第36話 点が線となり面となる
雅美さんが蓼科へ行った日の夜、私が初台御殿へ帰宅すると(あれ以来ずっと寝泊まりすることになっています)、お出迎えに来てくれた郁さんに「良子夫人がお待ちです」と言われました。良子夫人とは朝比奈ホールディングスの専務で社長の奥様、つまり雅美さんのお母様です。
「専務が?私に?」
「はい、そうです」
なんだろう。雅美さんに何かあったのかな? ソワソワする。
郁さんに聴いても仕方がないので、とにかくそのまま離れから母屋へ向かいました。ドアをノックすると、
「どうぞー」と専務の声が。恐る恐る入ると、専務はまだ仕事をしている最中の様子で、スーツ姿のままでした。
「あら、お帰りなさい、あ、お帰りなさいなんて、変ね、雅美のせいでここに寝泊まりさせられているのに。本当にごめんなさいね。でも、毎日顔を見てるから、ついつい言ってしまうの」
「あ、いえいえ、専務がお呼びなんて珍しいなと。。。」
専務は、何事にも動じないことで社内では有名ですが、この時も至って冷静に、
「すぐ済むから」
「はあ」
専務の部屋は二十畳程の執務室がまずあり、その奥に寝室やクローゼットがあります。執務室の左手にウォールナット製の大きな机があり、その横に小さな冷蔵庫が。専務は奥のソファを指差して、
「まあ、そこにお座りになって、くつろいでください。ミネラルウォーターでいい?」
と言って、私に一本ペットボトルを渡しました。ちょっとした緊張状態が張り詰めました。私はソファに座り、一口飲むと、
「あの、何か私。。。」
専務は机に着いて深々と椅子に座り、端的にこう言いました。
「今日、警察から連絡が入りました。雅美からあなたにも知らせるよう頼まれたので伝えます。代々木八幡の死体は社長でした」
専務は居ても立っても居られず捜索願を警察に出していたこと、警察はその日中に代々木八幡の死体と社長のDNAを照合したことを付け加えました。やはり警察もあの遺体が社長ではないかと思っていたんだ。
何故か驚きはありませんでした。こんなことを言っては憚れますが、私も雅美さんも「偶然過ぎるけれどもひょっとしたら」という気持ちはあったのです。でも、根拠のない想像を語るのは良くないと口に出していなかっただけ。むしろ驚いたのは「雅美さんからではなく、なぜ専務から?」でした。私は何度も雅美さんに電話しているのに電話に出てくれません。メールもしました。全く返信がありません。とても心配しているのに。
兎に角、社長はあの気味の悪い手紙を読んでいないのにあの日あそこへ行ったことになります。そして殺された。
***
私が磯部さんの家を辞去しスマートフォンを見やると、電話のアイコンに“3”の数字が。タップするとそのうちの1件に留守電が。寺岡支店長のナンバーでした。留守電につなぐと支店長はすごく興奮し上ずった声で、
「ああ、寺岡です。逗子支店の寺岡です。おお、おつかれさまです。お、お伝えしなければならないことがあります。でん、電話じゃダメです。こ、これから、今から、東京へ参ります。この留守電を聞いたら、それはもう、何時になってもいいからすぐ、すぐに折り返し電話ください。必ず、必ずお願いします。では」と言っていました。
私は彼の声の調子から“支店長は気がついたんだ”と思いました。私も蓼科へ来てようやくわかりました。これで、たった一つを除いて、粗いですが、点が線となり線が面となって解が見えてきました。しかしその解は、脳は認めても心は受け入れ難いものでした。深く深くたれこめる靄がひらけたその先は、あまりにも悲痛で不条理な人生となった二人の意趣遺恨が生み出した一面に広がる底なし沼であり、父と私はその沼にもう飲み込まれていたのです。気味の悪い手紙に書かれていた“餓鬼に喰われる”とはこのことだったのです。おそらくもう父はこの世にいない。偶然が過ぎるけれども代々木八幡の遺体が父である可能性が高い。ここまできたら、いっそ、なにもかもご破算にして一切を忘れ日常を送る選択肢もありますが、でもその前に、私には残りの一点を確かめる必要がどうしてもありました。それを確かめない限り、この先どうやって生きていけばよいか、何を拠り所に生きればよいかわかりません。だって餓鬼がこうちゃんだとすると。。。ああ、なんて受け入れ難いことでしょう!
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