイネはそう言い、リーゼの前をゆっくりと駆けだしていく。それにリーゼがついて来るのを確認したカイネは、ぐ、と足に力を籠める。わざとらしい力の溜めの間をリーゼは見逃さず、彼女も同様に足に力を籠める。

 そして、二人の姿は小さな砂塵を残して消えた。





「――――…………」

 フィアルド教会聖堂、唯一神フィアルドを象った巨大な偶像が鎮座するそこに聖人エルシアは立っていた。フィアルド式の合掌、親指・人差し指・中指を合わせ、薬指と小指を交差させるそれを静かに構え、祈る様に像へと向く姿は正しく聖女のそれだった。

 静謐の空間を微かに揺らすのは、外で怪我人の治療や周囲の警戒をしている信徒と使徒、そして市民の声だった。

「――――な! 怪我の重い人間から――――」

「――――い……いたぃ……」

「――――け! 応急処置でも何でもいい、やるんだ!」

 悲痛、惨憺たる状況。ほんの少し前までそこに合った日常が、泡沫の幻想だったのかと錯覚するほどあっけなく消え去った。そんな状況で、それでもエルシアは浅慮にも動き回る事はしなかった。日常生活は問題ないとはいえ盲目の身である彼女は、自分が現場で右往左往する事による時間のロスが生まれることを冷静に判断し、指示だけを出すと聖堂内で最低限の護衛のみを残した。

 目的は単純。エルシアの持つ神力の発動のため。

 ――――天端通し。過去・現在・未来という範囲を、場所を問わず映像として見ることができる力。『天』の『端』しまで見『通し』渡すその力は、失明という不可逆の代償を支払う対価に、例外無く世界の全てを時空間を超越して観測することができる。制約として、偶発的に発動する場合は神力による体力などの消耗が少ない代わりに見ることができる事象はランダム。だが、今エルシアが行っている対象を限定した意図的な能力行使の場合、能力行使のための力の溜めが必要になり、消耗も激しい上に対象限定の内容が厳密緻密になればなるほどその消耗は更に大きくなる。場合によってはその後しばらくまともな行動や思考ができない程になるため、今エルシアはレストニア市街に限定した天端通しのための祈りを行っている。あわよくばこの大規模な災害の元凶を知ることができれば、と願いながら、彼女は目を伏せる。

「敬虔な神の使徒とやらは市民が悲鳴を上げて泣き叫ぶ中、神様にお祈りをするみたいだな?」

「――――……」

 誰もいないはずの聖堂内。聞こえるとすれば微かな人々の叫びか自身が漏らす声のみのはずのそこに、若干幼さの残っている低い男の声が聞こえてきた。

 エルシアの体が強張る。聞き覚えの無い声。この状況で、身元の分からない人間が背後に居る恐怖は尋常ではない。視覚を失っており、自衛の手段も少ないエルシアであればなおさらだ。しかしそれをおくびにも出さず、エルシアは祈りの手を下げ、ゆっくりと振り返る。

 視覚は無い。だが認識はできる、術がある。

 視覚が不自由な状況で周囲の状況を把握する手段として、超音波とその反響を用いる反響定位エコーロケーションと呼ばれるものがある。音波を発し、反響して返ってくる方向とそれを感知するまでの時間から物体の形状や距離などを知ることができる。本来は視力を持たない、あるいは光からの情報伝達が遅い場所で生きる生物が超音波を用いて周囲の状況を把握するために使われるものだ。人間でも、道具などを用いて音を出し似たようなことができる。

 ではエルシアはどうするか。

「――――――――」

 音も無く、動作も無く、当然視認する事もできない波紋が広がっていく。それは神力の応用。本来神力を扱う時にそれそのものが空間上に放出される必要はないが、エルシアは自分自身の突出した傾向、探知能力をより高いレベルとするため、神力そのものを体表面より放出。波であり粒子のように広がる神力は音波や電波の様に物体から反響し、エルシアに周囲の様子を伝えてくる。

(……彼の者は一人、周囲に不審な存在は無い。それはつまり、私の近衛も居ないという事ですか)

「だんまりか、まぁいいけどな。単刀直入で悪いけど、アンタのその力、邪魔なんだわ。世界全土を意図的だけじゃなく、限定不可とは言え偶発的な発動も低コストで行えると来たもんだ。こっちとしちゃたまったもんじゃないぜ? その偶発性が俺たち人間からの視点での『偶発』だとしたら、それこそ路肩の石どころか崖際の巨岩だ」

「……他人の敷地に無断で入り殺害予告。中々どうして、不思議なお方ですね」

「殺すのに予告なんかするかよ、侵入にもな。そんなもん自己顕示欲の強い盗賊にでもさせてろ」

「生憎、粗雑なお方の知り合いは存じません」

「そうかい、なら――――」

 ぷつん、と。声が途切れた。そしてごとりと何かが落ちる音。最後に聞こえたのは、バチリと何かが爆ぜる音。

「遅くなりました、エルシアさん」

「カイネさん、ですか?」

「はい。嫌な感覚がして来てみれば、案の定。どうにも最悪な状況です」

「それはどういう――――」

「――――……ぁあ、いってぇなぁ」

 エルシアの顔が強張る。音と反響定位で聖堂内での一連の変化を彼女は理解していた。見慣れない形状の武器を持ったカイネが、侵入者の首を刹那の間に斬り落とし、エルシアの側に来た、と。侵入者は死んだはずだ。あの音は間違いなく頭部が落下した音で、探知した情報でも胴に首は無かった。

 それなのに、今聞こえてきた声は紛れも無く侵入者の声。何故と問う余裕もないくらい、エルシアは動揺した。それもそのはず。エルシアにとって、殺しても死なない存在を目の当たりにしたのはこれが初めて。摂理を逸脱した存在を知っていてなお、実感として感じた異物感を当然に受け入れるには、それはあまりにも異質だった。

「誰かと思ったら――――はぁん、なるほどねぇ。お前が」

「お前があの不死生体の大本か」

「根拠は?」

「その肉の内側に埋まる赤色の叡智、賢者の石の存在」

「はっはは! コイツの感知ができるのかよ! 流石は当代一の錬金術師ってかぁ?」

「御託はいい、答えろ」

「逸んなって……まぁそうだな。ご明察と言っておこう、訂正も添えてな」

「訂正……?」

 カイネの眼前。胴と分かたれた頭部から軽薄で老獪な声が発される。ゆっくりと持ち上げられた頭部は切断面同士が接着し、何事も無かったかのようになる。そして確認できたのは、赤褐色の癖っ毛と眠たげで三白眼の金眼が目立つ、二十代になりたてかと思われる青年の姿だった。

 くつくつと喉を鳴らす青年にカイネが怪訝な顔で問うと、青年は傍にあった教会のベンチの背もたれに腰掛ける。

「俺の名は……まぁここではアウレオルスとでも名乗っておこうか。お前と同じ称号を持つ、お前の先輩だよ。鐵の錬金術師。そしてあの獣含めた賢者の石を核にした生物はそんなちゃちな名前じゃあねぇ」

「ではなんだ」

「超弦人形――――それがアレの名前だ。詳細なんざ言わなくてもお前なら大まかに把握しているだろ?」

「…………」

「……アウレオルス、貴方に問いたいことがあります」

「なんだ?」

「何故、長きにわたって獣だけが襲ってきていた状況から、貴方が直接出向く事になったのですか? 数十年ではありません、数百年に渡って維持していた状況を、何故貴方は――――」

「気分――――」

「っ……!」

「――――なんて衝動的な事をするわけないだろ? あるよ、理由」

 指先で頭を掻きながら、何時の間にか取り出していたスキットルから褐色の液体を口内に流し込み、喉を鳴らす。そして、変わらぬ眼差しで不敵に笑う。

「動き出したんだよ、特異点がな。それを両天秤にしたいのが俺らだ」

「……特異点? 両天秤? 一体何を言っているのですか?」

「アンタにゃ関係ない、これは俺達錬金術師の問題だからな」

「なら俺が問う。特異点とは何だ? お前達が無辜の人々を脅かす理由は――――」

「無辜、無辜ねぇ……はっははは!! 本当にそう思っているのかよォ鐵の錬金術師ィ!」

「…………」

「無辜の人間達は単純な理由と根拠の薄い結論で一つの民を亡ぼすか? まさか一部の人間だけが悪いとでも思ってるんだったら業腹モンだ。いいか、人間が抱える本質的な攻撃性が色濃く発露するのは『一つの敵を前にした正義を掲げる集団』だ。それは個の悪なんざ鼻で笑える邪悪さだ。わかるか? 抹消された少数派はそうした巨悪ならぬ『巨善』に滅ぼされるんだよ。俺達のようにな」

「…………」

「問おうか、若き錬金術師。今お前が立つ場所は何処だ? このクソッタレ国家か?」

 問われ、口を閉ざすカイネ。その様子にエルシアはざり、と。無意識に後退りをした。

 傍らに立つ、つい今まで疑う事の無い存在が、突然正体不明になる恐怖。それに襲われるエルシアは、圧倒的な生命の危機に自分の体温が下がっていくのを感じる。光の少ない、外の火災の明かりのみでようやく見えるカイネの横顔を窺う盲目のエルシアに、仔細を知る術は無い。

 それを知ってか知らずか、カイネは小さく息を吸い、吐くと、手に持っている細身の剣を頭上に掲げる。

「っ……!」

 久しくする事の無かった、恐怖に目を瞑る動作をするエルシア。身を縮こまらせるエルシアを横目に、カイネはその剣を――――エルシアに触れないように、エルシアの体の前面へ振り払った。

「え……」

 無論、エルシアには視えている。それ故に、自分が想像した最悪の結果にならなかったことに、気の抜けた声が出る。カイネはそれを気にすることなく前方、アウレオルスに向き続ける。

「過去の清算は今は関係ない。俺は俺の全うするべき職務を遂行するため、利用できるものはなんだって使う。情や義理を忘れはしないが、それを第一にはしない。お前が何を言おうと、俺のやるべきことに揺らぎはない」

「……そうか、残念だ。まぁ勧誘は続ける。気が向いたらいつでも歓迎してやるよ」

「断る」

 カイネの即答に、アウレオルスはお道化たように肩を上げて笑う。何時の間にか、小刀で傷つけたと思しき指の傷から滴る血液が床を濡らし、そこからボコボコと音を立てて毛の生えた手足が生えてくる。

「はっはは、何時までその強固な芯が持つかねぇ。そんじゃ俺はこの辺で――――」

 そう言いかけたアウレオルスの動きが止まる。動いていた口は止まり、何かを確認する様に目を巡らせる。それを見たカイネは、ほんの少し、誰に気付かれるのかと言われる様な口角の上がった表情でアウレオルスを見る。

「逃げるか? 生憎、お前に牙を剥かんと虎視眈々と潜んでいた虎はそろそろ限界みたいでな」

 その言葉が終わると同時に、教会上部にあるガラス窓がけたたましく割れる音が響く。そして、アウレオルスの居る場所へ何かが落下し、土煙を上げた。

「っけほ」

「大丈夫ですか? エルシアさん」

「え、えぇ。これは一体――――」

「貴女を心配したアイツが来ましたよ」

 そういうカイネの視線の先、土煙の中から、巨大なロザリオをくるりと肩に乗せ、こちらに向いて佇む人影が現れた。

「シスターリーゼ! 無事だったのですね!」

「えぇ……申し訳ありませんカイネさん。仕留めそこないました」

「いや、いい。これでこの建物から一旦出たはずだ。痕跡を辿って追撃する。リーゼも来てくれるか?」

「はい、勿論」

 苦い顔でカイネへ謝罪するリーゼに、カイネは然して気にした様子も無く答える。そうしてエルシアの無事を認めたリーゼは、エルシアへ向かって一礼すると教会の外へと飛び出していった。

「エルシアさん、貴女は一旦信徒達が治療を受けている広場へ行ってください。現場の統率は貴女が居ないと真には纏まらない。あの男は俺とリーゼが、貴女はリゼと治療の方へ」

「……わかりました、ご武運を」

「……ありがとうございます」

 カイネはリーゼに倣い、一度礼をする。下げた頭をもう一度上げると、エルシアは判別のつきにくい表情でこちらを見ていた。

「どうかしましたか?」

「……貴方は、私達の味方なのですか? これからも、同じ方を向いて、その剣を振るって頂けるのですか?」

 若干、弱々しい声色の問い。先程生まれた懸念が、エルシアの思考を鈍らせる。頭では大丈夫だとどれだけ言い聞かせても、本心では拭えない不信感。それを感じ取ったのか、カイネは答えた。

「……向いてる方向は違いますよ。でも、今は貴女を守る剣の一つです」

 そう言い残し、カイネは赤の混ざった黄の小さな稲妻を残しその場から消えた。

 エルシアは暫くの間、言葉を発することなくその場で立ち竦んでいた。

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